善は急げで旅立ちます
王城を出た馬車の中で、ぼんやりと流れていく景色を眺めていた。街路には魔導灯の明かりが石畳を淡く照らしている。
ほんの少し前まで、自分はこの国で生きていくものだと思っていた。侯爵令嬢として、いつかはガレッド家を継ぐ者として。そして、アレックスの婚約者として。けれど、そのどれも今日で終わった。
(……本当に、人生って何が起こるか分からないわね)
思わず苦笑する。前世の記憶を思い出したからといって、これまでの十七年間が消えたわけではない。レイチェル・ニール・ガレッドとして生きてきた時間も、確かに自分のものだ。
父は妹のニーナばかりを可愛がり、自分を愛してくれなかった。そして婚約者であるアレックスにも、最初から大切にされた事なんてなかった。決していい人生なんかじゃない、と今にして思う。それでも、嫌いになれなかったものもある。ガレッド侯爵家。そして、この家が治める領地だった。
癒しの手の一族に生まれたレイチェルは、決して優秀な治癒術師ではなかった。魔力も治癒術も人並みで、ニーナのように一度に多くの人を癒せるわけでもない。だからといって、それを恥じたことはなかった。
自分の手で誰かの痛みを和らげることができる。怪我をした人が笑顔を取り戻す。その瞬間が好きだった。癒しの手の一族に生まれたことを、誇りに思っていた。
それは、前世で患者と向き合っていたときに感じていたものと、きっと同じだ。目の前にいる誰かが少しでも楽になるのなら、自分にできることをしたい。その気持ちは、二つの人生で不思議と変わらない気がした。
(私、領地のみんなのことは結構好きだったのよね)
父が領地経営に興味を失ってから、実務の多くはレイチェルが担ってきた。税の報告書を確認し、不作があれば税の減免を考え、治癒院に不足しているものがあれば手配する。執事長の補佐があったからこそできたことではある。それでも、侯爵家の仕事の半分以上は引き受けていた。
領民の顔も、それなりに覚えている。市場で会えば頭を下げてくれる商人や怪我を治してから何度も会いに来てくれていた少年。みんな、レイチェルにとって大切な人たちだった。
(……私がいなくなったら、困るでしょうね)
胸の奥が少し痛んだ。できることなら、このまま領地に残り、領民を守りたい。
(でも、今の私にはそれができない)
ガレッド侯爵家の正式な後継者はレイチェルであるが、父はそれを認めていない。ニーナも周囲も、次代の聖女であるニーナが侯爵家を継ぐものと思っている。そんな状態でレイチェルが領地のために動こうとしたところで、誰が自分の言葉を聞くだろう。父やニーナにとって、自分は邪魔な存在でしかない。
(ならば、一度全部捨てよう)
領民には申し訳ないけれど。今の自分が中途半端にここへ残る方が、きっと迷惑になる。侯爵令嬢という立場を捨て、何の肩書きもない場所へ行く。そして、自分の力で生きる。
(……その方が、私らしいかもしれない)
やがて馬車が止まった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
降りたレイチェルを迎えたのは、先代からガレッド家に仕える執事長リアムだった。今日も綺麗に整えられた白髪と染みついた所作は、彼の几帳面さを表している。
「ただいま、リアム」
いつものように返事をする。けれど、リアムは顔を見た瞬間、僅かに眉を動かした。王城で何があったのか、聞かずとも分かっているのだろう。
「少し話があるの」
「……承知しました」
リアムは何も聞かず、執務室へ案内した。ソファに腰を下ろし、リアムにも向かいの席を勧める。
「座って」
「失礼いたします」
「アレックス殿下から婚約破棄と国外追放を言い渡されたわ」
前置きはしなかった。リアムの目が細くなる。
「……国外へ、ですか」
「ええ」
「殿下はなんと愚かなことを」
「そうね。でも、陛下の真意はわからないわ」
窓の外へ視線を向けた。
「ちょうど、いい機会だったのかもしれない。このままの状態でいても、きっと幸せにはなれなかっただろうから。もう、ここにいる理由もないし、できれば明朝には立ちたいと思っているの」
「ガレッド家をお捨てになるおつもりですか」
