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隣の彼女は異世界の妻でした  作者: 佐々木勇二


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レイク侵攻

夜が明けた。いつもと同じ朝のはずだった。

鳥の声がある。煙突から煙が上がっている。井戸端で誰かが水を汲んでいる。村の朝を作っているものが、全部そこにあるはずだった。

なのに、戸口に立ったまま、柊も澪も動けなかった。

「……静かすぎる」 「昨日もそう言ってたろ」 「昨日より」

柊も外を見た。たしかに、何かが決定的に足りない。音の種類じゃない。音の重さが違う。村全体が、巨大な何かに怯えて息を潜めているみたいだった。

最初に変わったのは、光だった。

太陽が、端から消えていった。雲ではない。影だった。鉄色の巨大な影が空を覆っていく。村の屋根が、煙突が、遠くの風車が、すべてその這い寄るような暗がりの下へ沈んでいく。

「……でかい」

柊の声が掠れた。戦艦だった。昨夜の黒い母艦の、夜闇に隠れていた全貌。異世界に来てから見たどんなものよりも巨大で、圧倒的な質量。それが、空そのものを押し潰すように浮かんでいた。

次の瞬間、腹の底まで響く低音が地面を這った。建物の窓が微振動を起こし、路地の水たまりが波紋を作る。

「逃げろ!」

誰かが叫んだ。それが合図だった。張り詰めていた糸が切れ、村が一気に動き出す。悲鳴、足音、荷物を抱えた人間が柊の肩をぶつかるようにして走り去っていく。子どもを抱えた母親が転ぶ。老人が立ち上がれずうずくまる。

空から、黒い群れが降りてきた。羽のある機械だった。複眼が橙色に光っている。数を数えるのをやめた頃には、村の上空が黒く塗り替えられていた。

一体が逃げ遅れた老人に近づいた瞬間、老人は糸の切れた人形のようにその場へ崩れ落ちた。

「澪!」

柊は反射的に澪の腕を掴んだ。「走れ」

「レムが——!」 「後で探す。今は——」

轟音。二人のわずか数メートル先の石畳を砕いて、四メートルを超える巨大な鎧兵器が降り立った。関節の隙間から不気味な青い光が漏れている。土埃が晴れると、柊のよく知っている工員が、鉄の拳に打ち据えられて地面に倒れ伏しているのが見えた。

柊の足が止まった。

レンなら、もう動いている。あの人ならここで迷わない。最短で、最小限の動きで、誰かを守っている。一番被害の少ない選択肢を、息をするように選んでいるはずだ。

でも——俺はレンじゃない。

「柊!」

澪の鋭い声が飛んだ。路地の奥、崩れた壁に張り付いて震えている子どもが見えた。巨大鎧兵器が無機質な動作でそちらへ首を向ける。

うまくできる気はしない。レンみたいには絶対にできない。

でも。

昨夜、澪に言った言葉が頭を横切った。

『そんなの、選べるかよ』

頭で考えるより先に、足が動いた。「こっちだ!」 叫びながら走る。理屈じゃない。子どもの前にがむしゃらに滑り込む。鎧兵器の青い光が柊を障害物として捉え、重い鉄の腕を振り上げた。

「左!」

澪の声だった。意味を理解する前に、柊の身体が左へ逃げた。ごうっ、と熱風が頬を掠める。鉄の腕が、柊のたった今いた空間を叩き割り、石畳を粉砕した。

「そのまま走って!」

澪の指示に従い、子どもを抱え上げて走る。路地へ入り、角を曲がり、細い道を抜ける。澪もすぐ後ろをついてくる。倒れた荷車と壁の隙間に滑り込み、身を隠す。追ってくる気配が遅れた。

