金書庫 焚き火の夜
金書庫の前でレムとゼン、そして柊、澪は再会を果たした。腕輪でお互いの確認はできたはずなのに、双方それをすることはなかった。カルナで苦難を乗り越えた四人にとって、それは不要な事でしかなかった。
「柊くん! 澪さん!」 「おう」
柊が言う前に、レムが澪に抱きついた。
「よかった……! 無事で……!」
澪が少し驚いた顔をした。 それから、レムの背中にそっと手を置いた。
「ええ。心配かけたわね」 「心配したよ! ヴェルナーさんから連絡来て、澪さんが倒れたって聞いて……」 「もう大丈夫」
澪が静かに言った。レムがようやく離れた。目が赤かった。
ゼンが壁に背を預けて、腕を組んでいた。
「遅かったな」 「お前らこそ、先に来てたのか」 「一応な」
ゼンはちらりと澪を見た。
「……立ってるじゃん。よかった」
それだけだった。でも、声が少しだけ柔らかかった。
部屋の奥には、もう二人がいた。ブラスとダリ。レムが都市の混乱で負傷した夜、物陰から駆け寄ってレムたちを逃してくれた剣士たちだった。その後、タウを含めた一行と共に、ここまで来たのだという。
柊は、初対面の二人を見た。大柄な剣士と、気配を消す剣士。レムから手紙で名前だけは聞いていた。
ブラスが、軽く顎を引いた。「話は聞いている」
ダリは、ただ静かに頷いた。それだけで、挨拶は終わっていた。
タウが入ってきた。レムの横に立った。
全員が揃っていた。 しばらく、誰も何も言わなかった。 久しぶりに同じ部屋にいる。それだけで、空気が少しだけ変わった。
「……なぁ」ゼンが言った。 「なに」柊が返す。 「お前ら、ここまで来たら夫婦って設定いらなくない?」
部屋が、静かになった。
レムが「あっ」という顔をした。 ブラスは表情を変えなかった。ダリも変えなかった。 タウが、そっとレムの袖を引いた。澪が、少しだけうつむいた。
柊はゼンを見た。
「人の家庭に口出しすんな」
ゼンが目を丸くした。レムが口元を押さえた。
「……家庭って言った」 「言ってない」 「言った」 「聞こえなかった」
澪はまだうつむいていた。でも、耳の端が少し赤かった。
そこへ、奥の扉が開いた。 男が出てきた。二十代後半か。少し伸びた髪。眼鏡。サイズの大きなコートを着ている。 手にメモを持っていた。顔立ちは整っているが、それに気づいていない顔をしていた。
「来たか」低い声だった。
柊が言った。「内山先生に言われて」 「知ってる」カイはメモを見たまま言った。
「では」カイが顔を上げた。「七塔の現状から話す」
七塔作戦
カイがメモを広げた。机の上に、地図を置いた。七つの点が印されていた。
「現状を説明する」全員が地図を囲んだ。
「七塔のうち、すでに二塔が掌握されている。軍事施設に紐づく二塔だ。そこからの思念干渉で、この行政区の住民が同調支配されている。さっき街で見た光景がそれだ」 「残りは」ブラスが言った。 「行政施設に紐づく四塔と、山の上の一塔。今夜中に全部落ちる」 「止める方法は」
カイは眼鏡を押し上げた。
「掌握された二塔へ逆流させる。そこから残りの塔へ、逆の振動を送る。干渉を上書きする形だ」 「誰がやる」ダリが言った。 「塔の中枢に入れる人間が必要だ。振動を扱える人間が」
レムが手帳を見た。タウが静かに頷いた。
「私たちが行く」レムが言った。
カイがレムを見た。一瞬だけ、何かを確かめるような目だった。 それから頷いた。
「二塔への流入役、レムとタウ」カイはメモに書きながら続けた。「鉄塔を断つ役、ブラスとダリ。二塔と外部の接続を物理的に切る」
ブラスが顎を引いた。
「おとり役」カイはゼンを見た。
ゼンが肩をすくめた。
「わかってた」 「敵の注意を引きつけながら、各チームの動きを確保する」 「で、俺たちは」柊が言った。
カイは柊と澪を見た。
「君たちは、中枢へ行く」
部屋が静かになった。
「七塔の中心。全ての塔が繋がっている場所だ。そこから逆流させた振動を、さらに増幅させる必要がある」 「ヴェルナーさんが言ってた」澪が言った。「強い絆の振動を逆流させると」 「そうだ」カイは二人を見た。「あなたたちの共鳴が、その核になる」
