一人の武人の始まり③
春――。
冬の冷たい風は去り、神楽守道流の庭には柔らかな陽射しが降り注いでいた。
若葉が風に揺れ、どこからか鶯の鳴き声が聞こえてくる。
その静かな朝に、箒の音だけが規則正しく響いていた。
「そこ、掃き残しとるぞ」
「分かってる」
ぶっきらぼうに返事をしながらも、ヤスヒコの手は止まらない。
神楽守道流へ通い始めて数か月。
朝になれば道場へ来る。
庭を掃き、薪を割り、水を汲む。
文句は相変わらず口にする。
だが、不思議と足は毎朝この場所へ向かっていた。
「最初は三日で逃げると思ってたんだけどな」
掃除をしていた弟子が笑う。
「俺もです」
「先生もそう言ってましたよ」
ヤスヒコは鼻を鳴らす。
「誰が逃げるか」
「負けっぱなしじゃ気分悪ぃだけだ」
弟子たちは顔を見合わせて笑った。
「そういうことにしておきます」
「何だその言い方」
「いえいえ」
また笑い声が上がる。
そんなやり取りも、いつしか日常になっていた。
⸻
掃除を終えると、弟子たちは稽古を始める。
ヤスヒコも輪に加わる。
まだ技は教わっていない。
教えられるのは姿勢。
呼吸。
礼。
そして立ち方。
「退屈だ……」
ぼやきながらも身体は自然と動いていた。
ゲンリュウはそんな様子を見ながら豪快に笑う。
「基礎ほど退屈なもんはない」
「じゃが、一番大事なのも基礎じゃ」
「んなこと分かるか」
「分からんでもええ」
「そのうち身体が覚える」
ヤスヒコは納得できず舌打ちする。
だが、反論はしなかった。
⸻
昼。
「飯じゃー!」
ゲンリュウの大声が響く。
弟子たちが一斉に集まる。
ヤスヒコも当然のように腰を下ろした。
少しして、フミエが食事を運んでくる。
「皆さん、お待たせしました」
柔らかな湯気が立ち上る。
「今日は筍ご飯ですよ」
「おお!」
弟子たちが歓声を上げる。
「春ですから」
フミエは穏やかに微笑む。
ヤスヒコの前にも茶碗が置かれる。
「ヤスヒコさんも、たくさん召し上がってくださいね」
「……ああ」
以前なら「いらねぇ」と言っていた。
今では何も言わず箸を取る。
その変化に、フミエは小さく微笑んだ。
⸻
食事を終えると、ゲンリュウが立ち上がる。
「よーし!」
「午後は薪割り勝負じゃ!」
弟子たちが揃ってため息をつく。
「また始まった……」
「先生、それ勝負になってませんよ」
「勝負じゃ!」
ゲンリュウは勢いよく斧を振り下ろす。
しかし。
勢い余って空振り。
薪の横に斧が突き刺さる。
「あっ」
一瞬静まり返る。
そして。
「先生!」
「薪が逃げましたね!」
「逃げるか!」
弟子たちが一斉に笑い出す。
ゲンリュウも腹を抱えて笑った。
「はっはっは!」
「今日は薪の勝ちじゃ!」
そのまま斧を抜こうと力を入れる。
だが。
今度は勢い余って後ろへ尻もちをついた。
「痛っ!」
また静寂。
次の瞬間。
道場中が笑いに包まれた。
「先生!」
「今日は絶好調ですね!」
「はっはっは!」
ゲンリュウ本人まで笑っている。
ヤスヒコは呆れたように見ていた。
「……馬鹿じゃねぇの」
呆れたように呟いた、その時だった。
「……ぷっ」
思わず吹き出していた。
自分でも驚いた。
笑っている。
自分が。
弟子たちも気付く。
「今笑いましたよね?」
「笑った!」
「見た見た!」
「違ぇ!」
顔を真っ赤にして立ち上がる。
「今のは違う!」
ゲンリュウは腹を抱えて笑う。
「はっはっは!」
「ようやく人間らしい顔になったのう!」
「誰のせいだ!」
道場中がまた笑い声に包まれる。
その光景を見つめながら。
フミエは小さく微笑んだ。
⸻
夕暮れ。
帰り道。
春風が頬を撫でる。
ヤスヒコは空を見上げた。
今日のことを思い返す。
皆で笑っていた。
自分も笑っていた。
そんなことが、少し前の自分には信じられない。
「……変な道場だ」
そう呟く。
だが。その言葉にはもう嫌悪感はなかった。
翌朝。
誰に言われるでもなく、ヤスヒコはまた神楽守道流の門をくぐる。
もうそれはー
“通っている”のではない。
少しずつー
“帰るべき場所”になり始めていた。
全100話前後で完結を目指していたのにこのままだと越えそう。
ここから入れる保険はありますか?




