一人の武人の始まり②
朝。
「チッ……」
舌打ちをしながら、ヤスヒコは神楽守道流の門をくぐった。
昨日の敗北が頭から離れない。
何をされたのかも分からないまま負けた。
あんな負け方は初めてだった。
気付けば足が勝手にここへ向いていた。
理由は自分でも分からない。
門をくぐると、庭では弟子たちが朝の掃除をしていた。
落ち葉を集める者。
雑巾掛けをする者。
薪を割る者。
皆が黙々と身体を動かしている。
その奥では。
ゲンリュウが縁側で豪快ないびきをかいて寝ていた。
「……何やってんだあのオッサン」
思わず呟く。
すると。
「遅かったのう」
目を閉じたままゲンリュウが口を開いた。
「うおっ!」
ヤスヒコは思わず肩を震わせる。
「起きてんのかよ!」
ゲンリュウはゆっくり身体を起こし、大きく欠伸をした。
「いや、今起きた」
「どっちだよ!」
弟子たちから笑いが漏れる。
ヤスヒコは眉間に皺を寄せた。
「で」
「今日は何するんだ」
ゲンリュウは即答する。
「掃除じゃ」
「帰る」
踵を返そうとするヤスヒコ。
「逃げるのか?」
昨日と同じ言葉。
足が止まる。
「……クソ」
結局、箒を握ることになった。
「意味分かんねぇ」
ぶつぶつ文句を言いながら落ち葉を集める。
周囲では弟子たちが黙々と掃除を続けている。
誰一人として不満そうな顔をしていない。
その様子が、ヤスヒコには理解できなかった。
思わず近くの弟子へ声を掛ける。
「お前らも馬鹿だな」
弟子の一人が振り返る。
「はい?」
「なんでこんなことやってんだ」
弟子は少しだけ笑った。
「先生の教えですから」
「教え?」
「はい」
弟子は箒を動かしながら続ける。
「先生はいつもおっしゃるんです」
「武術は人が使うもの」
「だからまず、人として在ることを学べと」
ヤスヒコは鼻で笑う。
「掃除して強くなれんのかよ」
弟子は少し考えるように空を見上げた。
「私も最初はそう思っていました」
「ですが……」
穏やかに笑う。
「続けているうちに、先生のおっしゃる意味が少しずつ分かってきたんです」
「意味分かんねぇ」
「私も昔はそう言っていましたよ」
そう言って弟子は再び掃除へ戻った。
ヤスヒコは周囲を見渡す。
誰も命令されて動いているようには見えない。
皆が当たり前のように掃除をし、
当たり前のように笑い合っている。
「……変な道場だ」
小さく呟きながら、ヤスヒコも再び箒を動かした。
昼。
「飯じゃー!」
ゲンリュウの大声が響く。
弟子たちが一斉に集まってくる。
ヤスヒコも何となくその場に座った。
そこへ。
一人の少女がお盆を持って現れた。
長い黒髪。
穏やかな微笑み。
落ち着いた雰囲気。
「お父様、お待たせしました」
「おお、フミエ」
味噌汁の香りが広がる。
ヤスヒコは興味なさそうに視線を逸らした。
その時だった。
フミエの視線がヤスヒコで止まる。
「あら……」
静かに近付いてくる。
「たくさん怪我をされてます」
「……あ?」
額の擦り傷。
頬の痣。
昨日ゲンリュウに転がされた傷がまだ残っていた。
「別に平気だ」
「平気ではありません」
そう言って救急箱を持ってくる。
「少し失礼しますね」
「いらねぇ」
「座ってください」
穏やかな口調。
しかし不思議と逆らえない。
ヤスヒコは舌打ちしながら腰を下ろした。
消毒液が傷に染みる。
「痛っ!」
「少しだけ我慢してください」
「いてぇんだよ!」
「もう少しですよ」
弟子たちがくすくす笑う。
ゲンリュウは腹を抱えて笑っていた。
「はっはっはっ!」
「元気でよろしい!」
「笑ってんじゃねぇ!」
道場中が笑いに包まれる。
ヤスヒコだけが不機嫌だった。
だが。
傷の手当てが終わったあと。
ふと口を開く。
「……なんでだ」
フミエは首を傾げた。
「何がでしょうか」
「なんでそんなことする」
少しだけ間が空く。
そしてフミエは優しく微笑んだ。
「怪我をされている方を放っておけませんから」
当たり前のように答える。
ヤスヒコは言葉を失った。
そんなことを言われたことは一度もなかった。
心配されたことも。
優しく手当てをされたことも。
「それに」
フミエは続けた。
「お父様がお連れした大切なお弟子さんですもの」
「……弟子?」
「はい」
「きっと、お父様はあなたに期待しているのでしょうね」
ヤスヒコは何も答えられなかった。
⸻
帰り道。
冬の風が頬を撫でる。
ポケットに手を突っ込みながら歩く。
昨日は。
ゲンリュウの強さばかり考えていた。
今日は。
一人の少女の言葉が頭から離れない。
『怪我をされている方を放っておけませんから』
『お父様がお連れした大切なお弟子さんですもの』
「……変な奴らだ」
そう呟きながらも。
その声には昨日までの棘が、ほんの少しだけなくなっていた。
そして翌朝。
ヤスヒコはまた、神楽守道流の門の前に立っていた。