柊は澪を見た。澪は柊を見た。
「もう一つ」
カイが続けた。全員が静かになった。
「七塔を逆流させた後、何かが起きる可能性がある」 「何が」ゼンが言った。
カイは少し間を置いた。
「仮説だ。断言はしない」 「言えよ」 「七塔の一時切断が、別の何かの起動スイッチになるかもしれない」 「別の何か」
カイは地図の端を見た。海の方角だった。
「島の方から、すでに振動が来ている。内山さんたちが向かっている場所だ」
誰も言葉を出せなかった。 タウの声が、静かに言った。
「それでも、やるんですよね」
カイは答えなかった。少し間があった。
「……私の仕事は観測だ」
眼鏡を押し上げた。
「だが今夜だけは、観測だけじゃ終われない気がしている」
レムが、小さく笑った。
「カイさん」 「なんだ」 「それ、仮説じゃなくて本音ですよね」
カイは答えなかった。ただ、眼鏡をもう一度だけ押し上げた。
【作戦開始】
夜が深まっていた。
金書庫の扉が開いた。外の空気が流れ込んできた。冷たかった。誰も外套の前を合わせ直さなかった。
空が赤かった。塔の影響だ、と誰もわかっていた。赤の向こうで、星が薄い。いつもと違う色をしていた。
カイが先に石段を降りた。眼鏡を押し上げた。
「三十分後に同時展開」振り返らずに言った。「遅れるな」
「了解」ブラスが短く返した。
ダリが音も立てずに後ろへ回った。二人は路地の暗がりへ消えた。それきりだった。
ゼンが壁に寄りかかっていた。煙草を銜えていた。火はつけていなかった。
「じゃあな」
それだけ言って、別の路地へ歩き出した。振り返らなかった。足音が遠のいた。
レムが手帳を胸に抱いていた。タウがその横に立っていた。レムがタウを見た。タウがレムを見た。二人とも、頷きもしなかった。それで十分だった。
歩き出した。振り返らなかった。
カイは最後に柊と澪を見た。眼鏡の奥の目が、一瞬だけ、戦う人間の目に変わった。
「あなたたちは、中心に立つ」
柊が頷いた。澪も頷いた。
カイは踵を返した。肩に古い革鞄を担いでいた。中に禁書が入っている、と誰もが知っていた。
「私は山の塔へ行く」
「……一人でか」柊が言った。
カイは少しだけ振り返った。
「観測者に、護衛はいらない」
それだけだった。カイも、石畳を遠ざかっていった。
金書庫の前に、柊と澪が残った。ヴェルナーが少し離れた場所に立っていた。
澪が夜空を見上げた。赤が、少しずつ広がっていた。
「……始まる」 「ああ」
柊は澪の手を見た。澪が、その手を差し出した。柊が握った。冷たかった。でも、震えていなかった。
ヴェルナーが静かに言った。
「行きましょう」
三人は、古い石造りの建物へ向かった。地下への階段が、そこで待っていた。
【レムとタウ 二塔の中枢】
塔の内部は静かだった。静かすぎた。
管理局の警備がいるはずだった。だが、廊下に誰もいない。照明だけが、規則的な間隔で灯っていた。
「……乗っ取られてる」レムが低く言った。「中の人間が、全員同調してる」
「他の部屋には」 「たぶん、伏せてる。体は動かない」 「起きたら」 「たぶん、何も覚えてない」
タウが少しだけ息を吸った。そういう状況を、タウは知っていた。自分の父のときと、近い。
「行こう」
二人は走った。足音を消す必要はなかった。誰も聞いていない。
中枢への扉は開いていた。中に入った瞬間、空気が変わった。
重かった。思念の圧だった。肩の上に、知らない誰かの手が置かれているような感覚。呼吸が浅くなった。
広い空間だった。天井が高い。中央に、巨大な核が浮いていた。
光が、揺れていた。整っていない。一定でもない。不規則な波が、核の表面を走っていた。壁の光線が、それに引きずられて乱れていた。
タウが一歩、前に出た。
(……苦しんでる)
口に出さなかった。でも、わかった。父のときと同じだ。壊れる前の音だ。伝えたくて、でも伝わらなくて、ただ震えている。
レムが手帳を取り出した。表紙の焦げ跡を、指先でなぞった。
「レン」声に出した。「もう一度だけ、力を貸して」
手帳が、熱を持った。焦げた表紙の継ぎ目が、かすかに光った。
