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武術師範は異世界でも道を示す  作者: 白玉男爵
第四章 武術師範、神の力に触れる
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EX7 どうか穏やかな日々を

夜。


聖教会の建物は、昼間とは違う静けさに包まれていた。


長い廊下。


消えかけた燭台の明かり。


遠くから聞こえる、夜番の足音。


その一室で。


マリアは一人、ベッドに腰を掛けていた。


今日の執務は、すべて終わっている。


巡礼から戻ってきて、まだ数日。


各地を巡る旅は長かった。


人々の祈りを聞き。


病に苦しむ者へ癒しを施し。


教会を訪れる者たちと話をした。


ようやくいつもの場所へ戻ってきた。


「……」


マリアは静かに息を吐く。


窓の外を見る。


夜の街には、いくつもの明かりが灯っている。


その光を眺めながら。


ふと。


一人の男の顔を思い出した。


「……ヤスヒコさん」


ほんの二度会っただけの人。


それなのに。


なぜか忘れることができなかった。


最初に会った時。


マリアは言葉を失った。


神気。


それまで感じたことのないほどの。


膨大な神気だった。


強い。


ただ強いという言葉では足りない。


そこにいるだけで、空気そのものが変わるような感覚。


まるで、巨大な何かが。


静かにそこに存在している。


そんな感覚だった。


「……」


マリアは胸元へ手を当てる。


あの時の感覚は今でも覚えている。


恐ろしさ。


畏れ。


そして。


それとは正反対の、不思議な安心感。


ヤスヒコを目の当たりにした時。


神気はあまりにも強大だった。


けれど。


その力に触れても苦しくなかった。


むしろ。


心地よかった。


温かい。


優しい。


包み込まれるような感覚。


「……不思議な方です」


マリアは小さく呟いた。


強大な力を持っている。


それなのに本人には。


自分が特別な存在だという自覚がない。


そして何よりも。


「使徒様……」


マリアはその言葉を口にした。


ヤスヒコの傍らにいる存在。


女性。


常にヤスヒコを見守っている。


そんな使徒。


「……」


マリアは目を伏せる。


聖教会の経典。


長い歴史の中で残された記録。


数多くの聖職者たちが記してきた伝承。


そのどこを探しても。


ヤスヒコのような存在は出てこない。


神気を扱う者はいる。


聖者も。


聖人も。


神に選ばれた者もいる。


だが。


使徒に守られている者などマリアは聞いたことがなかった。


「神は……」


マリアは静かに呟く。


「ヤスヒコさんに、何かを託されたのでしょうか」


世界を変える使命。


そんな言葉が頭をよぎる。


もし。


神がヤスヒコに使命を与えているのだとすれば。


それはきっと。


今まで誰も経験したことのないほど大きなものなのだろう。


何しろ。


あれほど強大な神気。


そして。


その傍らにいる使徒。


その二つが揃っている。


ただの偶然とはどうしても思えなかった。


「……」


マリアは少し考える。


けれど。


すぐに苦笑した。


だけど。


あの人ならそんな使命を告げられたとしても。


きっと困った顔をするのだろう。


――俺は、そんな大した人間じゃない。


そんなことを言いそうな気がした。


「……ふふ」


思わず小さく笑ってしまう。


二度しか会っていない。


それでも。


なんとなく分かる。


ヤスヒコは権力を欲しがるような人ではない。


名誉を求めているわけでもない。


まして。


神から選ばれた特別な存在として。


人々の上に立ちたいなどとは考えていない。


それくらいはマリアにも分かった。


だからこそ。


「……怖い」


マリアは。


静かに呟いた。


ヤスヒコのことではない。


その存在を知った時の、この聖教会の人々のことだ。


今の聖教会には二つの大きな派閥がある。


教皇派。


そして。


聖女派。


教皇派の頂点には教皇がいる。


対して。


聖女派は、実質的には司教たちが力を持っている。


本来なら、神の教えを広めるために協力すべき者たち。


それなのに。


互いに譲らない。


互いを警戒し。


互いの力を削ろうとする。


「……」


マリアは目を伏せる。


そんな現状をずっと憂いていた。


神の言葉を伝える場所で。


人間同士が権力を争っている。


そして。


もし。


そんな場所にヤスヒコの存在が知られたら。


どうなるだろう。


答えは考えるまでもなかった。


「……使徒様に守られている」


その事実が知られてしまえば。


ヤスヒコは、一気に聖教会の中で特別な存在になる。


いや。


聖教会だけではない。


世界そのものに対して強大な発言力を持つ存在になるだろう。


聖女であるマリアよりも。


司教よりも。


教皇よりも。


下手をすれば世界中の誰よりも。


「……」


それほどの力を持っている。


それなのに。


本人はそんなことを知らない。


そして。


望んでもいない。


「……だからこそ」


マリアはベッドの上で両手を握った。


知られてはいけない。


少なくとも今は。


もし。


権力を欲する者たちに知られれば。


ヤスヒコは利用される。


祭り上げられる。


神の使いとして担ぎ出され。


本人の意思とは関係なく。


様々な人間に囲まれる。


そして。


もし。


思い通りにならなければ。


今度は命を狙われる。


「……そんなことは」


マリアは。


小さく首を振った。


「絶対に、させません」


その言葉には。


聖女としての強さがあった。


けれどそれ以上に。


一人の人間としての。


優しさがあった。


だからマリアは。


誰にも話していない。


教皇にも。


司教にも。


他の聖職者にも。


そして。


自分の侍女にさえ。


一言も話していない。


ヤスヒコという人物のこと。


その身に宿る神気のこと。


そして。


その傍らにいる使徒のこと。


すべて自分の胸の中だけにしまっている。


「……」


マリアは。


窓の外を見る。


夜は深い。


ヤスヒコは。


きっと今日も。


いつもと変わらない一日を過ごしている。


冒険者として。


人を助け。


弟子たちを鍛え。


何気ない日々を送っているのだろう。


「……ヤスヒコさん」


マリアは。


その名を静かに呼んだ。


「どうか……」


けれど。


その先の言葉がなかなか出てこない。


神に何を願えばいいのか、分からない。


世界を変える使命があるのなら。


それを果たせるように願うべきなのか。


強大な神気を持つのなら。


その力を正しく使えるように願うべきなのか。


それとも。


「……平穏でありますように」


マリアは小さく呟いた。


それでいい。


少なくとも今は。


ヤスヒコが。


ヤスヒコのままでいられること。


誰かに利用されることなく。


誰かに祭り上げられることなく。


ただ。


大切な人たちと穏やかに生きられること。


それだけでいい。


「使徒様も……」


マリアは目を閉じる。


「どうか、ヤスヒコさんを……」


静かに祈りを捧げる。


「お守りください」


部屋の中に静寂が戻る。


やがて。


マリアはゆっくりと顔を上げた。


その表情は。


少しだけ穏やかになっていた。


自分にできることは多くない。


それでも。


この秘密だけは守り抜こう。


いつか。


ヤスヒコ自身が。


自分の歩む道を決めるその日まで。


「……神よ」


マリアはもう一度静かに祈る。


「どうか、あの方と使徒様に……」


「穏やかな日々をお与えください」


夜は。


静かに更けていった。

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