最後の正座会議
「最後の正座会議を始めます」
澪の声が、少し震えていた。 柊は澪を見た。震えているのに、背筋は真っ直ぐだった。 いつもそうだった。この人はいつも、一番怖い時に一番姿勢がいい。
「……始めるのか」 「始めます」
二人は向かい合って座った。 澪は膝の上で手を組んだ。その指先が、かすかに白くなっていた。
「こっちの記憶は消える」 「ああ」 「あっちに帰った時、私たちは他人に戻る」 「……ああ」
澪は一度だけ、深く息を吸った。
「だから」顔を上げる。目が、少し赤かった。「あっちに帰ったら、したいことを出し合いましょう。記憶は消えても、したかった気持ちは残るかもしれないから」
柊は少しだけ黙った。
「……気休めじゃないか、それ」 「気休めよ」澪はあっさり言った。「でもやる」
柊は天井を見た。それから前を向いた。
「……帰ったら、山に行きたい」 「山」 「ベンチがあって。別に何があるわけでもない。ただ座ってた」
澪の手の力が、少しだけ緩んだ。
「……私も」小さい声だった。「そういう場所が好きだった。高いところ。静かなところ」 「かぶってる」 「かぶってる」
二人とも、少しだけ黙った。
「食べ物は」柊が続けた。
澪が少し考えた。
「……帰ったら、味噌汁作ってあげる」 「俺に?」 「誰に作るのよ」 「……うれしいな」 「黙って」
澪は少しだけ俯いた。
「帰ったら、ちゃんとした台所で作る。この世界では味噌がなかったから。あっちに帰ったら、やっと作れる」 「うまいんだろうな」 「うまいわよ」 「失敗したやつも食いたい」 「失敗しないわよ」 「するだろ、たまには」 「……するかもしれない」
澪は一度、膝の上の手を組み直した。それから、思いついたように顔を上げた。
「……お弁当も、作る」 「弁当?」 「味噌汁は家で。お弁当にして、あなたが言った山のベンチまで、持っていく」
柊は少し黙った。それから、ゆっくりと笑った。
「……いいな、それ」 「でしょう」 「お前の弁当。山のベンチで食う」 「そう」 「それだけで、帰る理由になるな」
澪は俯いた。でも、耳が赤くなっていた。
少し間があった。澪が続けた。
「帰ったら、一緒にご飯食べたい。普通のご飯。どこかのお店でも、家でも」 「行こう」 「行けるかわからないけど」 「行こう」柊は繰り返した。「帰ったら、また会おう。同じ山のベンチに行けば、会えるかもしれない。同じ景色を思い浮かべれば、繋がれるかもしれない」
澪は目を伏せた。
「……そんなの、気休めだよね」静かな声だった。「記憶が消えたら、なぜそこに行くのかもわからない。誰を待っているのかも」 「気休めだな」柊は答えた。「でも」前を向いた。「絶対忘れない」
澪が柊を見た。
「記憶が消えても、忘れない。そういうことが、あると思う」 「……そんなの」 「理屈じゃない」柊は言った。「ただ、そう思う」
澪はしばらく柊を見ていた。 それから、涙がこぼれた。泣きながら、笑った。
「……馬鹿ね」 「そうだな」 「本当に馬鹿」 「うん」
澪は涙を拭わなかった。
「帰ったら、また会いましょう」 「ああ」 「約束」 「約束だ」
二人は立ち上がった。手を繋いだ。
ヴェルナーが、扉の前で静かに見ていた。 その目が、今夜だけは穏やかだった。悲しくも、申し訳なくもなく、ただ穏やかだった。
「……行きましょうか」
二人は頷いた。 台座へ向かった。光の中心へ、二人で踏み込んだ。
【要塞のコアと、マザーブレインが繋がった瞬間】
遠くで、クロが光っていた。 青銀が、要塞のコアへ向かって静かに伸びていった。博士の思念が、その光に混ざっていた。 二つの意志が、一つの器の中で、静かに燃えていた。
遠くで、レムが祈っていた。 手帳を胸に抱いて、目を閉じて。「レン。届いてるかな」声に出さなかった。 でも、手帳が熱を持った。届いていた。
遠くで、タウが歌っていた。 声が、塔を越えて、夜空へ広がっていった。レンの想いの残響が、その声と重なって、空へ昇っていった。
そして、マザーブレインの中心で。 柊と澪の手が、繋がっていた。振動が走った。 二人の共鳴が、コアへ向かって流れ込んでいった。
箱の男の思念が、押し返された。 怒りが。悲しみが。喪失が。 全部が、静かになっていった。
オルゴールの旋律が、要塞の壁を通じて届いてきた。 欠けていなかった。完全だった。 その旋律の中に、温かさがあった。工房の青いランプの下。笑っていた人たちの。
箱の男の思念が、その温かさに触れた。 一瞬だけ、止まった。
そしてヴェルナーの思念が、静かに流れ込んできた。 同じ痛みを持ちながら、違う選択をした人間の思念が。
二つの思念が、向かい合った。 言葉はなかった。でも、伝わった。
長い時間をかけて、ずっとすれ違い続けてきた二つの意志が、最後に、同じ場所で出会った。
光が、広がった。 要塞の全てに。七塔の全てに。空の全てに。
