念の源
【マザーブレイン 柊と澪】
振動が来た。
柊の中に、流れ込んでくるものがあった。感情だった。誰かの、強い感情だった。
怒り。悲しみ。喪失。そして、愛情。
家族を愛していた。守りたかった。でも守れなかった。だから世界ごと消してしまいたかった。
(これが、箱の男か)
柊は踏ん張った。足が、震えた。
思念は、絶え間なく押し寄せてきた。工房の光。妻の横顔。娘の笑い声。それが全部、一瞬で灰になった記憶。崩れた工房の梁の下で、動かなくなった二つの影。
「柊くん」澪の声がした。「大丈夫」 「嘘つかないで」 「大丈夫だって」
澪の手が、柊の手を強く握った。
「一緒にいる」
柊は澪を見た。澪は正面を向いていた。光の中心を見ていた。震えていた。でも、目が死んでいなかった。
「……ああ」柊も前を向いた。
箱の男の思念が、また押し寄せてきた。さっきより、強かった。
『お前たちは、何も失っていない。何も知らない』 『二人で来た。二人で帰れると思っているな』
柊の肩が、一瞬だけ重くなった。澪の肩も、同じだろう、と柊は思った。
でも、手を離さなかった。澪も離さなかった。
『感情は、痛みの前兆だ。関係は、喪失の前兆だ。排除しろ。楽になれ』
「楽になりたくない」
澪が言った。静かな声だった。
「痛くてもいい。ちゃんと痛みたい」
箱の男の思念が、一瞬だけ、止まった。
その時。遠くから、振動が来た。別の振動だった。
一つ。二つ。三つ。四つ。
塔が、一つずつ、反転していた。タウの声が、レムの手帳の光が、七塔へ広がっていた。カイの術式が、それを五塔へ分配していた。ブラスの剣が支柱を断った衝撃が、ゼンの引きちぎった管が、全部が全部、ここへ流れ込んでいた。
柊は、それを感じた。背中から、胸から、繋いだ手から。
「……届いてる」
澪も頷いた。
「みんな、動いてる」
二人の手が、強くなった。指が、組まれた。
マザーブレインの中央で、七本の光の線が、一斉に輝いた。
「澪」柊が言った。 「なに」 「行けるか」 「うん」
少し間があった。
「怖い?」澪が聞いた。 「怖い」柊が答えた。「死ぬほど」 「じゃあ、一緒」
澪が少しだけ笑った。柊も笑った。
二人の共鳴が、コアへ向かって流れ込んでいった。
振動が、走った。七本の光が、一斉に強くなった。マザーブレインが、目を覚ました。
箱の男の思念が、押し返された。
その時。別の思念が、静かに入ってきた。温かかった。悲しくて、申し訳なくて、でも温かかった。
もうひとりのヴェルナーだ、と柊は思った。澪はもう、気づいていた。
同じ痛みを持ちながら、違う選択をした一つの思念が、二人の共鳴に、そっと寄り添った。
光が、広がった。七本の線が、一斉に輝いた。振動が、逆流した。
遠くで、タウの歌が聞こえた気がした。震える声が、塔を越えて届いていた。
遠くで、レムの祈りが、胸の内で熱を帯びた。
遠くで、海の底で、クロが光っていた。青銀が、要塞のコアに向かって、静かに伸びていった。
全部が、繋がっていた。
【要塞の中枢 内山とクロ】
要塞の内部は、静かだった。
海の底で駆動している機械の音だけが、壁の向こうから低く響いていた。一定のリズムで。生きているものの呼吸のように。
内山はクロを抱えていた。クロの体は、さっきより軽くなっていた。青銀の脈動が、間欠的だった。それでも、生きていた。
ガロが先頭を歩いていた。腰の短剣に手を添えていた。
灰原がその後ろを歩いていた。胸を押さえていた。皮膚の下で、青い光が乱れていた。
ミカが最後尾だった。カメラを構えていた。シャッター音が、静かに響いた。
最初の通路で、兵器が現れた。動きが人間ではない。関節が多すぎる。
ガロが動いた。短剣が三本、同時に走った。音がしなかった。兵器が崩れた。
「……速いな」灰原が言った。 「ほめるな」ガロが短剣を拾いながら言った。「次が来る」
次が来た。今度は二体だった。
灰原が前に出た。胸を押さえていた手を離した。皮膚の下で、かすかに光が走った。
「まだ残ってる」灰原は低く言った。「使えるうちに使う」
光が、指先から放たれた。制御できていない。乱れていた。でも、届いた。兵器の動力部が、焼き切れた。崩れた。
三体目が来た。四体目が来た。
「行けよ、先生」ガロが振り返らずに言った。「俺たちがここで止める」 「……」 「時間がない」灰原が胸を押さえ直した。「中枢は、この先の分厚い扉の奥だ。一人で行ける」 「二人は」 「追いつく」ガロが笑った。「追いつけたらな」
ミカがカメラを下げた。内山を見た。
「私は残ります。記録を残す必要がある」 「……」 「それに」ミカは少し笑った。「先生一人の方が、中枢では意味がある気がする」
内山は、三人を見た。それから、クロを見た。クロの目が、前を向いていた。
「……頼んだ」
短く、言った。それ以上は、言わなかった。
走った。背後で、金属が軋む音が響いた。ガロの咆哮が聞こえた。灰原の光が、壁に反射した。ミカのシャッター音が、最後まで聞こえていた。
振り返らなかった。
中枢への扉は、要塞の最深部にあった。
オルゴールの音が、ここでははっきり聞こえた。壊れかけた旋律だった。欠けた音が、不規則に鳴り続けていた。
