EX5 微笑みの奥
王都。
窓から差し込む夕陽が、机の上へ一枚の書類を照らしていた。
マディアンヌは静かにページをめくる。
羊皮紙の一番上には、大きくこう記されている。
ウスイ・ヤスヒコ
年齢――不明。
出身――不明。
武器――なし。
戦闘方法――徒手格闘。
その下には、これまでの報告が並んでいた。
エンターサンド近郊でのグロム討伐。
王都でのミノタウロス討伐。
どれも常識では考えられない内容ばかりだった。
マディアンヌは小さく笑う。
「謎が多いわね」
最後の報告へ視線を落とす。
ミノタウロス 完全消滅。
その一文だけが、他の報告とは異質だった。
「不死身の再生能力を持つ個体を、完全に消滅させるなんて……」
長年魔導研究をしてきた彼女ですら、そのような事例は一度も見たことがない。
「神気……」
その名を小さく口にする。
だが、すぐに書類を閉じた。
「考えても答えは出ないわね」
その時だった。
部屋の隅。
陽の当たらない壁際の影が、ゆらりと揺れる。
音もなく、一人の黒衣の人物が姿を現した。
顔は仮面で隠されている。
片膝をつき、静かに頭を下げた。
「マディアンヌ様」
マディアンヌはため息をつく。
「……ここではその呼び方はやめなさいと言ったはずよ」
「失礼しました」
「まあいいわ、続けなさい」
密偵は報告を続けた。
「ヤスヒコ一行は、予定通り本日王都を出発しました」
「現在は西街道を南下しております」
「追跡も問題なく行えます」
マディアンヌは窓の外へ視線を向けた。
「そう」
短く答える。
密偵はさらに尋ねた。
「このまま泳がせますか」
部屋へ静寂が流れる。
やがてマディアンヌはゆっくりと振り返った。
「ええ」
「予定通り観察を続けなさい」
「決して余計なことはしないこと」
「接触も不要」
「ただ、見ていなさい」
「承知しました」
密偵は深く頭を下げる。
次の瞬間。
その身体は影へ溶け込むように消えていった。
まるで最初から誰もいなかったかのように。
部屋には再び静寂だけが残る。
マディアンヌは書類へ手を置き、小さく微笑んだ。
「さて……」
その時。
廊下の向こうから元気な声が聞こえてきた。
「マディお姉ちゃーん!」
「マディお姉ちゃん!」
マディアンヌの表情が一瞬で柔らかくなる。
「はいはい、今行くわ」
部屋を出る。
孤児院の庭では、子供たちが元気いっぱいに走り回っていた。
「マディお姉ちゃん!」
一人が飛びつく。
もう一人も。
さらにもう一人。
「もう、みんな順番よ」
そう言いながらも、結局全員まとめて抱きしめてしまう。
年配のシスターが苦笑した。
「相変わらずですね」
「ふふ」
子供たちは修繕された建物を指差して大はしゃぎだった。
「屋根、もう雨漏りしないんだって!」
「窓も新しくなった!」
「お兄ちゃん、すごかったよ!」
「また来てくれるかなぁ」
その言葉に、周囲の子供たちも一斉に頷く。
「会いたい!」
「また遊びたい!」
「木を持ち上げるところ、もう一回見たい!」
マディアンヌは優しく子供たちの頭を撫でた。
「ええ」
「きっと、またすぐに会えるわ」
子供たちは嬉しそうに笑う。
「やったー!」
その笑顔を見つめながら、マディアンヌはゆっくりと空を見上げた。
王都の彼方。
ヤスヒコたちが向かった方角へ視線を向ける。
ヴェールに隠れたその紅い瞳には、優しさとも、期待とも、別の何かとも取れる静かな光が宿っていた。
「……楽しみにしているわ」
その小さな呟きは、夕暮れの風だけが聞いていた。




