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隣の彼女は異世界の妻でした  作者: 佐々木勇二


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8/13

狂気と正義

組合ビル上階 バロウ応接室

高級車は音もなく、都市の夜を滑るように走った。

内山は窓の外を見ていた。高度を上げるにつれて、都市の景色が変わっていく。下の層で蠢いていた雑多で生々しい光が次第に消え、冷たく整然とした白い光だけが眼下に広がっていく。

クロは内山の膝の上で、静かに伏せていた。青銀の光が、低く、しかし確かな意志を持って脈打っている。

「着きました」 無人のように静かだった運転手が、初めて口を開いた。

都市の頂点に君臨する、組合ビルだった。

外観は無機質な高層ビルに過ぎない。だが、入り口を固める警備員の様子が異様だった。全員が一寸の狂いもない同じ姿勢で立ち、その瞳には感情の欠片も宿っていない。空っぽの器たちが、ただそこにあるだけだった。 クロが内山の後から降りる。

正面のエレベーターではなく、灰原から得た情報の通り、保守用の昇降路を使って静かに上階を目指す。最上階に出た。

廊下は死んだように静かだった。足音が完全に吸い込まれる分厚い絨毯。壁には歴史的な名画が掛けられているが、どの絵からも温度が感じられない。

最奥の重厚な扉の前に立つと、ノックをする前に内側から声がした。

「どうぞ」 部屋は、異様なほど広かった。

壁の一面がすべてガラス張りになっており、眼下には巨大都市の夜景がジオラマのように広がっている。その中央の豪奢なデスクの向こうに、一人の男が座っていた。

五十代半ばか。仕立ての良い白いスーツに、銀縁の眼鏡。髪は一糸乱れず丁寧に整えられている。机の上には、アンティークのティーカップが二つ。用意されていたかのように、微かな湯気が立っていた。「ようこそ、先生」 穏やかな声だった。

怒鳴らない。急かさない。ただ、圧倒的な余裕を持ってそこにいる。灰原の言葉が、内山の頭をよぎった。その穏やかさが、一番怖い。

「バロウ」 内山が鋭く名を呼ぶ。「ええ」バロウは静かに頷いた。「お座りください。冷めますよ」

内山は座らなかった。

クロをゆっくりと床に下ろす。クロはバロウを真っ直ぐに見た。唸らない。ただ、じっと見据えている。毛並みに走る青銀の光が、細く、鋭く脈打っていた。

「お分かりになっている事ばかりでしょうけど」バロウは内山の拒絶を気にする風もなく言った。「何か聞きたいことはありますか、先生」

「西の蜂起」内山が言った。「あれもお前らか」

バロウはふっと、小さく笑った。

「ただのビジネスですよ。片田舎の領主に何ができるはずもない。まあ、目くらまし程度にはなりましたがね」

「目的は何だ」内山が言った。「小物が刈られてるくらいで怖気づいたわけでもあるまい。今更」

バロウは優雅な仕草でティーカップを持ち上げた。一口飲む。それから、ガラス越しの夜景へと視線を移した。

「あの競技場の暴走、事故だったと思いますか、先生」 内山は答えなかった。

「実験です」バロウの顔から、笑みが消えなかった。「七塔を掌握するための予備試験と、使える個体の選抜。二つ同時にやりました」

バロウは窓の外の都市の光を見た。「感情は、扱い方さえ誤らなければ、この上なく上等な燃料になります。海水からですら、力を引き出せるのですよ」

「七塔を取ってどうする」 「管理します」

バロウは窓の外を見たまま、淡々と言い放った。

「傲慢。怒り。虚栄。悲しみ。醜すぎる。うんざりです。この世は完全に管理統治されるべきなのですよ、先生。感情があるから争いが起きる。感情があるから弱者が生まれる。感情があるから……あなたのような医者が必要になる」

