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隣の彼女は異世界の妻でした  作者: 佐々木勇二


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禁書庫の対話と、無言の共感

禁書庫と呼ばれるその重厚な扉の前で、タウがぴたりと立ち止まった。

「レム」 「なに」 「ここは、一人で行って」

レムは驚いてタウを見た。タウの視線はレムの顔ではなく、彼女の胸に大事に抱きかかえられた、焦げた革の手帳に向けられていた。

「先生が、あなたに持っていけって言ったんでしょ。手帳を…レンさんを」

「……うん」

「なら、あなたが届けるの」

タウの言葉は静かだったが、譲らない芯があった。壁に背を預けていたゼンも、腕を組んだまま何も言わなかった。それが彼の「行け」という無言の答えだった。

レムは自分の胸に抱いた手帳を見た。

表紙の焦げ跡を、震える指先でそっと撫でる。

「……わかった」

深く息を吸い込み、レムは一人で重い扉を押し開けた。

背後で扉が閉まると、外の音が完全に遮断された。

ひやりとした冷たい空気。古い紙とインクが混ざった独特の本の匂い。壁のランプの心許ない光が、高い天井まで届く本棚の影を揺らしている。

古びた板張りの床を、レムはゆっくりと進んだ。

暗がりに、人影を見つけた。

男が本棚の影にひっそりと座っていた。膝の上に開いた手帳を置き、ペンを持った手は止まっている。

こちらを見ようとはしない。でも、侵入者の気配には完全に気づいていた。

彼が「カイ」だということは、直感でわかった。

だが、いざ対面すると、レムは何を言えばいいのかわからなくなってしまった。

息苦しいほどの沈黙が続いた。

耐えきれなくなって、レムの口が勝手に動いていた。要件ではない。ずっと胸の奥に閊えていた、自分でも制御できない恐怖の吐露だった。

「……ねえ、あのね。時計を見ると、いつも針が重なる時間を見てしまうの」

壁の古時計を見つめたまま、絞り出すように言った。

「カルナの村にいた時もそう。馬車に揺られて居眠りしていても、ふと顔を上げると、いつも決まってあのお墓がある場所を見てしまう。俯いて手帳を読んでいても、なぜか不吉な瞬間に顔を上げてしまう……」

声が震え、涙が溢れそうになる。それでも止まらなかった。

「……レンがいなくなったのも、わたしのせいかもしれない」

声が、糸のように細くなった。

「私が見えない何かに呼ばれて、不吉なものを引き寄せているから、だから私が——」

「人間は傲慢だ」 不意に、男が言った。

静かだった。感情を逆撫でするような声でも、遮るような粗暴な声でもなかった。

「幸福は黙って受け取る。なのに、恐怖にだけは『特別な意味』を欲しがって、その意味を読み違える」

「……え?」

「お前が顔を上げたのは、死神や何かに呼ばれたからじゃない。馬車の微かな揺れ、光の角度の変化、風の反響音。そういう環境の断片を、お前の鋭すぎる感覚が拾って、無意識のうちに先に答えを出しただけだ」

男はようやく顔を上げ、レムを見た。眼鏡の奥の理知的な目が、真っ直ぐにレムを射抜く。その一瞬だけ、ペンを握る指に微かに力が入ったように見えた。

「それは呪いでも何でもない。ただの恐怖だ」 少し、間があった。

「死者のせいにするな。恨むなら、自分のその感の良さを恨め」

冷たいようでいて、それはレムが抱え込んでいた「自分が死を呼んだのかもしれない」という自意識過剰な罪悪感を、根底から否定してくれる言葉だった。

レムの喉の奥で、張り詰めていた声が小さく割れた。

しばらく、誰も何も言わなかった。

ランプの火が揺れ、二人の影が壁で静かに重なる。

レムは袖で目を乱暴に拭うと、外套の内側から革の手帳を取り出した。

「……先生が、これを見せろと言っていた」

レムは歩み寄り、カイに手帳を差し出す。

カイは無言で受け取った。ページをめくる。

レンの荒々しい字。そして、定規で引いたような整った字。二種類の筆跡が、交互に並んでいる。

ページを繰るカイの指先が、ぴたりと止まった。

思念が、文字に定着している。消えかけた波紋を、丁寧に拾い上げるようにして書かれた文字だった。カイはそれ以上、中の内容には踏み込まなかった。

眼鏡の奥の目が、最後のページの『彼は行きました』という一文で動かなくなった。

数秒。永遠にも似た数秒だった。

カイは静かにページを閉じた。そして、手帳をレムに返した。

何も言わなかった。 慰めの言葉も、レンへの哀悼も口にしなかった。

ただ、眼鏡を中指で一度押し上げた。 それから、ゆっくりと立ち上がった。

本棚の影から歩み出て、レムのすぐ隣まで来た。

そして、冷たい板張りの床に、レムと並ぶようにして腰を下ろした。

それだけだった。 言葉は一つもなかった。

でも、その確かな体温が、レムのすぐ横にあった。

しばらく、二人で同じランプの揺れる火を黙って見ていた。

やがてレムが、小さく、震える声で言った。 「……ありがとう」

カイは答えなかった。ただ、眼鏡をもう一度だけ、静かに押し上げた。

重い扉が開いた。 レムが出てきた。

待っていたタウが、壁から背を離してすっと立った。何も聞かなかった。ただ、レムの顔を見た。

レムは少しだけ笑った。

泣きはらした後の顔だったが、その瞳は憑き物が落ちたように澄み切っていた。

「……行けたよ」 タウが優しく頷いた。

そこへ、廊下の奥から慌ただしい足音が聞こえてきた。 「おい、ここか」

聞き慣れた、少しぶっきらぼうな声だった。

柊と澪が、二人並んで歩いてくる。ボロボロになった服と、巻き直された包帯。それでも、生きてまた合流できたのだ。

「あっ!」 レムは顔を輝かせ、二人の元へ向かって駆け出した。


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