博士室
地熱村に戻ったのは、夜明け前だった。 蒸気が白く立ち上っている。村はまだ眠っていた。
内山はクロを抱えたまま、博士の研究室の扉を叩いた。
すぐに開いた。 少女が立っていた。目が覚めていた。待っていたような顔だった。
「来ると思ってた」
博士の声だった。 少女の声帯から出ているのに、重さが違う。
「入って」
部屋は変わっていなかった。 棚に資料。窓の外に蒸気。机の上に、小さな機械が並んでいる。 ミカが後ろから入ってきた。部屋を見回して、黙って壁際に立った。
博士はクロを見た。 内山の腕の中で、クロは目を開けていた。青銀の光が、細く間欠的に脈打っている。 博士の表情が、少しだけ変わった。
「石化が進んでる」 「ああ」 「思ったより早い」 「わかってる」
博士はクロの前にしゃがんだ。 指先を伸ばした。触れる寸前で止めた。
同じ技術の別の表れ。そのことを、クロも知っているようだった。
「……ごめんね」
小さい声だった。子供の声なのに、その言葉だけは老いた声だった。
「知ってたのに、止められなかった」
内山は黙って聞いた。
「あの子は最初から、こうなる可能性があった。初号機だから。制御系が不完全だから。使いすぎれば、内側から固まっていく」 「治せるか」
博士は立ち上がった。
「一つだけ、方法がある」
机の引き出しを開けた。中から、小さな基板を取り出した。
「救済回路。島の研究所で作られたもの。本来は抽出炉の補助装置だったけど、構造を逆用すれば、クロの核と繋ぎ直せる」 「どこで使う」 「要塞の最深部」
博士は基板を置いた。
「箱の男の工房があった場所。クロの青銀の原初がそこにある。そこへ持っていって、核と接続する」 「クロ一匹で行かせるのか」 「違う」
博士は少女の自分の手を見た。「私が一緒に行く」
ミカが壁から体を起こした。「どういうことだ」
「この身体の持ち主、この子の魂はまだここにいる」博士は静かに言った。
「私の思念と共存している。でも要塞のコアに干渉するなら、想いが必要になる。知りうるものはヴェルナーの他に私しかいない」
「思念をクロに移す、ということか」
「そう」博士は頷いた。
「クロの中に、私の思念を重ねる。この子の身体は、カプセルで保管する」
ミカが内山を見た。内山はクロを見ていた。 クロの目が、内山を見ていた。青銀が、一度だけ脈打った。
「クロ」返事はなかった。でも、耳がわずかに動いた。
「……お前はどう思う」青銀が、また一度だけ光った。細く。弱く。でも確かに。
「わかった」内山は博士を見た。
「やってくれ」
博士が準備を始めた。机の上に、小さな装置が並べられていく。 基板。細い管。光を通す素材で作られた、薄い膜のようなもの。ミカは黙って見ていた。しばらくして、口を開いた。
「……どうして、そこまでしてくれるんだ」
博士はミカを見た。 少女の顔だった。でも、その目だけは違った。
「この子がクロを助けたいと思っているから」ミカが黙った。
「この身体の持ち主の子が」博士は続けた。
「クロのことを、ずっと心配してた。私の思念と一緒に、ずっと」
ミカは窓の外を見た。蒸気が白く流れていた。「この世界で起きていることを、書いてもいいですか…」博士は少しだけ笑った。 少女の顔に、老いた笑みが浮かんだ。
「書きなさい。隠されたまま死ぬより、伝わった方がいい」
ミカは頷いた。それからメモを出した。書き始めた。
準備が整った。 クロを台の上に寝かせた。博士がクロの頭に両手を置いた。 目を閉じた。部屋が静かになった。
装置が光り始めた。 細い線が、博士の掌からクロの頭部へ流れていく。 クロの青銀が、一度だけ強く輝いた。それから、また細くなった。
でも今度は、その細さの中に、何か別のものが混じっていた。 老いた意志の、静かな温度が。「……行くよ」
博士の声が、少女の口から出た。 でもそれは、もう少女だけの声ではなかった。
クロの目が、一瞬だけ輝いた。それから、静かになった。
少女の身体が、ゆっくりと傾いた。内山が支えた。 眠っているみたいだった。穏やかな顔だった。内山はその顔を見た。しばらく動けなかった。
「……頼んだ」
扉が開いた。外の空気が、冷たかった。 地熱の蒸気が白く流れていた。夜明け前の、一番暗い時間だった。
クロが内山の横を歩いていた。さっきより、足取りが違った。後脚の遅れが、少し減っていた。 青銀の脈動が、さっきとは違う周期を持っていた。二つの意志が重なった、落ち着いた脈動だった。「……歩けるか」
内山が低く聞いた。 クロは前を向いたまま、一度だけ耳を動かした。
「どこへ向かう」 「港だ」内山が言った。「船を手配してある」 「誰が」 「灰原が」
ミカは少し黙った。
「……信用できるのか」 「クロが判断した」
それ以上は聞かなかった。 三人と一匹は、村の石畳を歩き出した。遠くで、海の匂いがした。
