武術師範、森に生きる
洞窟を出てから、数日が過ぎた。
ヤスヒコは、深い森の中にいた。
木々は高く。
空は遠い。
見たことのない植物。
聞いたことのない鳥の声。
ここが、自分の知る世界ではないことを改めて思い知らされる。
しかしヤスヒコに焦りはなかった。
見知らぬ土地で生きる術。
それは、かつて身につけてきたものだった。
前世のヤスヒコは武を極めるため、何度も山に籠もった。
人の気配がない山奥で最低限の道具だけを持ち、自然と向き合う日々。
水を探す。
食料を得る。
火を起こす。
そして己の身体と精神を鍛える。
それもまた、武の修行だった。
「……環境が変わっても、やることは同じか」
ヤスヒコは小さく呟く。
生きる。
まずは、それだけだった。
森を歩く。
足元を見る。
折れた枝。
草の倒れ方。
土に残った痕跡。
すべてが情報だった。
獣は嘘をつかない。
残された跡を見れば、そこに何がいるのか分かる。
しばらく進んだ先、水の音が聞こえた。
小さな川だった。
ヤスヒコは膝をつき、水をすくう。
冷たい。
透き通った水が、身体に染み渡る。
「……悪くない」
静かな声。
次に食料を探す。
見知らぬ木の実には手を出さない。
魚を捕り、火を起こす。
若い身体は思った以上によく動いた。
老人だった頃には失われていた力。
だが――
力が戻ったからといって、浮かれることはない。
身体は道具。
使う者の心が重要なのだ。
―――――――――――――――――――――――――
夜。
焚き火の前で、ヤスヒコは空を見上げていた。
見たことのない星。
見たことのない夜空。
「……フミエ」
妻の名を呼ぶ。
返事はない。
それでも不思議と、寂しくはなかった。
『あなたなら、大丈夫ですよ』
そんな声が聞こえる気がする。
責めることはないが、僅かに心配を含んだ口調で。
それでもいつも最後には、微笑んでいてくれていた。
ヤスヒコは静かに目を閉じる。
「……そうだな」
「俺は、俺のやるべきことをする」
―――――――――――――――――――――――――
翌朝。
森の奥から、気配がした。
ヤスヒコはゆっくりと起き上がる。
複数。
低い唸り声。
木々の間から現れたのは――
黒い毛並みを持つ獣だった。
狼に似ている。
しかし、明らかに普通の獣ではない。
魔物。
その言葉を、ヤスヒコはまだ知らない。
だが。
敵意だけは理解できた。
三匹。
ヤスヒコは構える。
拳を握る。
しかし、殺気はない。
「……腹が減っているのか」
獣たちは答えない。
ただ、生きるために牙を向ける。
一匹が飛び出した。
だが――
「遅い」
半歩。
身体をずらす。
爪が空を切る。
そのまま首を取り、流す。
相手の力を利用する。
「崩し」
獣の身体が地面へ転がる。
二匹目。
ヤスヒコは踏み込む。
拳を振るう。
だが、狙う場所は急所ではない。
倒すためではない。
止めるため。
鈍い音。
獣が後退する。
最後の一匹が唸る。
ヤスヒコは構えたまま、静かに見つめる。
しばしの沈黙。
やがて。
獣は森の奥へ消えていった。
ヤスヒコは追わなかった。
「……生きるためだったのだろう」
倒れた獣を見る。
「俺も同じだ」
静かに目を伏せる。
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さらに数日、ヤスヒコは森で暮らしていた。
水場を覚えた。
食べられるものを覚えた。
危険な場所を覚えた。
この世界について、まだ何も知らない。
だが生きていれば、いつか知ることができる。
ある日の夕暮れ。
丘の上。
ヤスヒコは遠くを見た。
煙が上がっている。
人の営み。
「……人がいるのか」
久しぶりに見る、人の気配。
ヤスヒコは静かに歩き出す。
この世界には、まだ知らないものがある。
恐れる理由はない。
「行くか」
臼井ヤスヒコ。
新たな人生は、ようやく人の世界へ向かい始めた。