止まったとき、柊の息は完全に上がっていた。肺が焼けそうに熱い。腕の中の子どもが泣き出す。澪がすぐに駆け寄り、子どもの頭や身体を素早く確認した。

それから、こちらを見た。

「怪我は」 「ない……」

柊は乱れた呼吸のまま、自嘲気味に口の端を曲げた。「うまくなかったけどな」

「わかってる」 澪はまっすぐ柊の目を見た。

「でも、動いた」

それだけだった。大げさな称賛はない。だが、その一言で十分だった。

レンみたいにはできない。スマートでもない。でも、選んだ。他人の痛みを切り捨てずに、手を伸ばすことを選んだ。震える自分の手が、少しだけ誇らしかった。

遠くから、聞き慣れた声が飛んだ。「レム、ゼン。行くぞ」

煙と土埃の向こうに、レンの背中があった。いつもの無愛想で面倒見のいい先輩の顔ではなかった。もっとずっと遠い、血と鉄の匂いがする場所を見据えている戦士の顔だった。

柊は無意識に一歩だけ踏み出しかけて——止まった。

澪が柊の袖を、ほんの少しだけ掴んでいた。引き止めるためじゃない。ただ、自分もここにいる、というだけの触れ方だった。

レンの背中が、黒煙の中へ消えていく。

二人で、その背中を見送った。

ふいに、村中の、いや空全体を覆う戦艦そのものから、冷たく機械的な声が降り注いだ。スピーカーを通したような、感情の一切を削ぎ落とした男の声だった。

『カルナの市民諸君、静粛に』

その声は、怒りも憎しみも帯びていなかった。ただの業務連絡のように淡々としている。それがかえって、背筋の凍るようなおぞましさを孕んでいた。

『この街は無駄が多すぎる。感情も、混乱も、非効率な抵抗も。これよりすべて、我が管理下に置かれる』

柊は拳を強く握りしめた。 無駄。非効率。

自分たちがこの村で過ごしてきた数日間——飯の味付けで揉め、洗濯物の畳み方で言い合い、戸締まりを確認し、不器用にお互いの距離を測ってきた時間。のびた麺を温め直して、一緒に食べた夜。あいつは今、それを全部無駄なノイズだと切り捨てたのだ。

澪は前を向いたまま、柊の袖から手を離した。

「行こう」 「どこへ」 「レムを探す。それから、できることをする」

「できること、か」 「それだけでいい」

柊は少しだけ笑った。「……そうだな」

二人で走り出した。煙の中を、炎の向こうを、崩れていく村の路地を。逃げるためじゃない。ヴェルナーに与えられた偽夫婦の役目をこなすためでもない。自分たち自身の意志で、守りたいものを守るために。

壊れた街と本音

空を覆う巨大な戦艦と地を這う機械兵器の蹂躙から逃れ、生き残った村人たちが身を寄せたのは、湖の近くにある古い廃工場だった。屋根の半分は崩れ落ち、むき出しの鉄骨の隙間から、赤く燃える村の火の手が遠くに見える。埃と、血と、油の匂い。子どもたちのすすり泣く声と、怪我人のくぐもったうめき声だけが、暗い倉庫の中に響いていた。

柊と澪は、壁際の冷たい床に座り込んでいた。二人とも顔も服も煤だらけで、子どもを抱えて逃げる最中に崩れた瓦礫の破片が掠った柊の左腕からは、じわりと血が滲んでいる。

「……腕、出して」

澪がかすれた声で言い、自分の上着の裾を裂いて作った布切れを柊の腕に巻きつけた。怪我自体は大したことはない。だが、澪の指先は微かに震えていた。それでも彼女は布の端をきっちりと折り込み、血が滲まないように正確な力加減で結び目を作る。こんな薄暗く、いつ敵が踏み込んでくるかわからない状況の中でも、彼女の指先は整えることを無意識に求めていた。

「痛くない?」 「ああ。……器用だな」 「普通よ」

澪は結び目をもう一度きゅっと締めて、手を離した。

柊は自分の腕のきれいに巻かれた布を見て、それから隣に座る澪の横顔を見た。煤で汚れ、疲労困憊のはずなのに、彼女の背筋はピンと伸びている。

「お前さ」 柊はぽつりと言った。「こんな時でも、ちゃんとしてるんだな」

澪の手が、ぴたりと止まった。

「……なんで、座りましょう、とか言うんだろうって、ずっと思ってたんだよ」

柊は独り言みたいに続けた。責めているわけじゃない。ただ、今やっと、何かが繋がった気がしていた。

澪は少しの間、黙っていた。

「……お母さんが、そうだったから」小さい声だった。

「お父さんと話すとき、いつもああいう感じで。ちゃんと座って、ちゃんと向き合って」

それだけだった。続きは出てこない。

柊はしばらく何も言わなかった。

(お父さんと話すとき)