タウが目を閉じた。喉が乾いていた。自分の声がどう出るか、わからなかった。
(できるのか)わからない。(止まるのか)わからない。(意味があるのか)わからない。
一歩、下がりかけた。
(無理だ)
外から、押し付けられるような重さが来ていた。箱の男の思念だった。直接届いてきた。
『歌など意味がない。音は記憶を呼ぶ。記憶は痛みを呼ぶ。声を止めろ』
タウの喉が、塞がりかけた。
でも。
レムが、手帳を胸に抱き直した。焦げた表紙に、唇を寄せるくらい近く。
「レン」
レムの声は震えていた。でも、消えなかった。
「届いてる?」
手帳が、また熱を持った。一度だけ、強く。
それで、タウの喉が、ほどけた。
一音。最初の一音が出た。弱い。不安定。消えそう。それでも、消えない。廃屋の夜と同じ声だった。でも今夜は、もっと遠くを向いていた。
核の振動が、ぶれた。二音目。崩れる。整っていない。でも、核の表面の波が、変わりかけた。
「……聞いて」
言葉が、混じった。
三音目。広がった。強くない。押し返してはいない。ただ、触れていた。
核の光が、揺れた。波が、変わった。
そこで。声が、落ちた。一音、消えた。
タウの喉が焼けた。次が、出ない。
(……来ない)
沈黙が、戻りかけた。核の光が、また乱れ始めた。箱の男の思念が、笑った気がした。
『そら、お前の声では足りない』
それでも。
タウは、息を吸った。震える息だった。レムが、隣にいた。手帳を胸に抱いて、目を閉じていた。祈っていた。祈りは、見たことがなかった。でも、それが祈りだとわかった。
「……戻って」
最後の言葉が、こぼれた。
沈黙。一瞬。すべての振動が止まった。
呼吸だけが、残った。
その次の瞬間。波が、ほどけた。荒れていた振動が、ゆっくりと整っていく。核の光が、柔らかくなる。
タウは、立っていた。でも、声が出ない。喉が焼ける。口の中に、鉄の味。
血が、落ちた。
レムが駆け寄った。タウは笑った。うまく笑えていなかった。
「……止まったよね」
そのまま、崩れた。
レムはタウを抱き留めた。軽かった。思っていたより、ずっと軽かった。
「大丈夫」レムが言った。「大丈夫だから」
手帳が、レムの胸の前で、熱を持ったままだった。
『―― 届いた』
声ではなかった。文字が、浮かんだのだ。手帳の新しいページに。
レンの字だった。
レムは、そのページをしばらく見ていた。
「……ありがと」
小さい声で、言った。手帳を閉じた。タウを、床にそっと寝かせた。
そして、接続部へ向かった。手帳を、中枢の接続部に当てた。
光が走った。二塔の間を、青白い線が結んだ。そこから、残りの五塔へ向かって、逆の振動が流れ始めた。
レムは、手帳を胸に抱いたまま、その場に座り込んだ。
「……あとは、みんな」
タウの呼吸を確かめた。浅いが、ある。それで、よかった。
塔の中で、一つ目の灯が、反転した。
【カイ 山の塔】
山の塔は高かった。
登り口から頂上まで、石段が螺旋状に続いていた。途中に踊り場はない。ただ、上がる。
カイは一人で登った。外套の裾が風にはためいた。眼鏡を、一度だけ押し上げた。
塔の中腹から、風の音が変わった。外の風ではなく、塔の内部の流れだった。カイは気づいていた。塔は、呼吸をしていた。
頂上の扉を押した。内部は広かった。天井が高い。中央に、術式の柱が立っていた。
禁書のページが、宙に浮いていた。床に、光の円が幾重にも重なっていた。
これが最後だ。
カイは柱の前に立った。鞄から禁書を取り出した。表紙は古く、角が擦り切れていた。膝の上に開いた。
誰にともなく言った。
「始める」
禁書のページを、一枚ずつ、術式の中へ放った。ページが宙で止まり、光の円と噛み合った。術式が組み上がっていく。完璧だった。誤差がない。損失がない。
外壁で、金属の音がした。遠かった。それでも、聞こえた。
(ブラスが動き始めた)
カイは少しだけ、息を吐いた。
術式が、七塔の全ての波形を画面に呼び出した。七本の光の線。そのうち二本が、わずかに色を変え始めていた。
(レムとタウが、入った)
カイは頷いた。誰も見ていない場所で、誰のためでもなく。
