武術師範、若き冒険者を救う
「うわぁぁああ!」
森の奥から悲鳴が響いた。
ヤスヒコは薬草籠を静かに地面へ置く。
耳を澄ます。
荒い呼吸。
複数の足音。
獣の唸り声。
「……三人」
「相手は二匹か」
袴の裾を整え、静かに歩き出す。
焦る必要はない。
慌てれば、見えるものも見えなくなる。
武とは、まず心を静めることから始まる。
――――――――――――――――――
木々を抜けると、開けた場所に出た。
そこでは三人の若い冒険者が二匹のフォレストウルフに追い詰められていた。
先頭では剣を構えた青年が必死に牙を受け止めている。
「くっ……!」
少年――ビルの額から汗が流れる。
一撃一撃が重い。
腕が痺れ、足も徐々に後退していた。
その横では槍を構えた少年――カミリーが魔物の動きを牽制している。
「ビル! 左から来る!」
「……っ!」
しかし、連携は噛み合わない。
後方では魔法使いの少女――シャーロットが杖を掲げ、必死に詠唱を続けていた。
「ちょっと! もう少し時間稼いでよ!」
「分かってる!」
ビルが叫び返す。
「分かってるけど無理だ!」
焦りが声に滲む。
その隙を逃さず、一匹のフォレストウルフが大きく踏み込んだ。
「しまっ――!」
その瞬間だった。
一人の男が静かに三人の前へ立つ。
見慣れない服装。
武器は持たない。
長い髪を後ろで束ねた男。
ヤスヒコだった。
「下がっていろ」
短い一言。
「なっ……!」
ビルが目を見開く。
「危ない!」
「いいから下がっていろ」
その声には、不思議と逆らえない重みがあった。
三人は反射的に後ろへ下がる。
フォレストウルフが飛びかかる。
ヤスヒコは半歩だけ身体をずらした。
牙が空を切る。
そのまま首元へ手を添える。
押さない。
引かない。
相手の勢いを、そのまま流す。
「崩し」
フォレストウルフの身体が宙を舞った。
地面を二度、三度と転がる。
「ギャウッ!?」
「え……」
シャーロットの詠唱が止まった。
魔法を放つことすら忘れていた。
もう一匹が怒りの唸り声を上げる。
一直線にヤスヒコへ飛び込む。
ヤスヒコは静かに踏み込んだ。
腰を落とす。
拳を握る。
無駄のない一撃。
鈍い音が森に響いた。
拳は肩口を正確に捉え、フォレストウルフの身体が横へ弾かれる。
木の幹へ叩きつけられた魔物は苦しげに立ち上がる。
二匹はヤスヒコを見つめる。
先ほどまでの獲物を見る目ではない。
敵を見る目だった。
しばし睨み合いが続く。
やがて一匹が低く唸る。
踵を返した。
もう一匹も続く。
森の奥へ姿を消していく。
ヤスヒコは追わなかった。
「……腹が減っていただけだ」
静かな一言だった。
ビルは思わず口を開く。
「逃がすんですか?」
「必要がない」
「生きるために牙を向けた」
「俺たちも、生きるために森へ入った」
「それだけのことだ」
誰も言葉を返せなかった。
敵は倒すもの。
そう思っていた。
だが、目の前の男は違った。
ヤスヒコは三人へ向き直る。
「怪我は」
「あ……」
シャーロットが腕を押さえる。
浅い切り傷だった。
ヤスヒコは腰の袋から布を取り出す。
「見せてみろ」
「あ、うん」
布を傷口へ巻く。
手際は驚くほど慣れていた。
「血は止まる」
「今日は無理をするな」
シャーロットは自分の腕を見る。
「……ありがと」
いつもの勢いはなかった。
少しだけ照れたように顔を逸らす。
ビルが深々と頭を下げる。
「助けていただいて、本当にありがとうございました!」
カミリーも続く。
「あなたが来なければ、俺たちは全滅していました」
ヤスヒコは首を横に振る。
「無事なら、それでいい」
その言葉に飾りはない。
本心だった。
街への帰り道。
ビルが口を開く。
「あの、失礼ですが……」
「何だ」
「何級の冒険者なんですか?」
ヤスヒコは腰の冒険者証を見た。
「十級だ」
三人の足が止まる。
「え?」
「じゅ、十級!?」
ビルが素っ頓狂な声を上げる。
カミリーは信じられないという表情でヤスヒコを見る。
「あの動き……」
「魔法じゃない」
「剣術でもない」
「一体、何なんですか」
ヤスヒコは少しだけ笑う。
「武術だ」
「武術……」
聞いたことのない言葉だった。
「身体を鍛え」
「技を磨き」
「心を鍛える」
「それが武術だ」
カミリーは静かにその言葉を胸に刻んだ。
ビルが勢いよく名乗る。
「俺、ビルって言います!」
「カミリーです」
槍使いも続く。
最後にシャーロットが腕を組みながら言った。
「シャーロット」
「……さっきは助かった」
「でもさ」
ヤスヒコを見る。
「あんた、本当に十級?」
ビルが慌てる。
「お、おいシャーロット!」
「だって気になるじゃない!」
ヤスヒコは思わず笑みを浮かべた。
「登録したばかりだからな」
「階級は十級で間違いない」
「……ふぅん」
シャーロットは納得していない顔だった。
だが、その瞳は好奇心で輝いていた。
街道が見えてくる。
ビルが言う。
「また会えますよね?」
ヤスヒコは静かに頷く。
「ああ」
「縁があればな」
四人は街へ向かって歩き出した。
その姿を森の木陰から、一羽の黒い鳥が静かに見つめていた。
赤い瞳がヤスヒコを捉える。
やがて翼を広げ、王都の方角へ飛び去っていく。
まだ誰も知らない。
臼井ヤスヒコの存在が、少しずつこの世界へ広がり始めていることを。