その言葉が、胸の奥にゆっくりと落ちた。澪は気づいていないだろう。でも、柊には伝わった。この子にとって「座りましょう」は、大事な人と向き合うときの作法なのだ。そしてその作法を、この知らない異世界で、柊に対して使っていた。

「……俺さ」 柊は自分の膝を軽く叩いた。「お前がいてくれてよかったよ。毎朝、ちゃんと飯作って、俺に『遅い』って文句言ってくれたから。このわけのわからない世界で、自分を見失わずに済んだ」

澪は黙っていた。膝の上で、指先が微かに動いた。

しばらくして、ひどく小さな声が聞こえた。 「……ありがと」

それだけだった。すぐにまた前を向く。でも、さっきより肩の力が抜けていた。

柊は何も言わなかった。ただ、少しだけ澪の方へ身体を寄せた。肩が触れるか触れないかの距離。

澪は避けなかった。

そのとき、倉庫の入り口付近がざわついた。ゼンに肩を貸されるようにして、レムが入ってきた。服も焦げ、顔は煤だらけだった。だが、彼女がいつも見せていた太陽のような笑顔は、どこにもなかった。

「レム……!」 澪が立ち上がり、駆け寄る。

「……親方が」 レムは焦点の合わない目でぽつりと言った。「工房の親方が、私たちを逃がすために……残った。機械を下敷きにして、入り口を塞いで……」

幼い頃から、無愛想だけれど村の子どもをいつも気にかけてくれた人だった。

そこで言葉が途切れた。

泣いてはいなかった。唇をきつく噛んで、両手を胸の前で握りしめて、ただ前を見ていた。ゼンは無言のまま、壁を強く殴りつけた。

しばらく、誰も何も言わなかった。

燃える音だけが、遠くで続いていた。

「……泣いている暇はないぞ」

暗がりの中から、低い声が響いた。レンだった。

その姿を見て、柊は息を呑んだ。外套は半ば焼け焦げ、左腕からは血が滴っている。満身創痍という言葉すら生ぬるい状態だった。だが、その立ち姿には一寸のブレもない。

「レンさん……その怪我」 「かすり傷だ」

レンは柊たちを一瞥し、廃工場の奥——ブルーシートが被せられた巨大な物体の方へ歩みを進めた。

ブルーシートの端を掴み、勢いよく引き剥がす。

埃が舞う中から現れたのは、巨大な古びた飛行船と、その影に隠れるように置かれた一機の小型プロペラ機だった。

「親方が、いつか空を飛ぶために隠して直していた」

レンは飛行船の腹を叩いた。「これを使って、戦艦の中枢を落とす」

「本気かよ!?」 ゼンが顔を上げた。「あんなバカでかい戦艦に、こんなガラクタで突っ込むってのか。撃ち落とされて終わりだ!」

「飛行船は囮だ。その前に、街中に残っている機械群を動かす」

「動かすって……燃料も、操縦者もいないのに」 柊が言うと、レンは少し間を置いた。

「燃料はいらない。操縦者も」

「……どういうことだよ」

レンは廃工場の壁に寄りかかった蒸気自動車の残骸に歩み寄り、その車体に片手を触れた。

「機械には、固有の振動がある。回転軸の周期。弁の開閉リズム。配線を流れる電流の癖。全部、決まった揺れを持っている」

手のひらが、金属の上でわずかに光った気がした。柊は目を細める。

「そこへ、別の振動を噛ませる。壊すんじゃない。癖を書き換えるみたいに——こっちへ来い、と」

「……機械に命令するってこと?」

「命令じゃない」 レンは手を離した。「位相を合わせる、に近い。機械は答えるだけだ。そういう理屈で動いてる」

ゼンが腕を組んだ。「それ、お前がやるのか」

「俺だけじゃない」 レンは静かに言った。「俺の中にいる、もう一つの意志がやる」

沈黙が落ちた。

「……何なんだよ、それ」 柊が聞く。

レンはしばらく黙った。答えを探しているのではなく、どこまで言うかを測っているような間だった。

「最初は、補助みたいなものだと思っていた。計算を速くする、先を読む、そういう道具だと」

「違ったのか」

「違った」 レンは天井を見た。「こいつは答えを出すだけじゃない。迷っている時は黙っている。進むと決めた時だけ、機械の奥で位相を合わせてくる。ただの道具なら、こんな間の取り方はしない」

