まずは腹ごしらえと好奇心の確保です
ユグノイア帝国へ向かう船に乗って、一日が過ぎた。船旅が三日だと聞いたときは長いと思ったけれど、実際に乗ってみれば、思っていたほど退屈ではない。
甲板へ出ればどこまでも続く青い海と空を眺めていれるし、船内には商人が小さな露天を開いていたりと、退屈はしなかった。なにより、食事に興味がそそられた。
「フローラ様、そろそろお食事のお時間です」
「もうそんな時間? それと、人目があるところではそのら堅苦しい言葉使いももう使っちゃダメよ」
手すりから離れ、振り返ると、リズが少し困ったような顔をしていた。
「うぅ。船の食堂へ参りま、…行きましょう」
「分かったわ」
船の食堂は、思っていたよりもずっと簡素だった。侯爵家で食べていた食事とは比べるべくもないが、船内では主に前世で言うようなビュッフェスタイルだった。懐かしい気持ちと今世では初めての形式に心が躍る。
大きな食卓にいくつかの料理が並べられ、乗客たちはそれぞれ好きなものを取り分けている。硬そうなパンとスープ、それから焼いた肉や野菜。味付けも素朴な物が多い。生野菜や果物はほぼなかった。しかし、海の上であるからか、魚料理は豊富だった。色とりどりなところは何とも食べにくさを感じたが。
私たちは空いている席に腰を下ろした。
「こういう食事も楽しいものね」
侯爵家では、食事の時間になれば決められた料理が決められた順番で運ばれてきたが、これはこれで悪くない。
私はパンを一つ手に取り、フィッシュバーガーもどきを作った。あぁ、ここにタルタルソースがほしい…。日本人の記憶を思い出してしまった今、侯爵家にいた時より舌が肥えた気がする。豪快にかぶりつく私を横目に、リズが複雑そうな顔をする。やっぱり、結構硬いな。
「……美味しい」
「本当ですか?」
「ええ。もっと味気ないものかと思っていたわ」
「家のお食事と比べてはいけませんよ」
「比べてなんていないわ」
そう言いながらスープを口に運ぶ。魚介がたっぷり詰まったそれは、塩胡椒だけでも十分に美味しかった。コンソメがあれば、などと贅沢は言わない。
しばらく食事を続けていると、向かいに座ったリズが何かに気づいたように手を伸ばした。
「あ、お嬢さm——」
私は反射的にパンを掴んだ。そして、リズの口へ押し込む。
「んぐっ!?」
「……今、何て言おうとしたの?」
リズは目を丸くしたまま、口の中のパンをもぐもぐと咀嚼する。
「……フローラ様」
「よろしい」
私は満足して自分の食事へ戻った。
リズが恨めしそうな顔で私が突っ込んだパンを食べている。
「もう。まだ慣れないのね」
「申し訳ありません。長年そうお呼びしてきましたので……」
「私もまだフローラという名前に慣れていないもの。お互い様よ。でも、次にそう呼んだら私もリズ様って呼んで敬語を使いますね」
「それだけは絶対にやめて下さい!」
「あははっ!」
真っ青な顔で必死にぶんぶんと首を振るリズに、思わず声を上げて笑った。そして、こんなに笑い合える旅にしてくれたリズに対して感謝した。やっぱり、どこかで一人は心細かったと感じていたのだ。リズに伝えたところで、「なんてことないですよ!」と迷いなく返ってきそうだけれど。
ふと窓の外を見る。海は穏やかだった。
レイチェルという名前を捨てて、フローラと名乗るようになってから、まだ一日と少し。フローラは、お淑やかに微笑む淑女ではない。声をあげて、快活に笑う町娘だ。だから、これでいい。
「……そういえば。帝国に着いたら、まず何をするおつもりですか?」
差し出したフィッシュバーガーを食べながら、リズが尋ねる。
「救護院を探すわ」
私の答えは決まっていた。
「救護院、ですか?」
「ええ」
私は食後のお茶を飲みながら続けた。この世界のお茶は一般的に紅茶だが、船内ではチャイの様な甘いお茶が配られていた。美味しい。幸せを感じていると、リズからの視線が痛いので話に戻る。
「教会の近くに設けられていることが多いわね。主に負傷者を受け入れる施設よ」
私自身、治癒術師として救護院に出入りした経験はある。
癒しの手の一族だからといって、誰もが優秀な治癒術師になれるわけではない。私の治癒術は平均程度だったけれど、それでも怪我をした人を治したことは何度かある。そして、治癒術だけで全てを済ませられるわけではないことも知っている。