「……」

「感情を管理すれば、誰も傷つかない。誰も失わない。完璧な世界です」

「それは、お前の言葉か」内山が静かに言った。

バロウは微笑みを崩さなかった。

「正しければ、誰の言葉でも構わない。私はこの都市の管理を任されている。絵図そのものは、もっと奥で描かれたものです」

内山の目が、一瞬、冷えた。

「狙いは電波塔か。この話は届いているぞ」 「構いません」

バロウが、ゆっくりと振り返った。 「もう、始まりましたから」

沈黙が落ちた。

バロウはティーカップを置き、銀のシガレットケースから煙草を取り出した。火をつける。一口吸って、紫煙を細く吐き出した。

しばらくして、その冷たい視線がクロへと移った。 「それにしても」

声は、どこまでも穏やかだった。 「見事な作品ですね。何よりも自然だ」

内山の目が、剣呑に鋭くなる。

「島の研究所の作品でも、これほど自然に融合しているのは他にない」バロウは微かに目を細めた。

「今なら戻れますよ。我々の楽園に」内山は言葉を発さず、ただ静かに睨み据えた。

「……まあ、いいでしょう」バロウは灰皿に煙草の灰を落とした。

「どのみち、あなたは必要ない」その瞬間。 ギィ、と不快な音が鳴った。

部屋の隅に、いつの間にかアンティークの鳥かごが置かれていた。その中で、森で見たあの極彩色の小鳥が、金属の止まり木の上で激しく震えていた。

「ギ、ギギギ」 一度。二度。 三度目の声は、出なかった。

小鳥の身体が、ぐらりと傾く。止まり木から真っ逆さまに落ち、かごの底でピクピクと痙攣し、やがて完全に動かなくなった。バロウは鳥かごには目もくれなかった。

内山の目が、一瞬だけ細くなった。森でダイスの最期を見届けてから飛び去った、あの鳥だった。都市の広場で枝先に止まっていたのも、同じ鳥だ。監視の目が一つ、役目を終えて落ちた。

バロウは、デスクの奥の豪奢な木製パーティションを見つめていた。

低い音が来た。

壁の向こうから。床の下から。建物の骨組みそのものが軋むような、重く禍々しい駆動音だった。

ゴゴゴゴゴ……。 パーティションが左右に開いた。 それが出てきた。

四足歩行だった。だが、決して犬や獣などではない。

前肢が異常に太く、装甲のような硬質な皮膚に覆われている。頭部は不気味なほど大きく、脈打つ皮膚の下で、高圧電流のような赤黒い光が蠢いていた。そして、目が二つあるべき場所に、カメラのレンズのような巨大な赤い単眼が一つ、不気味に光っていた。

「完成品のお披露目です」 バロウが、初めて楽しそうに言った。

「容姿は私の趣味ではありませんが」

キメラが動いた。

一歩。二歩。その足音が絨毯を踏みしめるたび、床が微かに震える。

クロが、前に出た。内山が制止するより速かった。

青銀の光が全身を激しく走る。骨格がミシミシと音を立てて変形し、前肢が猛獣のように伸び、爪が鋭利な刃となって飛び出す。

キメラが、バネが弾けるような速度で跳んだ。 クロも跳んだ。

空中で、赤黒い光と青銀の光が激突した。 ドガァァァンッ!

凄まじい衝撃波が部屋を吹き抜けた。バロウのデスクが真っ二つに割れ、ティーカップが粉々に砕け散る。分厚い防弾ガラスの窓に、蜘蛛の巣状のひびが走った。

クロが着地する。その横腹が、激しい息継ぎで大きく波打っていた。前肢からわずかに血が滴っている。だが、その金色の目は死んでいない。

弾き飛ばされたキメラが、無傷のまま体勢を立て直し、再び単眼を赤く光らせる。

クロが、人の言葉にならない咆哮で内山を庇うように立ち塞がった。

だが、内山は一歩も下がらなかった。

キメラが、さらに速度を上げて再び跳躍した、その瞬間。 ドゴォォォンッ!!

部屋の重厚な扉が、外側から爆発したように吹き飛んだ。

土煙の中から、バロウの余裕を切り裂くような声が飛んだ。 柊だった。

肩で激しく息を切らし、服は泥と煤で汚れきっている。だが、その目は獰猛な獣のように笑っていた。

「遅いですよ。ご主人」

「うるさい」 柊は手にした鉄パイプを、肩に担ぐようにして構えた。

巨大なキメラを見た。傷ついたクロを見た。そして、静かに立つ内山を見た。

「状況は」

「キメラと一対一だ」内山が短い言葉で現状を叩き込む。「クロが消耗している」

「バロウは」 「俺が見る」 柊が頷いた。

「じゃあ、デカブツは任せます、先生」

柊が言い終わるより早く、キメラが標的を柊に変えて襲いかかってきた。

赤い単眼が不気味な軌跡を描き、丸太のような前肢が柊の頭上から振り下ろされる。

柊は躱さなかった。正面から、鉄パイプを両手で構えて受け止める。

ガキィィィンッ!!