「……じゃあ、何なんだ」

「わからない」 レンは正直に言った。「俺の思考の反響なのか、別の誰かの意志の残響なのか。完全には断言できない。ただ——」

一拍、置いた。

「人を攻撃できない。それだけははっきりしている」

「なんで」

「そういう制約を持った意志だから、としか言えない。理屈じゃない。そういうものとして、そこにいる」

柊はその言葉を、胸の奥で静かに受け取った。

命令を実行するプログラムじゃない。かといって、人間でもない。レンの中で、レンと共に育ってきた、何か別の意志。それが機械の振動に干渉して、街そのものを動かす。

「壊れた昆虫型は?」 澪が口を開いた。

「戦艦との通信が切れている。その隙間に入り込める」

「囮にできるってこと」

「ああ。飛行船と合わせて、戦艦の迎撃の目を散らす。その隙間を——」 レンはプロペラ機に目を向けた。「こっちで抜ける」

「一人で?」

レンは答えなかった。それが答えだった。

夜になって、レンはゼンの案内で静まり返った村を歩いた。

放置された蒸気自動車のボンネットに手を置く。建設途中のクレーンのワイヤーに触れる。崩れた壁の給水管をなぞる。

触れるたびに、かすかな光が走る。光というより——振動が伝わる、その痕跡みたいなものだった。

機械に意志を植えるたびに、自分の中から何かが削られていく感触があった。痛みではない。ただ、軽くなっていく。自分が少しずつ薄くなるような。

「レン、顔真っ白だよ」

レムが心配そうにタオルを差し出す。

「……まだだ」 「無理しないで」

「無理じゃない。これは、俺たちにしかできない」

レムが黙った。タオルを押しつけてきた。レンは受け取って、額を拭った。

俺たち。

その言葉が、口から出てから、少しだけ意外だった。いつから「俺たち」と言うようになったのか。

脳の奥の振動が、小さく揺れた。

最後に、廃工場に戻った。レンは飛行船の前に立ち、手帳を取り出した。

薄くて古い、革の表紙。最初の数ページはレン自身の乱暴な字で埋まっている。「緊急時以外、勝手に動くな」。その下に、見覚えのない整然とした字。「了解しました。制約を固定します」。ここまで来た道が、二種類の筆跡で刻まれていた。

レンは新しいページを開き、羽ペンを走らせた。

『明日、行く。最後まで頼む』

少し待った。やがてページの下に、あの整然とした字が現れた。

『……わかりました。最後まで、共に』

レンはしばらくその字を見つめた。それから手帳を閉じた。

夜明け前。

廃工場の中は静かだった。眠れない人間が何人かいる。子どもたちだけが、疲れ果てて眠っていた。

レンは出口へ向かう前に、一度だけ立ち止まった。

柊の方へ、静かに歩み寄る。

「……渡すものがある」

柊が手を出すより先に、レンは手帳を差し出した。

「レムに渡せ。俺が戻らなかった時」

柊は受け取った。表紙を開いた、その一瞬だけ中が見えた。

乱暴な字と、整然とした字。二種類の筆跡が、同じページに並んでいた。

柊は手帳を閉じた。何も言わなかった。

レンも何も言わなかった。それで十分だった。

「地上は任せる」 レンは柊と澪を見た。「澪の目を信じろ。お前たちなら、守れる」

レンは出口へ向かった。

そのとき、レムが前に出た。

レンが足を止める。二人は向かい合った。

レムは何も言わなかった。泣いてもいない。ただ、まっすぐにレンを見ていた。

レンも何も言わなかった。

一秒。二秒。

それからレンは、小さく頷いた。レムも、小さく頷いた。 それだけだった。

夜明け前、廃工場の重い鉄扉が、鈍い音を立てて開かれていく。外には、空を覆い尽くす漆黒の戦艦が、傲慢な沈黙を保って浮かんでいた。

反撃の時が、来た。


街そのものを使った反撃


夜明けの薄闇の中、廃工場の前でレンは飛行船の錆びた船腹に手を触れていた。

目を閉じる。呼吸を整える。脳の奥へ、静かに意識を沈めていく。

昨夜、街中の機械に植えた振動が、まだそこにある。眠っている。待っている。

(やれるか)

