武術師範、神気を知る
「……?」
ヤスヒコは、目の前で膝をついている少女を見下ろしていた。
白い法衣。
両手を顔の前で組み、涙を流している。
何が起きているのか。
ヤスヒコには、さっぱり分からなかった。
「……立て」
静かな声。
少女の肩が小さく震える。
ゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、ヤスヒコを見つめる。
「……申し訳、ありません」
少女は慌てて涙を拭う。
そして。
ゆっくりと立ち上がった。
「突然、このようなことを……」
「構わん」
ヤスヒコは少女を見る。
「だが」
「何が起きている?」
少女は少し戸惑った。
「……え?」
「なぜ俺に祈った」
「あ……」
少女は言葉を失う。
しばらく考えた後。
深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
「まず、ご挨拶をさせてください」
「私はマリアと申します」
「聖教会より巡礼のため、この街へ参りました」
ヤスヒコも軽く頭を下げる。
「臼井ヤスヒコだ」
「……ヤスヒコ様」
「様はいらん」
「では……ヤスヒコさん」
「ああ」
短いやり取りだった。
しかし、マリアは少しだけ安心したように微笑んだ。
「ありがとうございます」
そして。
改めてヤスヒコを見る。
「……私は、強い神気を感じました」
「神気?」
ヤスヒコが聞き返す。
「はい」
「それに導かれて……ここまで来たんです」
ヤスヒコは眉をひそめた。
「神気というのは何だ?」
「……え?」
今度はマリアが固まった。
「ご存じないのですか?」
「ああ」
「……」
マリアは目を丸くした。
「本当に?」
「ああ」
「神気を感じているのに?」
「俺は何も感じていない」
「……」
マリアはしばらくヤスヒコを見つめた。
やがて。
小さく息を吐く。
「……不思議な方ですね」
「よく言われる」
「そういう意味ではありません」
マリアは少し困ったように笑った。
そして。
静かに説明を始めた。
「神気とは、神の力に触れた者が扱うことのできる力です」
「通常は、長い修行を積んだ高位の神官」
「あるいは、生まれながらに神の愛し子として選ばれた者」
「その代表が……聖女です」
ヤスヒコは黙って聞いていた。
「神気は、主に癒しの力として使われます」
「病に苦しむ方を癒したり」
「怪我をされた方の傷を治したり」
「人々を救うために使われる力です」
「なるほど」
ヤスヒコは自分の手を見る。
「しかし」
マリアの声が少し変わった。
「ヤスヒコさん」
「あなたから感じる神気は……」
「普通ではありません」
「どういう事だ?」
「分かりません」
マリアは正直に答えた。
「私が今まで感じたことのある神気とは、比べものにならないんです」
「大きさも」
「力も」
「まるで……」
言葉を探す。
「神そのものが、そこにいるような……」
ヤスヒコは黙った。
マリアは続ける。
「ですが」
「それはヤスヒコさん自身が発しているものではないと思います」
「俺ではない?」
「はい」
「おそらく……」
マリアはヤスヒコの周囲を見る。
誰もいない。
夕方の街。
風が静かに吹いているだけ。
「ヤスヒコさんの傍には、使徒様がいるのだと思います」
「使徒?」
「あ……」
マリアが言葉を止める。
「それもご存じないでしょうか?」
「ああ」
「神に仕える者、という意味で使われることもありますが……」
マリアは首を横に振った。
「神気における使徒様は、少し違います」
「神の意志を受け、人の世界へ遣わされた存在」
「神界と人界を繋ぐ者です」
「……」
「私にも、はっきりと姿を見ることはできません」
「ただ……」
マリアは目を細める。
「女性です」
ヤスヒコの表情が、ほんの少しだけ変わった。
「穏やかな雰囲気があります」
「ヤスヒコさんを……ずっと見つめているような」
「それから」
「服装も……」
マリアは記憶を探るように目を閉じた。
「見たことのない服でした」
「長い布のような……」
「身体を包むような衣服です」
「着物……か」
ヤスヒコの口から、自然に言葉が出た。
「……キモノというのですか?」
「ヤスヒコさんの服に少し似ているように思います」
ヤスヒコは何も言わなかった。
マリアは続ける。
「本来、使徒様が一人の人間について回るなんてことはありません」
「私も、そんな話を聞いたことがありません」
