表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
隣の彼女は異世界の妻でした  作者: 佐々木勇二


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/13

最後の正座会議

「最後の正座会議を始めます」

澪の声が、少し震えていた。 柊は澪を見た。震えているのに、背筋は真っ直ぐだった。 いつもそうだった。この人はいつも、一番怖い時に一番姿勢がいい。

「……始めるのか」 「始めます」

二人は向かい合って座った。 澪は膝の上で手を組んだ。その指先が、かすかに白くなっていた。

「こっちの記憶は消える」 「ああ」 「あっちに帰った時、私たちは他人に戻る」 「……ああ」

澪は一度だけ、深く息を吸った。

「だから」顔を上げる。目が、少し赤かった。「あっちに帰ったら、したいことを出し合いましょう。記憶は消えても、したかった気持ちは残るかもしれないから」

柊は少しだけ黙った。

「……気休めじゃないか、それ」 「気休めよ」澪はあっさり言った。「でもやる」

柊は天井を見た。それから前を向いた。

「……帰ったら、山に行きたい」 「山」 「ベンチがあって。別に何があるわけでもない。ただ座ってた」

澪の手の力が、少しだけ緩んだ。

「……私も」小さい声だった。「そういう場所が好きだった。高いところ。静かなところ」 「かぶってる」 「かぶってる」

二人とも、少しだけ黙った。

「食べ物は」柊が続けた。

澪が少し考えた。

「……帰ったら、味噌汁作ってあげる」 「俺に?」 「誰に作るのよ」 「……うれしいな」 「黙って」

澪は少しだけ俯いた。

「帰ったら、ちゃんとした台所で作る。この世界では味噌がなかったから。あっちに帰ったら、やっと作れる」 「うまいんだろうな」 「うまいわよ」 「失敗したやつも食いたい」 「失敗しないわよ」 「するだろ、たまには」 「……するかもしれない」

澪は一度、膝の上の手を組み直した。それから、思いついたように顔を上げた。

「……お弁当も、作る」 「弁当?」 「味噌汁は家で。お弁当にして、あなたが言った山のベンチまで、持っていく」

柊は少し黙った。それから、ゆっくりと笑った。

「……いいな、それ」 「でしょう」 「お前の弁当。山のベンチで食う」 「そう」 「それだけで、帰る理由になるな」

澪は俯いた。でも、耳が赤くなっていた。

少し間があった。澪が続けた。

「帰ったら、一緒にご飯食べたい。普通のご飯。どこかのお店でも、家でも」 「行こう」 「行けるかわからないけど」 「行こう」柊は繰り返した。「帰ったら、また会おう。同じ山のベンチに行けば、会えるかもしれない。同じ景色を思い浮かべれば、繋がれるかもしれない」

澪は目を伏せた。

「……そんなの、気休めだよね」静かな声だった。「記憶が消えたら、なぜそこに行くのかもわからない。誰を待っているのかも」 「気休めだな」柊は答えた。「でも」前を向いた。「絶対忘れない」

澪が柊を見た。

「記憶が消えても、忘れない。そういうことが、あると思う」 「……そんなの」 「理屈じゃない」柊は言った。「ただ、そう思う」

澪はしばらく柊を見ていた。 それから、涙がこぼれた。泣きながら、笑った。

「……馬鹿ね」 「そうだな」 「本当に馬鹿」 「うん」

澪は涙を拭わなかった。

「帰ったら、また会いましょう」 「ああ」 「約束」 「約束だ」

二人は立ち上がった。手を繋いだ。

ヴェルナーが、扉の前で静かに見ていた。 その目が、今夜だけは穏やかだった。悲しくも、申し訳なくもなく、ただ穏やかだった。

「……行きましょうか」

二人は頷いた。 台座へ向かった。光の中心へ、二人で踏み込んだ。

【要塞のコアと、マザーブレインが繋がった瞬間】

遠くで、クロが光っていた。 青銀が、要塞のコアへ向かって静かに伸びていった。博士の思念が、その光に混ざっていた。 二つの意志が、一つの器の中で、静かに燃えていた。