「傷の手当てといっても、基本的には治癒術で治して、それ以外では本人ができない場合に包帯を巻くくらいね」
「では、そこで働かれるのですか?」
「そうするつもり」
私はあっさり答えた。
「何度か治癒術師としての経験はあるもの。平民として生活を始めるなら、まずは働き口が必要でしょう?」
「なるほど……」
リズは納得したように頷いた。
私が救護院で働くことに、特別な不安はなかった。少なくとも、何をする場所なのかは知っているから。問題は、ユグノイア帝国の救護院がどんな場所なのかということだけだ。
「それに、救護院なら住み込みで働ける可能性もあるわ」
「でしたら、少し安心ですね」
「そうね」
私は頷いた。
「あの、私はどうしましょう…? 治癒術は使えませんが…」
「……」
「……」
しばらくの間見つめ合っていたが、耐えられず視線を逸らした。
「考えてないんじゃないですかぁー!」
リズの泣き声が響き渡った。
とりあえず、救護院に着いてからはリズは私の助手と言うことで無理矢理話を通すとして、無理なら他の仕事を探すということで落ち着いた。隣でリズが何やら、「大丈夫です。私のことなんて。フローラ様はリズが立派に育てて見せますけれども。私のことなんて」とブツブツ哀愁を漂わせていた。感謝はしているが、ちょっとめんどくさいかもしれない。
甲板へ戻ると、海風が強く吹きつけてきた。立ち直ったリズが私の手を取る。
「寒くないですか?」
「大丈夫よ」
手すりへ近づき、海を眺めようとしたそのとき、少し離れた場所にいた男たちが何かを取り出した。
「……あれは?」
目を凝らす。小さな金属製の道具だった。 男の一人が魔石らしきものを嵌めると、淡い光が灯る。
「魔道具でしょうか」
リズも興味深そうに眺めている。
「たぶんね」
男たちは冒険者らしい。道具を確認しながら、何やら話している。
「ユグノイアでは、ああいう魔道具が盛んなのよね」
「港で聞いたお話ですね」
「ええ」
魔物避けや探索用。冒険者が使う魔道具なら、私もいくつか聞いたことがある。しかし、バイディン王国では冒険者用の魔道具は希少だった。それは、癒し手の一族がいることも一因となっている。他国より治癒術師が多いバルディン王国では、魔物討伐にてギルドや騎士団が赴いた際に治癒術師も同行するのが当たり前だったからだ。魔道具も基本的には街灯などの公共の場での使用で、平民は魔道具を持つことはなかった。なので、レイチェルも貴族として魔道具についての知識はあるが、実物を見ることは少なかった。
こうして実際に使っているところを見ると少し興味が湧いた。魔道具は便利だ。けれど、誰もが気軽に買えるほど安いものではない。他国の冒険者は命懸けだからこそ、多少の値が張っても魔道具を購入するのだろう。だからこそ、どんなものが作られているのか気になる。
「ユグノイアには、変わった魔道具師もいるそうだし」
「変わった、ですか?」
「港で聞いたでしょう?」
「ああ……」
リズが苦笑する。
「確かに、そういう方がいる話しは聞きました」
「楽しみね」
「魔道具を見るのがですか?」
「それもあるけど、知らない国を見るのが楽しみなの」
「フローラ様」
「何?」
「本当に、吹っ切れた様子ですね」
「あら、私があんな奴に未練があるとでも?」
「いえ! でも、昨日からのお変わりようが凄くて…」
思わず目を瞬いた。
「それは、そうかもね」
「はい。ですので、私も変わらねばなりませんね、フローラ…さん」
「ふふっ。頑張ってるじゃない、リズちゃんに昇格しましょうか?」
「もー! 茶化さないで下さい! いい感じで決まってたのに!」
「……でも、リズはそのままでいいわ。変わる必要なんてない」
「え!? お嬢様呼びでいいってことですか!?」
「それはだめ」
「えー!!」
私は笑った。もしかすると、新しい土地に対する不安を隠したかったのかもしれない。でも、きっと大丈夫。だって、私はもうフローラだから。そして、今度は海の先を見据えた。
そして、ついに船の先に、陸地が見えた。
「……あれが?」
「はい。ユグノイア帝国です」
船員の声が聞こえ、私は甲板へ出てもうすぐ着くであろう港を眺めた。
バイディン王国とは違う建物。異国の服装や港を行き交う船。
ここから先は、私の知らない世界だ。私は小さく息を吐いた。
「……さて。まずは、仕事を探さないとね」
こうして私は、ユグノイア帝国へ足を踏み入れた。