「神の使徒は、特定の誰かを守り続けるために遣わされる存在ではないんです」
「では、なぜ俺に?」
「それが……分かりません」
マリアは困ったように微笑む。
「ただ」
「ヤスヒコさんを包んでいるものに触れた時」
「とても優しくて……温かくて……」
「気づいたら、涙が出ていました」
マリアは自分の胸元へ手を当てる。
「怖くはありませんでした」
「むしろ……」
「ずっと大切にされているような」
「そんな感じがしたんです」
ヤスヒコは黙っていた。
女性。
穏やかな雰囲気。
自分を見つめている。
見たことのない服。
そして。
ずっと傍にいる。
「……まさか」
小さく呟く。
その言葉は、マリアには届かなかった。
「ヤスヒコさん?」
「いや」
「何でもない」
ヤスヒコは視線を逸らした。
「最近、何か神の力に触れるようなことはありませんでしたか?」
マリアが尋ねる。
「神の力?」
「あまり大きなものでなくても構いません」
「神殿へ行ったとか」
「祈りを捧げたとか」
「神聖な場所に触れたとか……」
「……」
ヤスヒコは考える。
だが。
思い当たらない。
「特にない」
「本当に?」
「ああ」
「……そうですか」
マリアは少し考え込む。
「昔から、神殿で祈りを捧げたことで神と邂逅したという伝説はあります」
「神と?」
「はい」
「実際に会ったのか?」
「伝説では、ですが」
マリアは頷く。
「神の声を聞いた者」
「神の姿を見た者」
「そして、神から直接力を授かった者」
「そういった記録が、古い聖典には残っています」
ヤスヒコは黙って聞いていた。
そして。
ふと。
一つの記憶が浮かんだ。
「……神殿」
「はい?」
「王都にいた時だ」
ヤスヒコはゆっくり話し始める。
「依頼で、小さな神殿を掃除したことがある」
「誰も使っていない神殿だった」
「かなり荒れていた」
「掃除をした後……」
ヤスヒコは少し考える。
「そこで、一度だけ祈った」
マリアの目が大きく開く。
「……祈ったんですか?」
「ああ」
「どのような祈りを?」
「大したものではない」
「ただ……」
ヤスヒコは遠くを見る。
「長い間、誰にも使われていなかった場所だったからな」
「せめて、最後くらいは綺麗にしておこうと思っただけだ」
マリアは黙っている。
やがて。
「……おそらく」
「それです」
「何が?」
「神殿です」
マリアの声が震える。
「使われなくなった神殿を清め」
「そこで祈りを捧げた」
「それによって……」
マリアは言葉を選ぶ。
「神界とヤスヒコさんの間に、道ができたのかもしれません」
「道?」
「はい」
「本来、神界と人界は簡単には繋がりません」
「ですが、神殿はそのための場所です」
「そこで祈りを捧げたことで……」
「何かが開いた」
「そして、その先から使徒様が降りてきた」
ヤスヒコは黙った。
マリアは続ける。
「もしそうなら」
「その使徒様は……」
「ヤスヒコさんを守るために、ずっと傍にいるのかもしれません」
その時。
「聖女様!」
遠くから声が響いた。
マリアが振り返る。
白い法衣の侍女が、息を切らしながら走ってくる。
「こんなところにいらしたのですか!」
「探しましたよ!」
「……ごめんなさい」
「ごめんなさいではありません!」
侍女はマリアの前まで来ると、息を整える。
「次の集会所へ向かわなければなりません」
「あ……」
マリアがヤスヒコを見る。
「そうでした」
そして。
少し名残惜しそうに微笑んだ。
「ヤスヒコさん」
「ああ」
「今日は、ありがとうございました」
「俺は何もしていない」
「それでも」
マリアは深く頭を下げた。
「お会いできて、本当に良かったです」
ヤスヒコは小さく頷く。
「ああ」
マリアは侍女に促され、馬車へ向かう。
数歩進んだところで。
「ヤスヒコさん!」
振り返る。
「また、お話をさせてください!」
「ああ」
マリアは笑った。
そして。
今度こそ馬車へ乗り込んだ。
扉が閉まる。
馬車がゆっくりと動き出す。
ヤスヒコは、その場に立ったまま見送った。
やがて。
馬車の姿が見えなくなる。
夕方の風が吹く。
ヤスヒコは空を見上げた。
「……そうか」
小さく呟く。
そして。
ほんの少しだけ、笑った。
「ずっと……」
一度、言葉を止める。
「……居てくれたんだな」
誰もいない街角。
返事はない。
それでも。
ヤスヒコには。
なぜか、それで十分だった。