クロの青銀が、その音に合わせて脈打っていた。
内山は扉の前に立った。
「クロ」
目が、内山を見た。二つの意志が重なった瞳だった。博士の思念が、そこに宿っていた。
「行くか」
青銀が、一度だけ強く輝いた。扉が、開いた。
中は広かった。天井が高かった。中央に、巨大な機械が据えられていた。無数の管が四方へ伸びていた。要塞全体に繋がっていた。
その機械の中心に、光があった。青白い光だった。脈打っていた。心拍のように。
内山はその光を見た。医師として、体を診るときの目で見た。
「……生きてる」
声に出した。機械ではなかった。誰かの思念が、ここに宿っていた。
「そうだ」
声がした。機械の奥から。光の中から。男の声だった。若くはなかった。でも老いてもいなかった。どこか遠くから届くような、くぐもった声だった。
「生きている。ずっと、ここにいる」
内山は前に進んだ。
「お前が箱の男か」 「名前はない」声が言った。「ただ、ここにいる。ずっと」 「何をしていた」 「待っていた」少し間があった。「終わらせる日を。全部を。感情があるから、失う。失うから、壊れる。壊れた世界を、終わらせる日を」
内山は止まらなかった。
「妻と娘を、失ったのか」
声が、止まった。一瞬だけ。
「……知っているのか」 「夢を見た」内山は言った。「この犬に連れられて。工房の夢を。青いランプの下。オルゴールの旋律。笑っていた人たちを」
船の上で見た夢だった。クロを抱えて海の上を進んでいた夜。振動が船底から届いてきた時、クロの青銀が脈打って、夢が流れ込んできた。博士の思念が、見せてくれたのだ。
沈黙。
「それが、お前の本当の記憶だ」 「記憶は」声が低くなった。「意味がない。あの二人は、もういない」 「いなくなった人間の記憶は、意味がないのか」
答えがなかった。
内山はクロを床に下ろした。クロは立った。ゆっくりだった。後脚が遅れた。でも、立った。
「この犬を見ろ」
内山が言った。
「お前の工房で作られた犬だ。お前の娘が、毎日撫でていた模型の、本物だ」
光が、揺れた。
クロが一歩、前に出た。青銀が、オルゴールの旋律に合わせて、静かに脈打った。
「……」
声が、出なかった。
クロがもう一歩、前に出た。光の中心へ向かって。
「クロ」内山が言った。「頼んだ」
クロは振り返らなかった。ただ、尻尾が一回だけ振れた。それだけだった。クロが光の中に入っていった。
青銀が、光と混ざった。二つの光が、一つになった。
その瞬間。
オルゴールの旋律が、変わった。
欠けていた音が、戻ってきた。完全な旋律だった。内山はそれを聞いた。工房の夢の中で聞いた旋律と、同じだった。
その旋律の中に、声があった。
「先生……」
女の声だった。懇願ではなかった。託すような声だった。
「お願いします……」
内山は目を閉じた。
旋律が広がっていった。要塞の壁を通じて。海を通じて。空を通じて。遠く、七塔の方角へ。
【同期】
音が消えた。
呼吸だけが、残った。
七塔の歌が、一音落ちた。波が、途切れた。術式が、止まった。剣が、止まった。管が、千切れた。マザーブレインの光が、震えた。要塞のオルゴールが、空を渡った。
静寂。
世界が、一瞬だけ、止まった。
その中で。
全部が、繋がっていた。
タウの最後の「……戻って」が、音のない空間を伝って。 レムの手帳の熱が、ページの白さを越えて。 カイの術式の最後の一ページが、黒く潰れながら。 ブラスの最後の一撃が、支柱を内側から砕きながら。 ダリの指が、金属の継ぎ目を押しながら。 ゼンの右手が、赤いチューブを引きちぎりながら。 柊と澪の繋がれた手が、震えながら。 クロの青銀が、オルゴールの光と混ざりながら。 博士の思念が、最後の温度を放ちながら。
全部が、同じ瞬間に、噛み合った。
説明できない。音でも光でもない。ただ、何かが噛み合った感触だけがあった。
遅れて、白い光が走った。
歌が戻った。波が繋がった。支柱が砕けた。術式が落ちた。管が断たれた。オルゴールの旋律が、七塔の隅々まで届いた。
全部が、重なった。
七塔が、止まった。
少し遅れて。音が戻った。
街で、誰かが立ち止まった。頭を押さえた。周囲を見回した。「……なんだ、今の」誰かが呟いた。誰も答えなかった。でも、みんなの目に、光が戻っていた。赤く染まっていた空が、元の色に戻っていった。腕輪の光が、ばらばらに戻った。
塔の中で、タウが眠っていた。レムが、その横に座り込んでいた。手帳を、胸に抱いていた。
山の塔で、カイが眼鏡を押し上げていた。禁書の最後のページが、黒く灰になっていた。カイは少しだけ笑った。「……見られた」誰にも聞こえない声で、言った。
外壁で、ブラスが剣に体重を預けたまま、立っていた。遠くから、ダリの足音が近づいてきた。ダリは何も言わなかった。ブラスの肩を、一度だけ、支えた。それだけだった。
機械室の前で、ゼンが床に転がっていた。煙草が、指のすぐ横にあった。火はついていない。ゼンは笑っていた。「……最悪だ」もう一度、呟いた。
要塞の中で、内山が一人で立っていた。床に、クロの姿はなかった。青銀の光が、空気の中に薄く残っていた。