計算を始めた。逆流の波形を、どう成形するか。タウの声が作った波を、どう増幅して残りの五塔へ送るか。効率的に。無駄なく。正確に。
その時だった。
術式の中心が、白く濁った。
止まる。噛み合わない。カイの指が、止まった。
『統治しろ』
声ではなかった。思念が、直接届いた。
カイは顔を上げた。目の前の術式の中心で、別の解が浮かび上がっていた。
より速い。より確実。より完全。
『その解を使え。七塔を一度、全て掌握してから、順に解放すればいい。より安全だ』
カイは、その解を見た。美しかった。否定できないほど、完璧だった。
「観測する」
カイは、術式を手動の経路へ戻した。
『同じことだ』
思念が返ってきた。議論を、求めていた。
『お前は世界の歪みを見つけるたびに、正したいと思っていた。違うか』
カイは答えなかった。否定できなかった。
禁書庫で一人、計算機を叩いていた夜。歪みを見つけるたびに、正したいと思っていた。効率的に。無駄なく。正確に。感情を挟まず。
『ならば正せ。完全に。お前の手で』
「……正すことと、支配することは」
カイは言った。声は低かった。
『違うか?』
沈黙。
外壁で、また金属の音がした。ブラスの剣が、支柱を断っている音だった。
『答えられないだろう。同じだからだ』
カイの指が、術式へ伸びかけた。
止まった。
頭の奥で、像が浮かんだ。声ではなく、像だった。
ゼンが、金書庫の壁にもたれて煙草を銜えていた横顔。火はつけていなかった。 レムが、手帳のページが白くなってもまだ胸に抱いていた姿。 タウが、震える声で一音目を出そうとしている喉。 柊が、澪の手を握っている指先。 澪が、柊の目を真っ直ぐ見ていた目。
あの誤差だ、とカイは思った。計算に収まらない、ずれた動き。非効率で、非合理で、説明のつかない選択。
『それが何だ』思念が続けた。『誤差は誤差だ。排除すれば、誰も傷つかない』
「傷つかない」カイは繰り返した。「だが」
禁書のページを、一枚、破いた。乾いた音がした。
「誰も、選ばない」
『選択が苦しみを生む。ならば』
「苦しみごと、見ていたい」
沈黙。
思念が、揺れた。
「観測したいんだ」カイは続けた。自分でも、初めて言葉にした気がした。「誤差を見ていたい。計算通りにならない動きを。あいつらが何を選ぶかを」
『……愚かだ』
「そうかもしれない」
カイは、最後のページを放った。術式が、変わった。
『お前は、世界を壊す側に立つ』
「違う」カイは静かに言った。「私は、観測を続ける側に立つ。あなたが終わらせようとした世界の、続きを」
思念が、一度だけ大きく揺れた。それから、引いていった。
カイは息を吐いた。眼鏡を押し上げた。指先が、わずかに震えていた。
外壁で、咆哮が聞こえた。ブラスの声だった。
(間に合うか)
術式を、再構築した。タウの波形を受け、五塔へ分配する。効率的な解ではない。最適解でもない。でも、誰も手放さない経路だった。
禁書の最後の一ページが、宙で燃えた。黒く潰れていく文字を見ながら、カイは惜しいと思った。喉が焼けるほど、惜しかった。
それでも、手を止めなかった。
術式が落ちた。光が七塔へ向かって、放射状に広がっていった。
カイはその光を見ていた。眼鏡の奥で、目が少しだけ細くなった。
「……見ていたいな」
小さく、呟いた。
外の風が、塔を吹き抜けた。
【ブラスとダリ 鉄塔を断つ】
塔の外壁は、風が強かった。
足元は幅三十センチほどの出っ張りだけだった。下を見れば、灯りの消えた街が遠い。ブラスは見なかった。見たら、足が止まる。そういう高さだった。
支柱が四本あった。順番に断つ。それだけだ。
ダリは、もう一つの塔の外壁にいた。ブラスが担当しない方の、もう四本の支柱を引き受けている。二人で、合計八本。手分けしなければ、夜明けまでに終わらない。
ブラスは剣を抜いた。古い剣だった。刃こぼれが、いくつもある。それでも、切れる。
一撃目。踏み込んだ。金属が軋んだ。ひびが走る音がした。
二撃目。「……っ」外套の内側が熱くなる。生命力が削れていく。こういうことを、続けていい体じゃない。わかっている。わかっていて、やっている。
