武術師範、縁を結ぶ(前編)
翌朝。
窓から差し込む柔らかな朝日が部屋を照らしていた。
階下からは香ばしいパンの焼ける匂いと、少女の元気な声が聞こえてくる。
「お母さん! スープできたよ!」
「ありがとう、チコ」
四人が食堂へ降りると、昨夜迎えてくれた女将が微笑んだ。
「おはようございます」
「よく眠れましたか?」
少女も満面の笑みで駆け寄る。
「お兄ちゃんたち、おはよう!」
「今日はお仕事?」
ビルが笑って頷く。
「ああ、頑張ってくるよ」
食後。
「いってらっしゃい!」
チコは小さく手を振った。
女将――マールも穏やかに頭を下げる。
「お気を付けて」
どこにでもある朝。
豪華ではない。
けれど温かな時間だった。
⸻
朝食を終えた四人は王都冒険者ギルド本部へ向かった。
昨日と変わらず広間は賑わっている。
依頼掲示板の前には多くの冒険者が集まり、次々と依頼書を剥がしていた。
ビルたちが依頼を探している間、ヤスヒコは静かに掲示板を眺める。
一枚の依頼書へ視線が止まった。
◇◇◇
街外れ旧神殿清掃
依頼主 王都神殿管理局
報酬 銀貨一枚
長期間放置につき清掃希望
◇◇◇
ヤスヒコは迷わず依頼書を手に取った。
受付へ差し出す。
受付嬢は依頼書を見るなり驚いた。
「こちらでよろしいのですか?」
「ああ」
「ありがとうございます……」
その声には、心からの安堵が滲んでいた。
「この依頼、本当に誰も受けてくださらなくて……」
その様子を見ていた周囲の冒険者たちが笑う。
「おいおい」
「六級のくせに掃除かよ」
「王都まで来て銀貨一枚とは、母ちゃんが泣くぜ」
「もっと稼げる依頼はいくらでもあるぞ」
笑い声が広間に響く。
ヤスヒコは気にも留めない。
依頼書を受け取り、そのまま踵を返した。
受付嬢だけが深く頭を下げる。
「本当にありがとうございます」
「助かります」
ヤスヒコは短く答えた。
「困っている者がいるなら、手を貸すだけだ」
⸻
その様子を見ていたビルたちが駆け寄る。
「先生」
「俺たちも手伝います」
シャーロットも頷く。
「掃除ならすぐ終わるでしょ?」
カミリーも口を開く。
「人数が多い方が効率も上がります」
ヤスヒコは静かに首を横へ振った。
「必要ない」
三人は顔を見合わせる。
「お前たちには昨日言ったはずだ」
「自分たちで考え、自分たちで動け」
「今日はその一日目だ」
ビルは少し悔しそうな顔をした。
だがすぐに表情を引き締める。
「……分かりました」
「俺たちだけで行ってきます」
「ああ、行ってこい」
三人は依頼掲示板へ向かって歩いていった。
ヤスヒコはその背中を一瞬だけ見送り、自分も神殿へ向かった。
⸻
王都の喧騒を離れるにつれ、人影は少なくなっていった。
やがて、小さな石造りの神殿が見えてくる。
決して立派ではない。
蔦が壁を覆い、入口には落ち葉が積もっている。
扉を開く。
静寂。
薄暗い堂内。
祭壇の奥には、一体の神像が静かに佇んでいた。
ヤスヒコは黙って箒を手に取る。
落ち葉を集める。
蜘蛛の巣を払う。
床を磨く。
一つひとつ。
丁寧に。
誰に見られるわけでもない。
誰に褒められるわけでもない。
それでも手は止まらない。
気が付けば昼を過ぎていた。
窓から差し込む光が、掃除を終えた床へ静かに反射する。
ヤスヒコは布で神像の埃を拭き取った。
白い石肌が少しだけ輝きを取り戻す。
静かな空間だった。
箒を立て掛け、祭壇の前へ立つ。
両手を合わせる。
特別な願いはない。
ただ、一礼するだけだった。
立ち上がり、神殿を振り返る。
転生してからの日々が、ふと頭をよぎる。
エミリア。
ビル。
カミリー。
シャーロット。
ガレス。
ギルドの冒険者達。
エンターサンドの街。
昨日出会ったマールとチコ。
知らぬ間に、この世界の人々と深く関わってきた。
ヤスヒコは小さく笑う。
「……俺も、この世界に馴染んだものだ」
静かに神殿を後にする。
その背中が見えなくなった頃――
祭壇に立つ神像の口元が、ほんのわずかに微笑んだ。
だが、その変化を知る者は誰もいなかった。