遠くで、レムが祈っていた。 手帳を胸に抱いて、目を閉じて。「レン。届いてるかな」声に出さなかった。 でも、手帳が熱を持った。届いていた。

遠くで、タウが歌っていた。 声が、塔を越えて、夜空へ広がっていった。レンの想いの残響が、その声と重なって、空へ昇っていった。

そして、マザーブレインの中心で。 柊と澪の手が、繋がっていた。振動が走った。 二人の共鳴が、コアへ向かって流れ込んでいった。

箱の男の思念が、押し返された。 怒りが。悲しみが。喪失が。 全部が、静かになっていった。

オルゴールの旋律が、要塞の壁を通じて届いてきた。 欠けていなかった。完全だった。 その旋律の中に、温かさがあった。工房の青いランプの下。笑っていた人たちの。

箱の男の思念が、その温かさに触れた。 一瞬だけ、止まった。

そしてヴェルナーの思念が、静かに流れ込んできた。 同じ痛みを持ちながら、違う選択をした人間の思念が。

二つの思念が、向かい合った。 言葉はなかった。でも、伝わった。

長い時間をかけて、ずっとすれ違い続けてきた二つの意志が、最後に、同じ場所で出会った。

光が、広がった。 要塞の全てに。七塔の全てに。空の全てに。

静寂が来た。 一瞬だけ、全てが止まった。

それから。 要塞の駆動音が、止まった。光が、消えていった。

海面に浮かんでいた巨大な構造物が、ゆっくりと沈んでいった。 音もなく。静かに。まるで、長い眠りについていくように。

【ヴェルナーの最後】

マザーブレインの部屋で、光が消えていった。 柊と澪は床に座り込んでいた。手は、まだ繋がっていた。

「……終わったのか」柊が言った。 「終わりました」

ヴェルナーの声がした。振り返った。 ヴェルナーが扉の前に立っていた。いつものスーツ。いつもの微笑み。 でも、その輪郭が、少しだけ薄くなっていた。

「ヴェルナーさん」澪が立ち上がった。「大丈夫ですか」 「ええ」ヴェルナーが言った。「予定通りです」

柊も立った。

「消えるのか」 「はい」ヴェルナーは穏やかに言った。「要塞のエネルギーが尽きれば、私も消えます。それとともに、エージェントの皆さんは現世へ帰ります」 「止められないのか」 「止める必要はありません」

ヴェルナーは二人を見た。

「あなたたちは、本当によくやってくれました」 「褒めないでください」澪が言った。「いけにえにしておいて」 「……そうですね」

ヴェルナーは頷いた。

「弁解はしません」少し間があった。「私は、家族を失いました」

柊と澪は黙って聞いた。

「守れなかったんです。それが全ての始まりでした」 「だから、管理しようとした」澪が言った。 「はい。壊れた人格でも、繋ぎ止めていれば、いつか戻れると思っていました」 「箱の男は」 「同じ痛みから、別の道を選びました」ヴェルナーは言った。「どちらが正しかったのかは、今もわかりません」 「正しくなかったと思います」

澪が言った。ヴェルナーが澪を見た。

「あなたたちは、管理でも再編でもなく、揃わないまま一緒に進んだ。それが答えでした。私には、できなかった答えが」

輪郭が、もう少し薄くなった。

「ヴェルナーさん」柊が言った。 「なんですか」 「あんた、いい人だったのか悪い人だったのか、最後までわからなかったな」

ヴェルナーは少しだけ笑った。今夜だけは、掴みどころのない笑みではなかった。

「……私もわかりません」 「そうか」 「でも」ヴェルナーは言った。「あなたたちに出会えてよかった」

光が、薄れていった。

「それだけは、確かです」

最後に、微笑みだけが残った。 それも、消えた。

部屋に、二人だけが残った。 柊は、ヴェルナーが立っていた場所を見ていた。何もなかった。

「……行ったな」 「ええ」

澪も同じ場所を見ていた。しばらく、誰も動かなかった。それから、澪が言った。

「帰りましょう」 「ああ」

二人は手を繋いだまま、扉へ向かった。

【現世】

カーテンが閉まっていた。 柊はソファに座ったまま、テレビをつけた。 何かが映っていた。見ていなかった。消した。

しばらく、天井を見ていた。 何かが欠けている。そう思うのに、何が欠けているのかわからない。 柊は立ち上がった。カーテンを開けた。空が青かった。

なんとなく、外へ出た。なんとなく、歩いた。 気づいたら、山の入り口にいた。なぜここに来たのか、わからなかった。 でも足が止まらなかった。

坂を上る。風が吹いた。 その匂いを、どこかで知っている気がした。

ベンチが見えた。 誰かが座っていた。遠かった。でも、見えた瞬間に足が止まった。

少女だった。膝の上に、弁当箱を置いていた。 その少女が、こちらを見ていた。遠いのに、目が合った。

少女も動かなかった。柊も動けなかった。 しばらくそのまま、二人とも止まっていた。

柊が歩き出した。 近づくにつれて、少女の顔が見えてきた。 見たことのない顔だった。なのに、なぜか知っている気がした。

ベンチの前まで来た。 少女が、ベンチの横を少し開けた。無言で。 柊も無言で、そこに座った。

不自然だった。二人とも、それをわかっていた。

「……こんにちは」少女が言った。丁寧な声だった。 「こんにちは」柊が返した。

沈黙。風が吹いた。

「お弁当、食べてみますか」少女が言った。

柊は少し迷った。

「……いいのか」 「どうぞ」

弁当箱のふたが開いた。柊は箸を取った。一口、食べた。止まった。

「……うまい」

少女が柊を見た。

「おいしくなってるな」 「え?」

柊は自分でも、なぜそう言ったのかわからなかった。

「あれ?」

手の甲で、目をこすった。涙が出ていた。 なぜ出ているのか、わからなかった。

少女も弁当を一口食べた。 それから、泣きながら笑った。

「……なんで」 「わからない」 「私も、わからない」

風が吹いた。二人とも、遠くの空を見ていた。 しばらくして。少女が言った。

「お話、しましょうか」

柊は少女を見た。

「……うん」

空が、青かった。 山のベンチに、二つの影が並んでいた。

揃わないまま、一緒に。それだけで、十分だった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