返答は言葉ではなかった。意識の深いところに、かすかな波紋が返ってくる。水面に石を投げ込んだとき、波紋が広がるような。

肯定だった。

(じゃあ、始めるぞ)

直後、村が息を吸った。

一瞬だけ、すべてが止まったような錯覚。それから。

放置されていた蒸気自動車が、一斉にエンジンを咆哮させた。無人だ。誰も乗っていない。それでも動く。正確に。迷いなく。昨夜レンが位相を合わせた軌道を、寸分違わず走る。鎧兵器の足元へ、最短経路で猛進し、轟音とともに装甲の脚部を打ち砕く。

建設途中のクレーンが、腕を振った。三台が同時に動く。一台目が鎧兵器の背後を塞ぐ。二台目が逃げ道を潰す。三台目が肩口を掴んで地面に叩きつける。金属が悲鳴を上げる。

給水塔のバルブが弾けた。計算された角度で水煙が広がり、昆虫型ドローンの複眼センサーを白く潰す。視界を失ったドローンが壁へ激突し、火花を散らしながら落ちていく。

路地の奥、古い鐘楼の鐘が鳴った。誰も引いていない。でも鳴っている。正確なリズムで。その振動が石畳を伝い、鎧兵器の関節部に共鳴して、動きを鈍らせる。

全部が、同時に起きていた。全部が、繋がっていた。

昨夜レンが街を歩きながら植えた振動が、今この瞬間、一つの意志として目を覚ました。命令ではない。位相が合った機械たちが、ただそれぞれの役割を果たしているだけだ。なのに全体として、これ以上ないほど精密に噛み合っている。

村全体が、一つの巨大な意志として動いていた。

「すっげえ……」

廃工場の入り口で、ゼンが呆然と声を漏らした。

だが、感心している暇はない。村の異変に気づいた戦艦の地上部隊が、制御の要となっているこの廃工場へ向かって、波のように押し寄せてきた。複眼を赤く光らせたドローンの群れと、三体の巨大鎧兵器。

「来るぞ!」

柊が鉄棒を握り直し、前に出た。

「柊!」 背後から澪の鋭い声が飛ぶ。

「右から二体! 軌道が低い、三歩下がって!」

頭で考えるより先に、柊の身体が動いた。三歩下がる。直後、さっきまで柊の頭があった空間を、鎧兵器の振り抜いた鉄腕が恐ろしい風圧とともに通り過ぎた。

「次、関節の隙間! 光の根元!」 「わかってる!」

柊は踏み込み、フルスイングで鉄棒を叩き込んだ。ガキンッと甲高い音が響き、鎧兵器の姿勢が大きく崩れる。そこへレンの操る無人の蒸気自動車が横から突っ込み、完全にとどめを刺した。

息をつく暇もない。上空からドローンの群れが急降下してくる。

「左上、五機! 散らばるわよ!」 「任せろ!」

柊は近くにあった木箱を蹴り上げ、ドローンの軌道を強制的に逸らした。落ちてきたところを、ゼンの鉄パイプが容赦なく叩き落とす。

柊と澪の間に、もう言葉の確認はいらなかった。

「右」と言われれば右を打ち、「下がる」と言われれば下がる。それは、朝の食卓で塩の小瓶を渡すのと同じだ。相手が何を求めていて、どう動くべきか、日常の中で積み重ねてきた無数の小さなやり取りが、戦場という極限状態において完全な同期を生み出していた。