「そうなるわね」
リアムはしばらく黙っていた。
「領地はどうなさるおつもりですか」
その問いに、表情を僅かに顰め息を吐いた。
「……それが一番気になってる。領民のことは心配よ。私がいなくなったら、困る人もいるでしょうね」
「でしたら……」
「でも、私がここに残っても、今の状態じゃ何もできないわ」
「お父様は私を後継者として認めていない。ニーナも、周囲も同じ。私が侯爵家を継ぐなんて思っていないでしょう? そんな状態で私が何を言っても、誰も聞いてくれないわ」
レイチェルは自嘲するように笑った。
「だから、離れる」
「戻るつもりはないのですか」
「今のところはね」
あっさりと言うと、リアムは僅かに目を見開いた。
「私、今まで自分が我慢すればいいと思ってたの。ニーナや父に何をされても、アレックス殿下にどう扱われても。面倒だから黙っていればいいって」
前世の記憶を思い出す前のレイチェルは、気が弱くて、面倒事が嫌いで、誰かと争うくらいなら、自分が引けばいいと思っていた。その結果、自分が不幸になったとしても。
「でも、何も変わらなかった。だから、もういいかなって」
「今度はしっかり、私の人生を生きてみたい」
そう、決意を込めた目で告げられ、何を言うわけでもなく、リアムはしばらくレイチェルを見つめていた。
「……お嬢様」
「なに?」
「以前のお嬢様とは、随分変わられましたな」
「そうかもね」
「はい」
リアムは小さく息を吐いた。
「ですが……その方が、よろしいのかもしれません。お嬢様は、あまりにもご自分を後回しにされていましたから」
そんなふうに言われたことは、ほとんどなかったためリアムの言葉に驚いた。
「……そうね。だから、これからは自分を優先してみようと思うの」
その言葉だけは、迷いなく言えた。
自室に向かうと、侍女のリズベットが待っていた。
「お嬢様!」
「リズ」
「心配しておりました!」
駆け寄ってきたリズの顔には、心配が滲んでいる。
「怪我はないわ」
「でも……」
リズは言葉を濁した。
「婚約破棄されたの」
「そんな…!」
「それで、国外へ行くことにしたの」
「国外……?」
「ええ」
リズの顔が強張る。
「どちらへ行かれるのですか?」
「まだ決めてない」
「……お一人で?」
「そのつもりよ」
「では、私も参ります」
「駄目」
レイチェルは即答した。
「国外なんて、何があるか分からないわ」
「それはお嬢様も一緒です!」
「私は平民になるのよ」
「構いません」
「今までみたいな生活はできない」
「承知の上です」
「仕事も自分で探さなきゃいけない」
「お手伝いします」
あまりに迷いがなくて、レイチェルは思わず笑った。
「……リズって、こんなに頑固だったかしら?」
「お嬢様のお側にいた年数は、それなりですから。性格も譲り受けました!」
「……」
レイチェルは少し考え、そして、頷いた。
「…分かったわ。一緒に行きましょう」
「はい!」
嬉しそうなリズを見て、レイチェルは苦笑した。
「ただし、本当に大変よ?」
「望むところです!」
「頼もしいわね」
そう言って、レイチェルは窓の外を見る。すでに夜は深くなっていた。
明朝の空がまだ薄青く染まり始めたばかりの頃、屋敷の裏手に一台の馬車が用意された。大きな荷物はない。持っていくのは、平民として生活するために必要な衣服と、最低限の金銭だけ。侯爵令嬢としてのドレスもや宝石は殆どがニーナに取られたため、レイチェル自身の物は元より少なかった。
最後に部屋を見渡した。十七年間、ここで過ごしたが、嫌な思い出の方が多かった気がする。けれど、大切な思い出も詰まっていた。領地から贈られた花。何気なく読んだ本。母と共に治癒術の練習をした日々。それらを一つずつ目に焼き付ける。
「……さようなら」
誰に言うわけでもなく、扉を閉めた。
屋敷の外の空気は冷たかった。吐く息が白くなる。馬車へ乗り込む直前、一度だけ振り返った。
(みんな、ごめんなさい)
心の中で、領民たちに詫びる。
(今の私には、何もできない)
だから、離れる。いつか、自分の力で何かを成し遂げられるようになるために。
「……行きましょう」
馬の蹄が、朝の静かな街に響き、馬車がゆっくりと動き出した。




