一人の武人の始まり①
冬。
戦後の街。
焼け跡は少しずつ姿を消し始めていたが、人々の暮らしはまだ貧しかった。
食べるために盗む。
生きるために殴る。
それが珍しくない時代だった。
その中でも、一人の少年は特に有名だった。
臼井ヤスヒコ。
十六歳。
親から虐待を受け、家を飛び出し、生きるためだけに拳を振るい続けた悪童。
街では知らない者はいない。
喧嘩を売れば必ず勝つ。
相手が何人いようと関係ない。
「近寄るな」
それが周囲の共通認識だった。
だが。
そんなヤスヒコにも気に入らない男が現れた。
黒い胴着。
百九十センチ近い大柄な体。
鍛え上げられた腕。
口元には無精髭。
そして腹の底から響くような豪快な笑い声。
神楽ゲンリュウ。
神楽守道流十四代師範。
⸻
「なんだ、あのオッサン」
道場の前で弟子たちと笑い合う姿が気に入らなかった。
理由なんてない。
ただ腹が立った。
ヤスヒコはそのままゲンリュウのもとへ歩いていく。
「おい」
ゲンリュウが振り向く。
「なんじゃ」
「喧嘩しろ」
弟子たちが息を呑む。
だがゲンリュウは一瞬黙ると、腹を抱えて笑い始めた。
「はっはっはっ!」
「最近の若いもんは挨拶代わりに喧嘩を売るのか!」
ヤスヒコは眉をひそめる。
「笑ってんじゃねぇ!」
拳を振り抜く。
速い。
普通の人間なら見えない一撃。
しかし。
当たらない。
次の瞬間。
景色が逆さまになっていた。
地面。
背中に鈍い痛み。
「……は?」
何が起きたのか分からない。
立ち上がる。
もう一度殴る。
また転がる。
何度挑んでも同じだった。
人生で初めてだった。
一発も当てられない相手は。
息を切らしながら睨みつける。
「なんなんだ……あんた」
ゲンリュウは腕を組み、大声で笑う。
「はっはっは!」
「威勢だけは天下一品じゃな!」
ヤスヒコは歯を食いしばる。
「……クソが」
その時だった。
ゲンリュウが突然、ヤスヒコの肩を叩いた。
「よし!」
「今日からお前はワシの弟子じゃ!」
「……は?」
「決めた!」
「いや、誰が」
「決めた!」
「人の話聞け!」
弟子たちが苦笑する。
「先生、また悪い癖が出てますよ」
ゲンリュウはまた豪快に笑う。
「お前、面白いな!」
「鍛えがいがある!」
「断る!」
「断れん!」
「なんでだよ!」
「ワシが決めたからじゃ!」
まるで話にならない。
ヤスヒコは呆れて頭を抱える。
「意味が分かんねぇ……」
ゲンリュウは道場の中へ入る。
「ほれ」
投げられたのは一本の箒。
「まず掃除じゃ」
ヤスヒコは目を丸くする。
「は?」
「武術は?」
「掃除じゃ」
「喧嘩を教えろ!」
ゲンリュウは笑う。
「武術は人が使う」
「人ができておらん者に教えても意味はない」
ヤスヒコは納得できない。
「ふざけんな」
「帰る」
そう言って踵を返す。
すると背中越しに声が飛ぶ。
「逃げるのか?」
足が止まる。
振り返る。
ゲンリュウは笑っていた。
馬鹿にする笑いではない。
どこか楽しそうな笑顔だった。
「明日も来い」
「待っとるぞ」
ヤスヒコは舌打ちする。
「……二度と来るか」
そう言って道場を後にした。
⸻
翌朝。
気付けば。
ヤスヒコはまた神楽守道流の門の前に立っていた。
理由は自分でも分からなかった。
ただ、初めてだった。
自分自身を見て笑ってくれた大人は。
そして、この日から。
一人の悪童は、後に「先生」と呼ばれる武人への第一歩を踏み出すことになる。