外から与えられた偽物の夫婦という設定は、いつの間にか、背中を完全に預け合う本物の相棒の絆へと変わっていた。

「……すげえな、お前ら」

息を切らしながら、ゼンが柊と澪を見て言った。「いつからそんな、頭おかしいくらい息合うようになったんだよ」

「さあな」 柊が額の汗を拭いながら笑う。「毎日同じメシ食って、同じ部屋で文句言い合ってりゃ、嫌でもわかるようになるんだよ」

澪は何も言わなかった。だが、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。

もう、この噛み合い方に戸惑いも怖さもない。ただ、相手を信じ切っているという、圧倒的な安心感だけがあった。

そのとき、廃工場の奥から地響きのような唸りが上がった。

囮となる飛行船が、錆びた船体をきしませながら、ゆっくりと空へ向かって浮上し始めたのだ。その影に隠れるように、レンの乗る小型プロペラ機のエンジンが産声を上げる。

ふと、柊は背後を振り返った。別の区画へ防衛ラインを押し上げるため、一時的に澪と離れるタイミングだ。

「澪」 「何」 「ちょっと、行ってくる」

それは、決死の覚悟を語るような悲壮なトーンではなかった。まるで朝起きて「顔洗ってくる」と言うような、あるいは市場へ「買い出しに行ってくる」と言うような、ひどく日常的な響きだった。

澪は振り返って、小さく頷いた。

「……気をつけて」

そこに偽物の夫婦の演技はない。甘い言葉もない。ただ、必ず帰ってくることを前提とした、揺るぎない信頼だけがあった。

柊は笑って前を向き、再び瓦礫の山へと駆け出していった。

レンはコックピットの中から地上を見た。

ドローンの残骸の山を築き、息を切らしながらもこちらを見上げている柊と澪。柊が大きく手を振る。澪は振らない。ただ、まっすぐこちらを見ている。

レンは小さく頷いた。それからレムの方を見た。

レムは泣いていなかった。胸の前で両手を強く握りしめて、ただまっすぐにレンを見つめ返している。

昨夜の、視線だけの別れを、もう一度繰り返すみたいに。

レンは前を向いた。操縦桿を握る。

(行くぞ)

脳の奥の振動が、静かに応えた。

飛行船が、朝の空へと昇っていく。

上空の戦艦がそれに気づき、側面から無数の光の矢——対空砲火を一斉に放った。古い船体が大きく揺れ、腹の一部が裂けて黒煙が噴き上がる。だが、飛行船は止まらない。レンの振動を受けた機体が、限界を超えて推進力を引き出しているのだ。

空へ飛び立ったのは飛行船だけではなかった。

村のあちこちに墜落していた半壊のドローンたちが、次々と再起動し、黒い群れとなって戦艦へと逆突撃を仕掛けた。火花を引き、羽を破損させながら、かつての主の防衛網へ特攻していく死にかけの機械たち。昨夜植えられた振動が、今この瞬間に目を覚ます。壊れていても、関係ない。位相さえ合えば、機械は動く。

「飛行船は後回しだ! あの虫どもを叩き落とせ!」

戦艦の迎撃の目が、一瞬だけ散る。そのほんのわずかな隙に。

レンのプロペラ機が、燃えながら崩れゆく飛行船の影から弾丸のように飛び出した。黒煙を切り裂き、戦艦の腹に空いた搬入口へと、一直線に吸い込まれていく。

地上では、柊たちが戦艦からの追撃部隊を必死に食い止めていた。

「柊! 次、正面からデカいのが来る!」 「応!」

澪の声に、柊は手にした鉄棒を握り直す。前衛を柊とゼンが張り、澪が後方から全体の戦況を読み取って指示を出す。レムもまた、倒れた工員たちを安全な場所へ引きずりながら、必死に戦線を支えていた。

上空では、戦艦の腹の奥深くで、まだ何かが動いている。

街と、人と、人間の中に重なった振動が、一つになって抗う。すべてを管理しようとする冷たい空の怪物へ向けた、これが地上からの総反撃だった。

戦艦突入

上空で、空気を引き裂くような大音響が轟いた。

囮となった飛行船が、戦艦の主砲デッキに激突したのだ。ただの激突ではない。レンの中にある振動が、飛行船内部の揺れを一点に収束させ、戦艦の外装金属の結合を瞬間的に解いた。分厚い装甲が外側へ向かって弾け飛び、黒煙と炎が戦艦の腹に巨大な裂け目を作った。

