その頃の王国(sideアレックス)
レイチェルに婚約破棄を告げたあの日以降、私の寛大なる慈悲に、少なくともガレッド侯爵家から何かしら連絡が来ると思っていた。謝罪か、あるいは礼か。ところが、丸一日を過ぎても何の知らせもない。
「……まだ何もないのか?」
執務室に控えていた侍従へ尋ねる。
「はい。ガレッド侯爵家からは、まだ何も」
「そうか」
私は椅子に深く腰を下ろした。まったく、レイチェルは昔から気が利かない。普通はあれほどの騒ぎを起こしたのだから、せめて一言くらいあるものだろう。それとも、まだ頭を冷やしている最中なのか。そう考えれば、今すぐ連絡がないことにも納得できる。
「……いや」
私は考え直した。こちらから呼び出せばいい。婚約は破棄したとはいえ、ニーナと結ばれた際には、仮にでもレイチェルは自分の親族となるのだ。ニーナのためにレイチェルを嗜めることも、今後は婚約者である自分の務めなのかもしれない。
「ガレッド侯爵家へ使いを出し、レイチェルに来るように伝えろ」
「かしこまりました」
侍従が一礼して部屋を出ていく。これでいい。レイチェルも、いつまでも意地を張っているわけではないだろう。
その日の夕方。
「殿下」
先ほどの侍従が、少し困ったような顔で戻ってきた。
「どうした?」
「ガレッド侯爵家へ使いを送りましたところ…レイチェル様は、昨朝すでに屋敷を出られたとのことです」
「……何だと?」
思わず聞き返した。
「どこへ行ったんだ?」
「それは、わからないとのことでした」
「わからないだと?」
私は眉をひそめた。侯爵令嬢が、何も告げずに屋敷を出た? 一体、何を考えている。
「国外へ行ったという話は?」
「わかりません。ですが、国外追放を受け入れられていたのなら、それも考えられるかと」
「そんなはずはない」
国外追放を取り消したのだから、国外へ出るつもりだったとは到底考えられない。今まで貴族として生きてきた者が、簡単に他国で平民として暮らしていけるわけがないのだから。
「……まったく。何も言わずに勝手に出ていくとは、どれだけまわりに迷惑をかければ気がすむんだ」
私は思わずため息を吐いた。ふと、婚約破棄後のレイチェルの顔が頭に浮かぶ。
私に何を言われても小さな声で「はい」と答え、必要最低限の会話すらしようとしない陰湿な女。それが、あの時はまるで別人のようだった。
本気で国外に追放してやろうと思っていたわけではない。そう言えば、泣き縋り、自分の非を認めるだろうと思ったからだ。レイチェルが自分の側から離れることも考えられなかった。なぜなら、レイチェルは私のことを愛しているからだ。だからこそ、私の近くにいる場所を与えてやったのだ。
だが予想は外れ、婚約破棄を告げたときも、国外追放を告げたときも、妙に落ち着いており、レイチェルはその場から振り返ることなく立ち去った。
「殿下いかがいたしましょう?」
侍従が声をかける。
「もう一度、侯爵家へ伝えろ」
私は迷わず答えた。
「レイチェルを探し、登城させるように、と。王家からの命令だと伝えればいい」
「承知いたしました」
侍従が下がる。その背中を見送っていると、扉の外から控えめな声がした。
「アレックス様」
「ニーナか?」
「はい」
入ってきたニーナは、いつものように少し不安そうな顔をしていた。
「どうした?」
「お姉様のことなのですが……」
その言葉だけで、ニーナが何を気にしているのか分かった。
「心配するな。レイチェルはすぐに来るさ」
私はそう言って、ニーナを安心させるように微笑んだ。
「……本当でしょうか?」
「当然だ」
私は確信を持って答えた。
「国外追放を取り消してやったのだ。これからは、ニーナを支えることも許してやった。あれほどの慈悲を無駄にするほど、レイチェルも愚かではない」
「でも……お姉様は、私のことを嫌っていましたから」
「君が嫌われるようなことをしたわけではない。悪いのはレイチェルだ。ニーナは何も悪くない」
「殿下……」
ニーナが顔を上げる。
「私はただ、お姉様にも幸せになってほしかっただけのです」
「分かっている」
「アレックス殿下が、あれほどお優しくしてくださっているのに、お姉様は、いつもご自分のことばかり」
ニーナは悲しそうに目を伏せた。私はそんな彼女を見て、胸の奥が痛んだ。どうしてレイチェルは、ニーナにここまで酷くできるのだろう。
「ニーナが気に病む必要はない」
「はい……」
安心させるように抱き寄せると、ニーナは小さく頷いた。
その顔を見ていると、やはりレイチェルを許す必要などなかったのではないかと思う。
しばらくして、レイチェルの代わりにガレッド侯爵がアレックスの元を訪れた。やはり、レイチェルは本当に、何も言わずに屋敷を出たらしい。侯爵も困惑しているようだった。
「まったく。あの子は昔から、自分のことばかり考えるところがありまして」
「そのようだな」
「ええ。今回も、周囲への配慮が足りなかったのでしょう」
私は納得した。やはり、レイチェルは昔からそういうところがあったのだ。自分の不満ばかりを抱え込み、誰かに何かを言われれば黙り込む。そして、その鬱憤をニーナにぶつけているのだ。ニーナのように、もっと素直で笑顔でいればいいものを。いつも疲れたような顔で静かに微笑むレイチェルを見る度に思っていた。
それよりも、今はニーナのことの方が重要だ。
「レイチェルには、早く戻ってくるよう伝えておけ」
「はい」
「それと、国王陛下が戻り次第、正式にニーナとの婚約発表を行うつもりだ。その後は未来の王太子妃となるため、ニーナには王宮に移ってらうこととなる」
「それは……! なんと喜ばしいことでしょうか。レイチェルと違い、ニーナはきっと殿下のお役に立てることでしょう。どうか、ニーナを宜しくお願い致します」
「もちろんだ。正式な決定はまた後日に知らせる」
その言葉に、侯爵は頭を下げた。
「嬉しいですわ。私、もっと殿下をお支えできるように頑張ります! お姉様も、一緒に祝って欲しかったのですけれど……」
レイチェルは少し頭を冷やせば戻ってくる。戻ってきたら、予定通りニーナを支えてもらえばいいだろうと、寂しそうなニーナに告げて侯爵家を後にした。だが、次に届いたのはレイチェルが亡くなったとの報せだった。