火花が散る。重い。想像を絶する質量が、腕の骨から背骨まで容赦なく響く。膝が沈みそうになる。

だが、足は一歩も引かなかった。

「奥様がいないと……弱点の解説役がいなくて困るんですよねぇっ!」

柊が歯を食いしばりながら叫んだ。 「クロ!」

その声に応えるように、クロが低い姿勢からキメラの死角へと潜り込んだ。

青銀の光を纏った鋭い爪が、キメラの無防備な側面の装甲を容赦なく引き裂く。嫌な金属音が響き、赤黒い光の飛沫が散る。

キメラの巨体が、バランスを崩して一瞬だけ大きくグラついた。

柊が、その一瞬の隙を見逃さず、沈み込んでいた足に爆発的な力を込めて踏み込んだ。

腰の捻りを効かせた、渾身のフルスイング。 ドゴォォォンッ!!

パイプがキメラの巨大な頭部に直撃し、不快な打撃音が部屋中に鳴り響いた。

傍らで。バロウは、自らのデスクが吹き飛んでもなお、その場から一歩も動いていなかった。

砕けた窓の外を見ていた。都市の光が、相変わらず冷たく、整然と広がっている。

「……先生」

バロウが、背を向けたまま静かに口を開いた。背後の轟音など、まるで聞こえていないかのようだ。

「感情があるから、あなたは今、こんな危険な場所にいる」

「そうだな」内山が短く応じた。

「感情があるから、かつて患者を救えなかった夜を、未だに無様に引きずっている」

「そうだな」

「感情があるから……そんな失敗作の犬を拾い、情けをかけた」

内山は答えなかった。

バロウが、ゆっくりと振り返った。その顔には、先ほどまでの余裕はない。ただ、理解できないものを見るような、冷たい軽蔑があった。

「それが、すべて無駄だとは思いませんか」 「思わない」 「なぜです」

内山は、その醜い機獣に立ち向かっているクロの方を一瞬だけ見た。

「無駄だったとしても、俺はそうする。それだけだ」

バロウは、忌々しそうに目を細めた。 「……非効率ですね」 「ああ」

「それが、人間の限界です」 「そうかもしれないな」

内山は、バロウへ向かって一歩前に出た。

「でも、それはお前には一生わからない答えだ」

バロウの完璧な仮面が、初めて僅かに歪んだ。

怒りではなかった。動揺、あるいは恐怖に似た何かが、一瞬だけその顔の奥を走った。

それが何かを確かめる前に、柊の切羽詰まった声が飛んだ。 「先生!こっち、そろそろヤバい!」 内山は視線をバロウから鋭く切った。 振り返る。

クロが限界だった。

青銀の光が、さっきより明らかに弱々しく明滅している。前肢は血に染まり、息も絶え絶えだ。それでも、這い上がろうとするキメラの前に、決して退かずに立ち塞がっている。

「クロ!」 内山が走った。 その掌から、眩い癒やしの光が滲み出す。

クロの傷だらけの身体に触れた瞬間、弱まっていた青銀の光が、内山の力を吸い上げて一度だけ太陽のように強く輝いた。

最後の、命を燃やすような力だった。 クロが跳んだ。

青い流星となったクロの爪が、キメラの分厚い胸部装甲を紙のように貫き、深々と突き刺さる。

キメラの内部で、心臓部にあたる何かがショートし、焼け焦げる凄まじい音がした。

赤黒い光が四散する。

キメラの巨体が、痙攣を繰り返し、やがてドスンと音を立てて崩れ落ちた。

完全な静寂が、部屋に落ちた。 クロが、内山の足元に力なく倒れ込んだ。

呼吸はある。だが、その毛並みを覆っていた美しい青銀の光は、完全に消え失せていた。

「クロ」 内山がしゃがみ込み、その頭をそっと撫でる。

クロは薄く目を開けていた。内山の手の温もりを感じるように、尻尾が、パタン、と一回だけ動いた。

それだけだった。 ただの、黒い犬に戻っていた。 「……無理させたな」

内山の声が、少しだけ低く、震えていた。 柊が肩で息をしながら横に来た。

膝をついて、光を失ったクロを見た。戦い抜いた小さな相棒に、何も言葉をかけられなかった。ただ、奥歯を強く噛み締めた。

割れた窓の外では、都市の光が相変わらず冷たく輝いていた。

振り返ると、バロウはいつの間にか姿を消していた。

床にかすかな燐光の痕が、壁際まで一筋続いている。自分の足で逃げたのではない。島の手が、必要な部分だけを拾い上げて、持ち去ったのだ。

ただ、彼の座っていた豪奢な椅子だけが、空のままそこに取り残されていた。灰皿の縁で、吸いかけの煙草が細く煙を立てている。


喪失の記憶と、選択の朝


深い闇の中だった。 けれど、不思議と冷たさは感じなかった。

身体が動かず、声も出ない。それでも、澪は自分が「誰かの夢」の中にいるのだと、はっきりと理解していた。 視界が開ける。

小さな、絵本に出てくるような部屋だった。机の上で、青い硝子のランプが静かに灯っている。青白い光が、磨かれた木の床と、壁の棚に柔らかく落ちていた。窓の外は夜だった。でも、寒さはなかった。

棚には、無数の模型が並んでいた。木の鳥。真鍮の歯車。小さな馬車。どれも丁寧に作られたものだった。机の端に、古びた木箱のオルゴールが置かれていた。蓋を開けたまま、低く鳴っていた。欠けていない、澄んだ旋律だった。

揺り椅子に、一人の男が座っていた。

白髪の紳士ではない。三十代半ばほどの、若い男だ。少し癖のある髪が乱れていたが、その瞳はひどく穏やかだった。膝の上で、古びた本を開いている。その横顔が、どこかで見覚えのある輪郭をしていた。澪はそう感じた。けれど、誰かまでは、たどり着かなかった。