その黒煙のトンネルを抜けて、一機の小型プロペラ機が弾丸のように飛び込んでいく。

裂け目がさらに大きく口を開く。翼が千切れた鉄骨を削り、火花がコックピットを包み込んだ。機体はもはや飛行を維持できず、戦艦の内部ドックの金属床を激しく滑走しながら、幾重もの隔壁を突き破ってようやく停止した。

沈黙。

ひしゃげた機体からレンが這い出した。口の中に広がった血の味を吐き捨てる。肩を強打し、脇腹からは血が滲んでいたが、致命傷はない。

顔を上げると、迷路のような戦艦の深部だった。無機質な警告音が鳴り響き、周囲の通路から自動警備の小型鎧兵が壁のように押し寄せてくる。赤いセンサーの光が、侵入者であるレンを無数に捉えていた。

「アイ。動け」 レンは迫り来る機械の群れを前にして、低く呼んだ。

「中枢まではお前に任せる。俺の体も、この船の理屈も、好きにしろ。だが——」

一拍、置いた。

「そいつに出会ったら、俺に代われ。絶対にだ」

それはただの命令ではなかった。命を預ける相棒への、絶対の条件だった。

脳の奥で、わずかな沈黙があった。やがて、振動が返ってくる。言葉ではない。でも、確かな意志の波紋だった。

了解、という意味だと、レンにはわかった。

次の瞬間、レンの瞳から感情の色がすっと消え落ちた。代わりに、瞳の奥底から白銀の光が滲み出し、冷たい輝きを放ち始める。

レンの身体が、動いた。

それは人間の筋肉や骨格の限界を計算し尽くした、恐ろしいほど無駄のない軌道だった。

周囲の動力の流れに干渉が始まる。天井の高圧蒸気管が破裂し、白く熱い霧が鎧兵たちのセンサーを完全に盲目にした。レンはその白い闇の中を、敵の死角だけを縫うようにして駆け抜ける。

右の隔壁のロックが解除される。十メートル先の床が軋み、レンが着地した瞬間に崩落した。下の階層へと落下しながら、レンは空中で短剣を振るい、待ち構えていた敵の動力部を正確に切断していく。エレベーターが暴走して上昇を始め、防衛用の重シャッターが敵の頭上に次々と落ちる。

通路が封鎖され、戦艦の内部が自らの防衛システムに首を絞められるように軋みを上げた。

圧倒的な蹂躙だった。

レンの肉体と脳の奥にある意志が完全に同期し、戦艦の深部を一直線に食い破っていく。血も、火花も、痛みすらも、今のレンにとっては単なる処理すべき情報に過ぎなかった。

一方、地上では。

戦艦の腹部で連続して起きている内部爆発の閃光を、柊は鉄パイプを振るいながら見上げていた。

「……あの中で、暴れ回ってやがる」

地上に降り注ぐ敵の数は減っていない。だが、戦艦の動きが明らかに鈍り、連携が乱れ始めているのがわかった。

「柊! 上見ない!」

横から澪の叱責が飛び、柊は慌てて目の前の装甲兵に向き直る。

「わかってる! 右だろ!」 「違う、左足の裏! バランス崩してる!」

「よしきた!」

柊が低く滑り込み、装甲兵の左足首の関節に鉄パイプを叩き込む。巨体がグラリと傾いた。そこをゼンの渾身の一撃が襲い、完全に機能が停止する。

「はぁっ、はぁっ……」

柊が息をつくと、澪が背中合わせに立ち、油まみれの手で額の汗を拭った。

「レンさんは、あの中で戦ってる。私たちは、ここを死守する」 「ああ」

柊は短く答え、澪の背中の熱を感じながら、次に迫り来る敵の群れを睨んだ。

恐怖はとうに麻痺している。ただ、隣にいるこの不器用で几帳面な相棒と、生き残って明日を迎えるためだけに。

幾重にも張り巡らされた分厚い防壁を、振動がこじ開け、レンの肉体がその執念を具現化するように駆け抜けた。

そして、ついに。

巨大な扉の前に到達した。

その瞬間、レンの瞳から白銀の光がすっと引いた。

「……がっ、はぁっ……!」

激しい咳き込みとともに、視界が大きく揺れる。麻痺していた痛みと疲労が、堰を切ったように肉体を襲った。裂けた脇腹からの出血がひどい。膝が笑い、立っていることすら困難な状態だった。