二本、入った。
次の支柱へ向かおうとした、その瞬間。
視界の端で、景色が変わった。
街だった。別の街。低い家並み。夕餉の煙。子供の笑い声。戻らなかった場所。
もう二十年も前のことなのに、細部まで見えた。石畳の継ぎ目。井戸の錆。隣の家の洗濯物。全部、くっきりと。
(また、か)ブラスは目を閉じた。
違う。
いつもと、違う。
鮮明すぎる。まるで誰かに見せられているようだった。
声がした。胸の奥からではなかった。外から、来ていた。
『お前の判断が遅かったからだ』 『お前が来なかったからだ』 『お前が、あの子を見捨てた』
剣先が、下がった。足がすくんだ。
ブラスは奥歯を噛んだ。
わかっている。これは、塔だ。記憶を使って、揺さぶっている。塔の思念が、一番痛い場所を正確に突いてくる。
それでも。足が、動かない。
二十年分の重さは、本物だった。判断が遅れた。来るのが遅かった。着いた時には、もう全部、終わっていた。子供の顔が、灰の中に埋もれていた。
『お前に、誰かを救う資格はない』
ブラスは剣の柄を、強く握り直した。掌に、汗が滲んだ。
風が吹いた。その中に、かすかな音が混じった。
歌だった。遠い。かすれている。それでも、消えなかった。
タウだ。
タウの声が、塔を越えて、ここまで届いていた。震えている声だった。でも、消えない声だった。
ブラスは、目を開けた。
遠くで、仲間たちが動いている。それだけわかれば十分だった。
「……今度は、違う」
誰かに向けた言葉じゃない。塔に向けた言葉でもない。ただ、口から出た。
三撃目。咆哮とともに踏み込んだ。
支柱が、内側から砕けた。ブラスの肩が、赤く熱くなった。外套の下で、生命力の最後の蓄えが、薄くなっていた。
もう一本。残っている。
―――
ダリは、塔の反対側にいた。
剣は抜いていなかった。ダリの武器は、剣ではない。手だった。
支柱の継ぎ目に、指を置いた。目を閉じた。息を整えた。
(音を立てるな)
ダリの「断ち方」は、音をほとんど立てない。継ぎ目の一番弱い場所を、一点で押す。金属が、自分の重さで折れる。そういう断ち方だった。
三本、入った。既に。
残り、一本。ダリは耳を澄ませた。
遠くで、ブラスが叫んでいた。咆哮だった。
(……聞こえた)
それで十分だった。
ダリは、最後の支柱に指を置いた。押した。金属が、自分の重さで折れた。塔が、わずかに傾いだ。
ダリは振り返らなかった。ブラスのいる方角を、一度だけ見た。それから、石段を駆け降りた。
―――
ブラスは最後の支柱の前で、剣を構え直していた。
腕が、上がらなかった。外套の内側が、冷たかった。生命力が、底をついていた。
(一撃だけでいい)
歯を食いしばった。
遠くで、歌がまだ続いていた。震える声だった。途切れそうな声だった。でも、止まらない声だった。
ブラスは、笑った。少しだけ。
「……お前に負けられるか」
誰に向けたわけでもない。独り言だった。
踏み込んだ。最後の一撃。
音が、遅れて来た。支柱が内側から砕ける。塔が、わずかに傾いだ。
同時に、膝が折れた。剣を支えに辛うじて立った。視界が揺れた。右の感覚がなかった。もう次は振れない、と自分でわかった。
夜の向こうで、歌がまだ続いていた。遠くで誰かが、止まらずにいる。それだけがわかった。
ブラスは、剣に体重を預けたまま、ただ立っていた。
「……済んだぞ、ダリ」
誰もいない外壁で、静かに言った。
風が、吹き抜けた。
【ゼン おとり、そして機械室】
ゼンは路地を走っていた。
わざと大きな音を立てながら。わざと角を曲がりながら。わざと、見つかりながら。
「こっちだ、こっちにいるぞ!」
声を張り上げた。街の路地に、響いた。
同調された住民が、一斉に振り返った。赤い瞳だった。焦点が合っていない。でも、音には反応する。
一人、二人、三人。増えていった。
(……来いよ、全部)
路地を折れた。また折れた。追ってくる足音が増えるたびに、胸の奥で何かが落ち着いていった。
奇妙な感覚だった。怖くないわけじゃない。ただ、やることが決まっている時の、あの感覚だった。
