武術師範と修行の始まり
とある日。
エンターサンド冒険者ギルド。
依頼掲示板の前で、ビルは木剣を肩に担ぎながら大きくため息をついた。
「はぁ……」
隣にいたカミリーが苦笑する。
「また負けたのか」
「ああ」
ビルは頭をかいた。
「三連敗だよ」
「模擬戦で、同じ十級の奴にも勝てなくてさ」
シャーロットは呆れたように肩をすくめる。
「ビルって昔から突っ込むだけだもん」
「うるさいな」
「だって本当じゃん」
ビルは悔しそうに木剣を見つめた。
「あの時のヤスヒコさんみたいに……」
「誰かを守れるくらい強くなりたいんだ」
フォレストウルフに襲われた日の記憶が脳裏をよぎる。
あの時、自分は何もできなかった。
だからこそ、強くなりたかった。
カミリーも静かに頷く。
「俺も同じだ」
その様子を受付から見ていたエミリアが、小さく微笑んだ。
「ヤスヒコさんでしたら、何か教えてくださるかもしれませんね」
「え?」
三人が振り向いた、その時だった。
ギルドの扉が開く。
依頼を終えたヤスヒコが静かに中へ入ってきた。
背には薬草を入れた籠。
いつもと変わらない姿だった。
「ヤスヒコさん!」
ビルが駆け寄る。
ヤスヒコは足を止めた。
「どうした」
ビルは勢いよく頭を下げる。
「お願いします!」
「俺たちに稽古をつけてください!」
ギルドの中が静まり返る。
ヤスヒコは三人を見つめた。
しばらく考え、
静かに口を開く。
「教えることはできる」
三人の表情が一気に明るくなる。
「本当ですか!」
「ああ」
続けて言った。
「だが今日ではない」
「え?」
「依頼が残っているからな」
「頼まれたことを先に果たす」
ビルは少し肩を落としたが、すぐに頷いた。
「……分かりました」
ヤスヒコも一つ頷く。
「明日の朝、町の外れへ来い」
「「はい!」」
⸻
翌朝。
朝日が町を照らし始める頃。
町外れには、小さな空き小屋が建っていた。
周囲には落ち葉が積もり、雑草も伸び放題になっている。
ヤスヒコはすでにそこに立っていた。
ほどなくして三人が駆けつける。
「お待たせしました!」
「いや」
「俺も今来た」
シャーロットが笑う。
「絶対待ってたでしょ」
ヤスヒコは否定も肯定もしない。
その沈黙に三人は思わず笑った。
やがてヤスヒコは、小屋の脇に立て掛けられていた三本の箒を手に取る。
一本ずつ三人へ差し出した。
「まずは掃除だ」
「……え?」
三人の声が揃う。
ビルが箒を見つめる。
「掃除……ですか?」
「ああ」
「修行じゃないんですか?」
「修行だ」
シャーロットは頬を膨らませた。
「戦い方を教えてくれるんじゃないの?」
カミリーも首を傾げる。
「理由を聞いてもいいですか」
ヤスヒコは静かに辺りを見回した。
「自分の立つ場所を整えられない者は、自分の心も整えられん」
短い一言だった。
三人は顔を見合わせる。
正直、よく分からない。
それでも文句を言わず箒を持った。
⸻
掃除が始まる。
ビルは勢いよく掃き始める。
だが落ち葉を散らかすだけだった。
シャーロットは途中で蝶を見つけて追い掛け始める。
「シャーロット」
「はーい」
返事だけして戻ってくる。
カミリーだけは黙々と掃き続けていた。
ヤスヒコは誰も叱らない。
ただ一言だけ。
「隅が残っている」
「そこも見ろ」
「最後までやるんだ」
それだけだった。
三人は汗を流しながら一時間近く掃除を続ける。
ようやく終わった頃には、小屋の周囲は見違えるほど綺麗になっていた。
ヤスヒコは静かに周囲を見回す。
そして小さく頷いた。
「よし」
ビルは箒にもたれ掛かる。
「終わったぁ……」
シャーロットも大きく伸びをする。
「これで修行終わり?」
ヤスヒコは首を横に振った。
「いや」
「ここからだ」
三人は顔を上げる。
「立て」
「……え?」
「立ち方だ」
⸻
三人は言われるまま並ぶ。
「肩の力を抜け」
「足は開き過ぎだ」
「重心はここだ」
一人ひとり丁寧に姿勢を直していく。
派手な技は何一つない。
それでも三人の額には汗が滲み始める。
「きつい……」
ビルが息を切らす。
「立ってるだけなのに」
シャーロットも頬を膨らませる。
「退屈……」
カミリーは黙って続けている。
「…….」
ヤスヒコは静かに言う。
「焦るな」
「強さは積み重ねだ」
「急には身につかん」
その言葉に、三人は自然と背筋を伸ばした。
⸻
休憩を挟んだ後。
ヤスヒコはビルを見た。
「ビル」
「はい」
「一度、俺に打ってこい」
突然の言葉にビルは目を丸くする。
「えっ……俺がですか?」
「ああ」
「今のままでいい」
ビルは木剣を置き、拳を握る。
「……いきます!」
地面を蹴り、渾身の右拳を放つ。
しかし。
ヤスヒコは半歩だけ身体をずらした。
同時に伸びてきた手首へ指先を軽く添える。
それだけだった。
「えっ!?」
拳は空を切り、ビルは数歩たたらを踏む。
「今……何を……?」
「立ち方だ」
「踏み込んだ時、重心が前へ流れた」
「だから崩れる」
ビルは足元を見る。
確かに、身体が突っ込み過ぎていた。
「もう一度だ」
「今度は、さっき教えた通りに立て」
ビルは深く息を吸う。
肩の力を抜き、足の位置を意識する。
「……いきます!」
再び拳を放つ。
今度は身体が流れない。
踏み止まれた。
ヤスヒコは小さく頷く。
「今の方がいい」
その一言だけで、ビルの表情が明るくなる。
「……はい!」
カミリーが感心したように呟く。
「立ち方だけで、こんなに変わるのか」
シャーロットも目を丸くする。
「さっきと全然違った」
ヤスヒコは三人へ視線を向けた。
「技はその後だ」
「土台がなければ、何も積めん」
三人は静かに頷いた。
⸻
帰り道。
ビルがぽつりと呟く。
「俺、強くなれるかな」
ヤスヒコは少しだけ空を見上げた。
「毎日続けていれば、昨日の自分に負けることは無い」
ビルはその言葉を胸の中で繰り返した。
昨日の自分には負けない。
その積み重ねが、
いつか誰かを守る力になる。
そう信じられる気がした。
⸻
冒険者ギルドへ戻る。
泥と汗にまみれた三人と、いつも通りのヤスヒコ。
受付のエミリアが笑顔で迎える。
「皆さん、お疲れ様でした」
シャーロットが笑いながら言った。
「今日は掃除と立ち方だけだったわ」
エミリアは少し驚いたあと、どこか納得したように微笑む。
「ヤスヒコさんらしいですね」
ビルも笑う。
「最初は意味が分からなかったけど……」
「なんだか、あれも修行だった気がする」
ヤスヒコは静かに頷いた。
「修行は、強くなるためだけにするものではない」
「人を育てるためにある」
その言葉に、三人は小さく頷いた。
その横顔を見ながら、ビルはふと思う。
――ヤスヒコさんは、昔はどんな人だったんだろう。
そんな小さな疑問を胸に抱きながら、三人はギルドを後にした。