静寂が来た。 一瞬だけ、全てが止まった。
それから。 要塞の駆動音が、止まった。光が、消えていった。
海面に浮かんでいた巨大な構造物が、ゆっくりと沈んでいった。 音もなく。静かに。まるで、長い眠りについていくように。
【ヴェルナーの最後】
マザーブレインの部屋で、光が消えていった。 柊と澪は床に座り込んでいた。手は、まだ繋がっていた。
「……終わったのか」柊が言った。 「終わりました」
ヴェルナーの声がした。振り返った。 ヴェルナーが扉の前に立っていた。いつものスーツ。いつもの微笑み。 でも、その輪郭が、少しだけ薄くなっていた。
「ヴェルナーさん」澪が立ち上がった。「大丈夫ですか」 「ええ」ヴェルナーが言った。「予定通りです」
柊も立った。
「消えるのか」 「はい」ヴェルナーは穏やかに言った。「要塞のエネルギーが尽きれば、私も消えます。それとともに、エージェントの皆さんは現世へ帰ります」 「止められないのか」 「止める必要はありません」
ヴェルナーは二人を見た。
「あなたたちは、本当によくやってくれました」 「褒めないでください」澪が言った。「いけにえにしておいて」 「……そうですね」
ヴェルナーは頷いた。
「弁解はしません」少し間があった。「私は、家族を失いました」
柊と澪は黙って聞いた。
「守れなかったんです。それが全ての始まりでした」 「だから、管理しようとした」澪が言った。 「はい。壊れた人格でも、繋ぎ止めていれば、いつか戻れると思っていました」 「箱の男は」 「同じ痛みから、別の道を選びました」ヴェルナーは言った。「どちらが正しかったのかは、今もわかりません」 「正しくなかったと思います」
澪が言った。ヴェルナーが澪を見た。
「あなたたちは、管理でも再編でもなく、揃わないまま一緒に進んだ。それが答えでした。私には、できなかった答えが」
輪郭が、もう少し薄くなった。
「ヴェルナーさん」柊が言った。 「なんですか」 「あんた、いい人だったのか悪い人だったのか、最後までわからなかったな」
ヴェルナーは少しだけ笑った。今夜だけは、掴みどころのない笑みではなかった。
「……私もわかりません」 「そうか」 「でも」ヴェルナーは言った。「あなたたちに出会えてよかった」
光が、薄れていった。
「それだけは、確かです」
最後に、微笑みだけが残った。 それも、消えた。
部屋に、二人だけが残った。 柊は、ヴェルナーが立っていた場所を見ていた。何もなかった。
「……行ったな」 「ええ」
澪も同じ場所を見ていた。しばらく、誰も動かなかった。それから、澪が言った。
「帰りましょう」 「ああ」
二人は手を繋いだまま、扉へ向かった。
【現世】
カーテンが閉まっていた。 柊はソファに座ったまま、テレビをつけた。 何かが映っていた。見ていなかった。消した。
しばらく、天井を見ていた。 何かが欠けている。そう思うのに、何が欠けているのかわからない。 柊は立ち上がった。カーテンを開けた。空が青かった。
なんとなく、外へ出た。なんとなく、歩いた。 気づいたら、山の入り口にいた。なぜここに来たのか、わからなかった。 でも足が止まらなかった。
坂を上る。風が吹いた。 その匂いを、どこかで知っている気がした。
ベンチが見えた。 誰かが座っていた。遠かった。でも、見えた瞬間に足が止まった。
少女だった。膝の上に、弁当箱を置いていた。 その少女が、こちらを見ていた。遠いのに、目が合った。
少女も動かなかった。柊も動けなかった。 しばらくそのまま、二人とも止まっていた。
柊が歩き出した。 近づくにつれて、少女の顔が見えてきた。 見たことのない顔だった。なのに、なぜか知っている気がした。
ベンチの前まで来た。 少女が、ベンチの横を少し開けた。無言で。 柊も無言で、そこに座った。
不自然だった。二人とも、それをわかっていた。
「……こんにちは」少女が言った。丁寧な声だった。 「こんにちは」柊が返した。
沈黙。風が吹いた。
「お弁当、食べてみますか」少女が言った。
柊は少し迷った。
「……いいのか」 「どうぞ」
弁当箱のふたが開いた。柊は箸を取った。一口、食べた。止まった。
「……うまい」
少女が柊を見た。
「おいしくなってるな」 「え?」
柊は自分でも、なぜそう言ったのかわからなかった。
「あれ?」
手の甲で、目をこすった。涙が出ていた。 なぜ出ているのか、わからなかった。
少女も弁当を一口食べた。 それから、泣きながら笑った。
「……なんで」 「わからない」 「私も、わからない」
風が吹いた。二人とも、遠くの空を見ていた。 しばらくして。少女が言った。
「お話、しましょうか」
柊は少女を見た。
「……うん」
空が、青かった。 山のベンチに、二つの影が並んでいた。
揃わないまま、一緒に。それだけで、十分だった。