誰かの短剣が、肩を掠めた。熱い痛みが走った。構わず走った。
また一撃。脇腹。血が滲んだ。足が重くなった。
(まだだ)
曲がり角を三つ抜けた。引きつけた数を、ゼンは数えていなかった。数える必要がなかった。全部、こっちに来ていればいい。
それだけだった。
角を折れた先で、ふっと足音が途絶えた。
ゼンは路地の奥に滑り込んだ。壁に背を預けた。息を整えた。肩が、熱い。脇腹が、重い。
建物の裏口から、地下への階段があった。機械室へ続く階段だ、とカイの地図で確認していた。
(……ここだ)
階段を降りた。熱気が上がってきた。油の匂い。焼けた金属の匂い。赤い非常灯だけが、明滅していた。
分厚い防火扉が見えた。向こうで高圧管が唸っていた。継ぎ目から、白い蒸気が細く漏れていた。
扉に手をかけた瞬間。
手の中で、振動が止まった。
流れが、途切れた。
「……止まった?」
誰もいない通路で、ゼンは呟いた。
塔の唸りが、変わっていた。暴れていた何かが、急に行き先を失ったような音だった。違う。足りない。何かが、噛み合っていない。
(……足りてねえ)
理屈じゃない。直感だった。
タウが歌っている。レムが波動を流している。ブラスが支柱を断っている。カイが術式を展開している。遠くで、柊と澪が立っている。もっと遠くで、内山とクロが動いている。
全部動いている。なのに、繋がっていない。
(俺か)
ゼンは扉を見た。
手を引けば、助かる。わかっていた。一目でわかる。扉を開けずに、ここを出ればいい。
一瞬だけ、迷った。
その時。背後で、声がした気がした。
「関係ないだろ」
振り返った。誰もいない。
でも、声は知っていた。少し投げやりで、少し呆れたみたいな声。自分の声だった。昔の自分の声だった。
ゼンは、少し笑った。
「……そうだな」
そう言いかけて、止めた。
「偽善が心地いいだけだ」
誰に向けたわけでもない。持論だった。昔からそう思っていた。善意なんてものはない。心地いいから動く。それだけだ。人間の本質なんて、どいつもそうじゃないか。
レムの顔が、浮かんだ。泣きそうなくせに泣かない顔。タウの震える喉が浮かんだ。ブラスの寡黙な横顔が。カイの眼鏡の奥の目が。
(レンも、こんな顔を見ていたのか)
「……それでいい」
扉に手を置いた。熱かった。
腰のベルトからレンチを抜いた。継ぎ目にねじ込んだ。金属が悲鳴を上げた。もう一度。体重をかけた。ずれた。
ほんの少しだけ。でも、十分だった。
隙間から中が見えた。剥き出しの赤いチューブ。中心核へ向かって収束する、赤い流れ。
(……これか)
箱の男の思念が、塔へ入る経路。これを断てば、残りの塔への干渉が切れる。そしてタウの声が、残りの塔へ届く。
手を引けば、助かる。それはわかっていた。
ゼンは深く息を吸った。右手を、突っ込んだ。
瞬間、電流のような衝撃が全身を走った。
骨まで響いた。筋肉が引きつった。視界が白くちかちかした。息が、止まった。
それでも、掴んだ。
滑った。もう一度、血まみれの手で握り直した。
「……っ、ふざけんな!」
全身で引いた。びくともしない。もう一度。足を踏ん張った。膝が笑った。歯が、ガチガチと鳴った。
それでも、引いた。
「うおおおおっ!!」
鈍い破裂音。チューブが千切れた。
赤い流れが、途切れた。
その瞬間。
何かが、合った。
説明できない。音でも光でもない。ただ、何かが噛み合った感触だけがあった。
遅れて、白い光が走った。
ゼンはその場に膝をついた。全身が痺れていた。右手の感覚がない。左手も震えて動かない。
「……最悪だ」
笑うしかなかった。
痛みより先に、変な可笑しさが込み上げてきた。生きてる。とりあえず、まだ。
塔の唸りは、確かに変わっていた。止まっていた。
ゼンは少しだけ顔を上げた。
「……なら、いいか」
小さく言って、息を吐いた。
床に、煙草が落ちていた。いつの間にか、ポケットから滑り出ていた。火はついていない。
ゼンはそれを、動かない手で拾おうとした。拾えなかった。
笑った。
「……レム」
誰にも聞こえない声で、言った。
「お前のおかげだ」
目を閉じた。まだ、死にはしない。それだけはわかった。