寄り添うように、女が横に座っていた。男の肩に頭を預け、同じ本を覗き込んで、幸せそうに笑っていた。

「パパ!」

無邪気な子供の声が響いた。小さな女の子が走ってきて、男の膝に飛び込み、読んでいた本を無理やり閉じさせる。男が困ったように笑った。女も声を上げて笑った。

女の子の腕の中には、艶のある黒い木で彫られた、小さな犬の模型があった。彼女はそれを、机の端に丁寧に置いた。そして、「よしよし」と頭を撫でた。

「クロちゃん、聞いてる? オルゴール、今日もちゃんと鳴ってるよ」

そう言って、また笑った。

温かかった。

青いランプの光と、オルゴールの旋律と、その笑い声だけで、部屋は満ちていた。過酷な世界から切り取られた箱庭みたいに、ただひたすらに温かかった。

その時、澪は気づいた。

女の子の笑い声の奥に、わずかに別の音が混じっていた。犬の、くぐもった鳴き声だった。遠くから、助けを呼ぶような鳴き声。

その音は、だんだん近づいてきた。オルゴールの旋律が、わずかに欠け始めた。青いランプの光が、揺れた。

女の子が立ち上がった。笑顔のまま、窓の外を見た。その表情が、ゆっくりと強張っていった。

「クロちゃん!」

「……っ!」 澪は弾かれたように目を開けた。 白い天井だった。

澪は重い上半身を無理やり起こした。頭が芯から痛み、身体が鉛のように重い。

でも、目は完全に覚めていた。

「お目覚めですか」 すぐ横から、静かな声がした。 ヴェルナーだった。

傍らの椅子に座り、澪を見ていた。いつもの仕立てのいいスーツ。いつもの柔らかな微笑み。ただ今朝だけは、その瞳の奥の色が少しだけ違って見えた。

「クロが」 澪は渇いた喉から声を絞り出した。

「……今、内山さんのところにいます」 ヴェルナーが短く答えた。

澪は黙った。夢の中で聞いた犬の悲鳴が、まだ耳の奥にこびりついて離れない。

「あの夢は」 「……見ましたか」 「誰の記憶ですか」

ヴェルナーは少しだけ沈黙を落とした。 「…私のものでもあります」

澪は布団を払い、立ち上がろうとした。足に力が入らず、ふらつく。

「まだ休んだ方が——」 「クロのところへ行きます」

有無を言わさぬ声だった。ヴェルナーは、それ以上止めなかった。

澪は冷たい床にしっかりと足をつけた。窓の外の光を見る。

「ヴェルナーさん」 「なんですか」 「柊は」

「もう、バロウのところへ行きました」 澪の目が、少しだけ細くなった。

「……そうですか」

驚きはしなかった。あの馬鹿で不器用な相棒なら、絶対にそうすると思っていたからだ。

「心配ですか」 澪は答えなかった。 ただ、ベッドから完全に立ち上がった。

「行きます」 扉へ向かう足は、最初は頼りなくふらついていた。

でも、病室を出て廊下を歩き出す頃には、その足取りはもう真っ直ぐに、力強く前だけを踏みしめていた。