港は小さかった。 石造りの桟橋が一本。漁船が一艘。灯りが一つだけついていた。
灰原が先に来ていた。 桟橋の端に立って、海を見ていた。胸を押さえていた。いつもの癖だった。
「来たか」振り返らずに言った。「待たせた」 「いや」
灰原は海を見たまま言った。
「ちょうどいい時間だ」
桟橋に、もう一人いた。初めて見る顔だった。 革のベストに、腰に短剣を三本。口の端が上がっていた。 値踏みではなかった。確かめるような目だった。
「ガロだ」短く言った。
「内山。医者だ」 「医者か」
ガロは少し間を置いた。「島の連中と一戦交えるわけだ。面白ぇ」
それだけだった。それ以上聞かなかった。 全員が乗り込んだ。クロを抱いたまま、内山は船尾に座った。
エンジンが低く唸り始めた。灯りが消えた。船が動き出した。
夜の海は重かった。 波の音がしない。風もない。油の上を滑るような、異様な静けさだった。 水面が黒い鏡のようだった。空の星が、そのまま下へ続いているように見えた。
内山は腕の中のクロを確かめた。 目は開いていた。呼吸はあった。 青銀の脈動が、間欠的に続いていた。
ピ…… ……ピ……。
でも、さっきとは違った。一人じゃない脈動だった。「クロ」
耳が、わずかに動いた。「……聞こえてるか。博士も」
青銀が、一度だけ少し強くなった。それだけだった。
ガロが船の先端に立っていた。腕を組んで、前を見ていた。 しばらくして、振り返らずに言った。
「静かだな」 「海が」 「いや」
ガロは前を向いたまま言った。「お前さんが」
内山は答えなかった。ガロも続けなかった。また前を向いた。
船の端で、灰原が座っていた。胸を押さえていた。目を閉じていた。 しばらくして、目を開けた。海を見た。
内山の手の平が何かを感じた。船底を通じて、何かが届いていた。 三拍ごとに、少しだけ強くなる振動だった。
「……脈打ってる」内山は呟いた。「下から来てる」
クロの青銀が、その振動に合わせて乱れた。 腕の中でクロが動いた。わずかだった。だが確かに動いた。 目が海の方を向いた。
内山は腕の中のクロを、少しだけ強く抱き直した。青銀が脈を打つごとに、皮膚越しに温度が伝わってきた。熱くはない。冷たくもない。ただ、生きている体温だった。
その時だった。
内山の視界が、一瞬だけ揺らいだ。
夜の海が、消えた。代わりに、小さな部屋が見えた。机の上で、青い硝子のランプが静かに灯っていた。その横で、オルゴールが低く鳴っていた。欠けていない、完全な旋律だった。
木の棚に、模型が並んでいた。その中に、艶のある黒い木で彫られた、小さな犬の模型があった。
誰かが、その犬を撫でていた。小さな手だった。
「クロちゃん」
少女の声だった。内山はその声を、知らないはずだった。でも、喉の奥が締め付けられた。
像は、すぐに消えた。夜の海に戻った。船底の振動が、また三拍ごとに届いてきた。
クロの青銀が、腕の中で、もう一度脈打った。
(……見せたのか)
内山は、腕の中のクロに視線を落とした。クロは海の方を向いたままだった。博士の思念が、クロを介して、何かを届けている。医師としての勘が、そう教えていた。
内山は何も言わなかった。ただ、もう一度クロを抱え直した。
ピッ……。青銀が一瞬だけ強くなった。それからまた細くなった。
「戻ろうとしてる」
次に、光が来た。 海面の下から、青い線が走った。一本だけだった。細かった。 波紋のように広がって、消えた。
それから間があって、また走った。 今度は二本だった。広がり方が速くなっていた。
ガロがエンジンを絞った。船が減速した。 灰原が目を開けた。胸を押さえたまま、立ち上がった。海を見た。
「……来る」
音が先に来た。 低い。骨に響く。海の底から這い上がってくる駆動音だった。
ゴウ…… ゴウ…… ゴウ。
一定の間隔で、近づいてきた。船の底板が振動した。 水面が細かく波立った。星の反射が歪んだ。
次に光が来た。 青白い稲妻が海面を割った。一本。また一本。水が蒸発した。白い煙が上がった。泡が立ち昇った。
そして影が来た。 巨大だった。最初は輪郭だけだった。 海面の下に、黒い塊があった。それが、ゆっくりと上がってきた。
無数の箱が連結した構造体だった。 黒く、冷たく、表面を青白い光が不規則に走っていた。 海面を割って、水を押しのけて、ゆっくりと姿を現した。
波が四方へ逃げた。船が大きく揺れた。全員が船縁を掴んだ。 誰も声を出さなかった。
要塞だった。
内山はその巨大な構造物を見た。 外壁の継ぎ目。光の走り方。振動のリズム。 全部が、一つの生命体の呼吸のように見えた。これは生きている何かだ。
要塞の内部から、オルゴールの音がした。 壁を通じて届いてきた。壊れかけた旋律だった。音が欠けていた。 それでも鳴り続けていた。




