今日から、もう一度生まれ変わります
ここからは主人公一人称になります…!
港町に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。王都を出てから、二つほど街を経由して馬車を走らせてきたけれど、ここまで来ると空気が違う。
潮の匂い。遠くから聞こえる船員たちの掛け声。荷物を運ぶ人々が行き交い、港へ向かう馬車がひっきりなしに走っている。
「わあ……!」
思わず窓から身を乗り出した。
「お嬢様、危ないですよ」
「分かっているわ」
リズにたしなめられながらも、私は窓の外を眺め続ける。海を見るのは久しぶりだった。というより、この世界に生まれてから、こんな大きな港を見るのは初めてだ。
侯爵家にいた頃は、旅行をする機会なんてほとんどなかった。
婚約者だったアレックスとどこかへ出かけることもなかったし、父と一緒に領地を視察することもなかった。必要な場所へは馬車で移動する。それだけ。
だから、こうして何の目的もなく知らない場所へ向かっていることが、妙に新鮮だった。
「ここから船に乗れば、国外へ行けるのね」
「どの国へ向かわれるかは、まだお決めになっていないのですか?」
「ええ。そこまで考えてなかったわ」
昨夜から、一刻も早く王都を離れることだけを考えていた。我ながら計画性がない。
……まあ、今さらね。
「船は何日かごとに出ているの?」
「行き先によりますね。大きな港ですので、複数の国へ向かう船があるはずです」
「それなら、行き先を決めてから船を探せばいいわね」
「ずいぶん気楽ですね、お嬢様」
リズの声に、私は肩をすくめた。
「お嬢様、は禁止でしょう?もう令嬢じゃないのよ」
自分で言っておきながら、その言葉が思った以上に胸に響いた。
そうだ。もう、レイチェル・ニール・ガレッドではない。少なくとも、これからはそうであってはいけない。
この先、私が何者なのかを知られるわけにはいかない。王家に追われないために、そして、別の人生を始めるために新しい名前を決めていた。
「…これからは、フローラと名乗るわ」
ふと、口から出た。
「フローラ、ですか?」
「ええ」
リズが首を傾げる。
「どうしてそのお名前に?」
「……なんとなく」
本当は、前世の有名人から取ったのだけれど。その人にあやかった名前を、自分の新しい人生につける。少しだけ不思議な気分だった。
「分かりました。では、これからはフローラ様と」
「様はいらないわ」
「それはできません!」
「これからは敬語も必要ないわ。リズとは姉妹ということにしましょう」
「無理です!」
でしょうね。簡単には変わらないだろう。私も急には変われない。それでも、少しずつでいい。
港の近くで馬車を降りると、私たちは船を探すために歩き始めた。港には様々な人がいた。
自分の領地でしか、平民と関わる機会は少なかった。しかし、その領民たちとも違う、活気に満ちた、新しい風が出入りするような気持ちに包まれた。
王都とはまるで違う様子に、思わず周囲を見回した。
「フローラ様、あまりきょろきょろなさらないでください」
「だって面白いんだもの。あと、様は禁止よ」
そのとき、少し先から男たちの話し声が聞こえてきた。
「次の船、ユグノイア行きらしいぞ」
「ユグノイアか。あそこは魔道具が盛んだからな」
「特に冒険者向けの魔道具なら、あの国が一番だって話だ」
「魔物避けの道具やら、探索用の道具やら、色々あるらしいぞ」
「腕のいい魔道具師も多いんだろ?」
私は足を止めた。
「……魔道具」
思わず呟く。
魔道具は、この世界では珍しいものではない。街灯にも使われているし、噴水などにも使われている。けれど、一般家庭で当たり前に使われているほど安価なものではない。
私が侯爵家にいた頃も、魔道具といえば冒険者が使うものや、特別な用途のものを見ることの方が多かった。
そしてユグノイア帝国は昔、複数の民族や地域で争っていたところを初代皇帝が統一した。ただ民族同士を単純に統一するのではなく、お互いの伝統を重んじながら繁栄を続けるという、帝国でありながら多種多様の文化が個々に磨き上げられている。さらに、各民族、地域ごとに代表者がおり、国議会の際は彼らも参加するというのが、レイチェルとして生まれ変わってからの知識であった。前世で言うなれば、米国の大統領と州知事という感じか。皇帝と大統領を一緒にするのは不敬だけれど。他民族国家だからこそ、個々に発展した魔道具ができたのかもしれない。
「ねぇ、そのユグノイアのこと、詳しく聞きたいのだけれど」
近くにいた旅人に尋ねる。
「ん? ああ、ユグノイアか? 魔道具師を目指すなら一度は行ってみたいっていう国だな」
「魔道具師?」
「魔道具を扱う職人が多いんだ。冒険者向けの道具なんかも盛んだしな。職人ってのは偏屈な奴とか、作った魔道具を売らずに改良ばかりしてる奴とか、変わった奴が多いけど」
「それ、職人として大丈夫なの?」
「さあな」
男は笑って去っていった。
魔道具があるところにはギルドもきっとある。そして、冒険者がいるところには治癒術も必要になる。これからの生活の基盤として、他国で治癒術師として活動できるのは強みだと思った。そして単純に、魔道具師に少し興味が湧いた。
「……」
「フローラ様?」
リズが私を見る。
「決めたわ」
「何をですか?」
「ユグノイアへ行きましょう」
「え!?」
「せっかく国外へ出るんですもの。行ったことのない国へ行ってみたいじゃない」
リズがぽかんと口を開けた。
「今のお話だけで決められたのですか?」
「ええ」
「もう少し調べてからでも……」
「時間は有限よ。それに、生活の目処も立ちそうよ」
昨日までなら、こんな決め方はしなかった。侯爵令嬢として正しいのか、家のためになるのか、そんなことばかり考えていた。でも今は違う。自分が行きたい場所を選んでいい。
「魔道具師ってちょっと面白そうじゃない?」
「フローラ様は魔道具師になりたいのですか?」
「まさか」
思わず笑う。
「ただ、どんなものを作っているのか見てみたいだけ」
今は、それで十分だ。
船着き場へ向かうと、ユグノイア行きの船が出るところだった。
「運がいいわね」
「本当に行くのですか?」
「行くわよ」
私は迷いなく乗船手続きを済ませた。
船へ乗り込み甲板へ出ると、潮風が頬を撫でた。フードを脱ぐと、肩ほどまでに短く切り揃えられた髪が揺れる。フローラとして生きていくのに貴族のような綺麗な長髪はいらない。
寂しさよりも期待を膨らませながら、少しずつ港が遠ざかっていく。
王都も、ガレッド侯爵家も、レイチェルという名前も。全部が、少しずつ遠くなる。
「ユグノイア……どんな国なのかしら」
この先、何が待っているのかはわからない。それでも、昨日までとは違う人生が始まる。そう思うと胸の奥が少しだけ軽くなった。本でしか、知らない国。見たことのない街。出会ったことのない人々を思い描きながら、水平線を眺めていた。