扉が閉まった。 一人残されたヴェルナーは、澪の消えた扉をじっと見ていた。

しばらく、その場から動かなかった。


病院の玄関 再会と決別


病院の自動ドアが、静かな音を立てて開いた。

夜の間に染み付いた硝煙と血の匂いを薄めるように、冷たく澄んだ朝の空気が流れ込んでくる。

先に姿を現したのは、内山だった。

その腕の中には、クロが抱えられている。いつもなら誇り高く自らの足で歩くはずの黒犬は、今はピクリとも動かなかった。毛並みを覆っていたあの神秘的な青銀の光は完全に消え失せている。呼吸はある。でも、それだけだった。限界を超えて命の火を燃やした反動が、その小さな身体を縛り付けていた。

その背後から、柊が出てきた。

全身が泥と埃にまみれ、右肩には痛々しく血の滲む包帯が巻かれている。外套も焦げ、足取りはひどく重い。

だが、顔を上げた瞬間、柊の足がピタリと止まった。

玄関の前のポーチに、澪が立っていた。

少し離れた横にはヴェルナーが控えている。

澪は、内山を見た。そして動かないクロを見た。最後に、ボロボロになった相棒の姿を、真正面から見つめた。

「……柊」 柊は澪を見た。

昨夜、狂乱の中でホテルの窓から一緒に落ちた時の、青ざめて意識を手放していた顔じゃない。いつもの、芯の通った真っ直ぐな澪だった。少し顔色は悪いが、その瞳の光は完全にしっかりと前を見据えている。

「起きたのか」 「さっき」 「……そうか」

柊は、二歩、歩み寄った。 そこには何の迷いもなかった。

澪の目の前まで来ると、血と泥に汚れた腕で、そのまま彼女の細い身体を強く抱きしめた。

澪が、小さく息を呑んだ。

突然のことに、腕の中で一瞬だけ身体が強張る。だが、突き飛ばしはしなかった。避けもしなかった。

やがて彼女はゆっくりと力を抜き、柊の泥だらけの胸に、そっと額を預けた。

それだけだった。 言葉はなかった。

柊も何も言わなかった。ただ「生きて、再び会えた」という事実を確かめるように、痛む右肩を庇うことも忘れて、もう少しだけ腕に力を込めた。

柊の速い心臓の音が伝わる。澪の静かな温もりが伝わる。

しばらくして、柊の腕の中で、澪がくぐもった声で小さく言った。

「……特別だからね」

照れ隠しのような、でも少しだけ泣き出しそうな、ひどく不器用な声だった。

柊は答えなかった。

でも、その温もりを心に刻みつけるように、もう数秒だけ、決して腕を離さなかった。

内山はクロを抱えたまま、無言で二人を見ていた。

野暮なちょっかいを出すことも、急かすこともしない。ただ静かに視線を外し、都市の上に広がり始めた眩い朝の光を見上げていた。

ヴェルナーもまた、その光景を見守っていた。

彼の瞳は、今朝だけは底知れぬ微笑みではなく、ただ純粋に穏やかだった。悲しくも、計算高くも、申し訳なさそうでもなく、ただ一組の男女の確かな結びつきを祝福するように、穏やかだった。

