一人の武人の始まり④
初夏――。
庭の若葉は青々と茂り、神楽守道流には蝉の鳴き声が響き始めていた。
ヤスヒコが道場へ通い始めて半年近く。
街では、ある噂が流れていた。
「あの悪童、最近喧嘩しなくなったらしいぞ」
「道場なんかに通ってるってよ」
「今さら真人間ぶるつもりか」
そんな噂を面白く思わない者もいた。
昔、ヤスヒコに虐げられた者たちだった。
⸻
ある日の夕方。
道場の門を出ようとしたヤスヒコの前に、一人の男が立った。
「臼井」
見覚えのある顔だった。
「あいつらがお前を呼んでる」
「昔の借りを返したいそうだ」
ヤスヒコは小さく息を吐いた。
「……そうか」
男は去っていく。
その背中を見送りながら、ヤスヒコは静かに拳を握った。
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夜。
誰にも何も言わず、ヤスヒコは約束の場所へ向かった。
河原には十数人の男たちが集まっていた。
「来たか」
「ずいぶん大人しくなったじゃねぇか」
「武術ごっこは楽しいか?」
笑い声が響く。
ヤスヒコは黙って立っていた。
「今日は喧嘩しに来たんじゃねぇ」
「好きに殴れ」
男たちは顔を見合わせる。
「は?」
「俺がやったことは消えねぇ」
「だから文句があるなら俺を殴れ」
一歩前へ出る。
その時だった。
「その必要はない」
低く、よく通る声が響く。
全員が振り向く。
黒い胴着。
大きな背中。
神楽ゲンリュウだった。
「……オッサン」
「帰っとれと言ったじゃろ」
「言ってねぇよ」
「今言った!」
ゲンリュウは笑いながら前へ出る。
そして男たちへ頭を下げた。
「この馬鹿弟子が迷惑を掛けた」
「師として詫びる」
その場が静まり返る。
ヤスヒコも目を見開いた。
「何してんだ!」
ゲンリュウは振り返らない。
「弟子の不始末は師匠の責任じゃ」
「だから今日は」
「ワシがお前たちの怒りを受けよう」
男たちが怒鳴る。
「ふざけるな!」
「関係ねぇ奴が出しゃばるな!」
ゲンリュウは静かに頷く。
「そうじゃな」
「じゃが、今のこやつは変わろうとしておる」
「過去は消えん」
「責任からも逃げられん」
「ならば師であるワシも逃げん」
そう言うと、両手を下ろした。
構えない。
避ける気もない。
「気が済むまで殴るといい」
男の一人が拳を振り抜く。
鈍い音が響く。
ゲンリュウの頬が揺れる。
もう一発。
腹へ。
肩へ。
何発殴られても。
ゲンリュウは一切手を出さなかった。
「やめろ!」
ヤスヒコが叫ぶ。
「何でやり返さねぇ!」
ゲンリュウは静かに答えた。
「殴り返したら」
「何も終わらんじゃろ」
その一言が。
ヤスヒコの胸へ深く突き刺さった。
自分は今まで。
殴られたら殴り返した。
馬鹿にされたら殴った。
力で黙らせれば終わりだと思っていた。
だが、目の前の男は違う。
誰よりも強い。
それでも拳を振るわない。
守るために。
責任を負うために。
その背中があまりにも大きく見えた。
やがて男たちも拳を止めた。
「……もういい」
「帰るぞ」
一人、また一人と立ち去っていく。
最後には誰も残らなかった。
⸻
帰り道。
ゲンリュウの頬は赤く腫れていた。
「……何でだ」
ヤスヒコがぽつりと呟く。
「何であんたが殴られなきゃならねぇ」
ゲンリュウは笑う。
「師匠じゃからな」
「弟子を守るのも仕事じゃ」
「俺は……」
「俺は、あんたに迷惑ばっか掛けてる」
ゲンリュウは豪快に笑った。
「今さら一つ二つ増えても変わらん」
「それにな」
優しく笑う。
「師弟とは、そういうもんじゃ」
ヤスヒコは何も言えなかった。
胸の奥が熱かった。
それが何なのか。
まだ分からなかった。
⸻
それから数か月。
秋の風が吹き始めた頃。
道場ではいつものように朝の掃除が行われていた。
ゲンリュウが庭を見渡す。
「おーい」
「箒が足りんぞ」
ヤスヒコは何気なく振り返る。
「先生、倉庫にあるぞ」
言った瞬間。
道場中が静まり返った。
ヤスヒコ自身も固まる。
「……あ」
ゲンリュウは目を丸くしたあと。
腹を抱えて笑い出した。
「はっはっはっ!」
「今、先生と言ったのう!」
弟子たちも笑い始める。
「ついにですね!」
「聞きましたよ!」
ヤスヒコは耳まで真っ赤にしながら箒を振り回す。
「うるせぇ!」
「聞こえてねぇ!」
「全部聞こえてました!」
笑い声が道場いっぱいに広がる。
その中心で。
ゲンリュウは嬉しそうに笑っていた。
そしてヤスヒコも。
照れ隠しに文句を言いながら。
その顔には、もうかつて街中が恐れた悪童の面影は、ほとんど残っていなかった。