「……さて」 やがて、内山が静かに空気を切り替えた。 「次へ行くぞ」

その声を聞いて、澪が柊の胸からそっと離れた。見上げたその顔はほんの少しだけ朱に染まっていたが、すぐにいつもの凛とした表情を作った。

「……どこへ」 「俺は博士のところだ。クロを連れていく」

内山は腕の中の小さな命を確かめるように抱え直し、それから鋭い視線を柊と澪へ向けた。

「お前たちは七塔だ。禁書庫へ向かったレム達と合流しろ。お互い、急ぐぞ」

ここで二手に分かれる。

激しい夜を乗り越えたばかりの身には過酷な指示だったが、柊も澪も一切の反論はしなかった。頷き一つで、互いの覚悟は完了した。

澪は、歩き出そうとする前にふと振り返り、ずっと傍らに立っていたヴェルナーを見た。

夢の中で見た若き日の彼と、今の掴みどころのない微笑みが重なる。

「……行かないんですか」

澪の静かな問いかけに、ヴェルナーはいつものように口角を上げた。

「私は、後から行きます」

それは、丁寧で柔らかな響きだった。だが、澪の鋭い直感は、その言葉の裏にある「決別」のような、不吉な静けさを感じ取っていた。

澪は何かを言いかけたが、やがて唇を引き結び、深く一礼した。

柊も内山も、それぞれの目的地へ向かって踵を返す。

朝の光が都市を白く染め上げる中、彼らは互いの背中を見送ることなく、残された最後の戦いへと足を踏み出していった。


唯一の望みと、崩壊の部屋


扉の前で、ヴェルナーは静かに足を止めた。 低い破裂音がした。

建物の内側から。一度だけ。 それから、不気味なほど静かになった。

「お久しぶりです」

扉越しに、声がした。ひどく落ち着いた、狂気すら感じさせる静かな声だった。

「わが友よ。今、捕らえました」

ヴェルナーは、冷たい金属の取っ手に手をかけた。

「……無駄だ。やめておけ」 「それが、あなたの唯一の望みでは」

ヴェルナーは答えなかった。ただ、ゆっくりと重い扉を開けた。

古びた板張りの床だった。

凄惨な光景が広がっていた。バラバラに破壊された機械の腕が落ちている。無惨に引き裂かれた胴体が転がっている。千切れた配線が黒く焼け焦げ、まだかすかに鼻をつく白煙を上げていた。

その部屋の奥に、男が座っていた。

テーブルの上に、頭部が一つ置かれている。金属と有機物が不気味に混在した、異形の頭部だった。

男はそれを前に、静かに座っていた。足を組み、両手を膝の上できちんと揃えて。

扉が開いても、男はヴェルナーの方を向かなかった。

「ご覧あれ」

男がテーブルの上の頭部を見つめたまま、独り言のように言った。

部屋の中に、何かがあった。

目に見える形はなかった。でも、確かにそこにあった。重い圧のようなもの。空気の密度そのものが歪んでしまったような、圧倒的な異物感。テーブルの異形の頭部を中心に、目に見えない力が静かに渦巻いていた。

男が、そこで初めて顔を上げた。

ヴェルナーを見たその目は、ひどく静かだった。怒ってもいない。恐れてもいない。ただ、自らが成し遂げた「結果」を純粋に見ていた。

部屋が、静まり返った。

窓の向こう、遠くから虫の声だけが微かに届いている。それだけだった。

しばらくして。 「……あ」 男の声が、唐突に変わった。

「ぁ……あ……」

綺麗に揃えられていた手が痙攣し、テーブルの縁を乱暴に掴んだ。

「ぁあああああ——」 絶叫。

手から何かが滑り落ち、カシャン、と金属が落ちる音がした。甲高い音が、板張りの床に冷たく響く。

男が頭を抱え込んだ。 そのまま椅子から崩れ落ちる。

床に倒れ伏し、痙攣が止まり——完全に、動かなくなった。

静寂。 ヴェルナーは、一歩も動かなかった。

表情一つ変えず、扉の前に立ったまま、倒れたかつての「友」を静かに見下ろしていた。

しばらくして、視線をテーブルの異形の頭部へ移す。

頭部は、もう何の圧も放っていなかった。わずかな光すら失い、ただの不気味な残骸としてそこにあった。

ヴェルナーは、静かに扉を閉めた。 廊下に出る。

歩み出そうとして、その革靴がぴたりと止まった。

振動が来た。 足の裏から。建物の分厚い床を通じて。

遠く、海の底のさらに深くから這い上がってくるような、低く、重苦しい駆動音だった。

ゴウ……。一拍。

ゴウ……。また一拍。 ひどく規則的だった。

心拍に似ていた。だが、決して人間のものではない。もっと途方もなく巨大な、次元の違う何かの鼓動。ヴェルナーは、ゆっくりと目を閉じた。

その地の底からの振動を、足の裏で静かに受け取る。

「……始まりましたね」 声には出なかった。ただ、唇だけが形を作った。

再び歩き出したヴェルナーの足音が、薄暗い廊下を遠ざかっていく。

やがて、それも完全に消えた。

誰もいなくなった部屋には、床に落ちた金属の冷たさと、焦げた配線の匂い、そして遠くから響き続ける低い振動だけが残っていた。

その不気味な振動は、夜が明け、都市が朝の光に包まれても、決して止まることはなかった。


平原の焚き火と、交差する推論


日が完全に沈み、夜の平原には冷たい風が吹き抜け始めていた。

見渡す限りの草の海の向こうに、都市の光がかすかに見えた。遠くて、ひどく小さかった。昼間あれだけ圧倒された狂騒の光が、ここからはまるで頼りない線香花火の束みたいにしか見えない。

平原の真ん中に、焚き火が一つだけ熾されていた。

パチパチと爆ぜる火の粉を眺めながら、レムが静かに薪をくべた。ゼンは腕を組んだまま、仏頂面で座り込んでいる。ブラスは火の向こうで膝を立て、沈黙のまま星のない空を見上げていた。ダリがその横で、無言で剣の柄と外套を整えている。

カイは少し離れた岩に腰掛け、手元のランタンの光でびっしりと書き込まれたメモを広げていた。

ふと、タウが立ち上がった。 誰も止めなかった。誰も理由を聞かなかった。

タウは薪を一本両手で拾い上げ、そっと火にくべた。それから少しだけ火の輪から離れ、平原を吹き渡る夜風に向かって立った。

最初の一音が出た。

透き通るような声だった。機械のスピーカーから流れる旋律でも、都市の腕輪から強制される音楽でもない。ただの、生身の人間の声だった。

でも、その声には確かな「何か」が混じっていた。

暴徒に囲まれた廃屋の夜から続いている何か。レムが抱えるレンの手帳から流れ込んだ何か。ただ怯えて歌うのではなく、自分の意志で誰かに届けるために歌いたいと願った、遠い想いの残響。

それが今夜、平原の風に乗って、傷ついた一行を包み込んでいた。

レムは焦げた手帳を胸に強く抱いたまま、そっと目を閉じていた。

しばらくして、ゼンがポツリと口を開いた。タウの歌の合間を縫うように、静かに言った。

「……都市部の連中、素性を隠さなくなってきたな」

ブラスが顎で頷いた。「ああ」

「今まで裏でコソコソ浸透してきた連中が、堂々と表に出てきやがった」

「時間がないんだろう」ブラスが低い声で言った。「七塔の掌握が近い。もう隠す必要すらなくなったということだ」

「でも、なんで従うんだろうな。島の連中に」

「どういうことだ」レムが目を開けた。

「いや」ゼンが肩をすくめた。「思念で民衆を抑え込んで、幹部は闇手先で固める。良くできたシナリオだとは思うけどよ。絞れるだけ絞ったら、普通は用済みだろ。その後は適当に自由にしてもいいはずなのに、なんであそこまで徹底して縛り続けるんだろって」

「海水からの燃料技術。それを持ってる島の組織に、都市の人間はみんな依存してる。生活の根幹のエネルギーを握られたら、誰も逆らえない」レムは胸の手帳を少しだけ撫でた。「バイオ村や地熱村が執拗に狙われたのも、そういうことでしょ。自前のエネルギーを持つ場所は、島に依存しない。だから邪魔だったのよ」

ゼンは目を見張り、しばらく黙った。 「……なるほどな。すげえな、お前」

「転送核の支配だろう」ブラスが、ゼンの言葉を継ぐように静かに言った。

「思念を転送して依代に注ぎ込む。依代になった人間は、自分の意志で動いているつもりで、実は核の振動に完全に従わされている。エネルギーの依存だけじゃない。人の念を、振動を、システムを回すための火にしているんだ」

パァンッ、と炎が大きく爆ぜた。 「哀れな依代だ」

誰も答えなかった。人間の尊厳すら奪うその手口の悪辣さに、言葉が出なかった。

タウの歌が、夜の風に乗って平原に広がっていた。 悲しくはなかった。

ただ、そこにある命の確かさを、誰かに届けようとする祈りのような歌だった。


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