レンは壁に手をつき、荒い息を吐きながら血の混じった唾を吐き捨てた。

脳の奥で、振動がわずかに遠く響いた。限界だ、という意味だと、レンにはわかった。

レンは血に濡れた口元を微かに歪めて笑った。

「……約束通りだな、相棒」

振動は返ってこなかった。だが、その沈黙はかつての無機質なものではなかった。言葉の代わりに、脳の奥底にじんわりとした温かい気配が残っている。それは間違いなく、レンという人間を死なせまいとする、不器用な意志の形だった。

レンは壁から手を離し、ふらつく足に力を込めて真っ直ぐに立った。

これ以上は、振動でも計算でもない。効率を極めた意志ではなく、非効率極まりない感情と意志を持った一人の人間として、決着をつけなければならない場所だ。

重々しい機械音を立てて、最深部の扉がゆっくりと左右に開いていく。

眩い光に満ちた広大な空間の中央。片半身を巨大な鎧と戦艦のシステムに接続した、冷酷な支配者レイクの姿があった。

「……ほう。生きているか。あの木屑の中から」

レイクの声が、静寂の空間に響き渡る。

レンは腰の短剣を抜き放ち、血だらけの顔を上げて、真っ向からその姿を睨み据えた。

「来たぞ」

言葉は、それだけで十分だった。


白銀の玉砕


広大な最深部の中央で、レイクはゆっくりと立ち上がった。

身に纏う巨大な鎧の関節が、重々しい金属音を立てて軋む。背中からは無数の管が伸び、戦艦そのもののシステムとレイクの神経を直接繋いでいた。

「感情は、非効率だ」

レイクの声には、怒りも憎しみもなかった。ただ、壊れた部品を数え上げるような平坦さがあった。

「怒り。悲しみ。喜び。それらは命を削るだけの無駄な雑音にすぎない。だから私が管理する。統制する。それで世界は足りる」

レイクの目が、レンを捉えた。

「お前の中にある『ノイズ』も含め、今ここで私が修正してやる」

レンは血に濡れた口元を手の甲で拭い、短剣を逆手に構え直した。

「……御託はいい」

息は浅く、視界は端からかすれ始めている。立っているのがやっとの状態だ。

「お前には、誰かを守りたいと思って走ったことなんて、一度もないだろ」

「守る? 脆弱な個体を維持するコストのことか。無意味だな」

「そうかよ」 レンは小さく息を吐いた。「なら、俺たちは一生言葉が通じない」

レイクの目が、わずかに冷たく細められた。「消えろ」

戦艦と同期したレイクの巨大な鉄拳が、空気を引き裂いて迫る。同時に、周囲の自動砲台から無数の光の矢が放たれた。

レンは動かなかった。

視界の中で、すべてが静止する。

光の矢の射線。床のひび。レイクの重心。次にしなる剣の角度。

それがアイの演算でも、死の淵に立ったレン自身の極限の直感でも、もうどちらでもよかった。ただ、届くための一本の道だけが、頭の中に白く浮かび上がっていた。

「……いち」

最初の光の矢が来る。半歩だけ軸をずらし、頬を掠めさせて前へ出る。

視界の端に、鍋を抱えて笑うレムの顔が浮かんだ。

「……に」

二本、同時。身を沈めて一本を躱すが、もう一本が右肩の肉を深く裂く。熱が走る。腕が鉛のように重くなる。構わない。

煙と熱の中で自分たちを逃がそうとしてくれた、親方の背中が浮かんだ。

「……さん」

レイクの長剣が、レンの脇腹をえぐる。血が飛び散り、視界が完全に赤く滲んだ。

それでも、足は止まらなかった。

理屈じゃない。損得でもない。最適化された計算式の中には決して存在しない、非効率な選択。目の前に人がいて、守れるものがあるなら、身体が動く。それだけだ。

——それが、俺だ。

レイクの懐まで、あと一歩。

「……し」

レンの手が、懐に忍ばせていた起爆装置へと向かう。自らの命と引き換えに、莫大な振動を暴走させる最後の手段。

「アイ」

レンは脳の奥にいる相棒に、静かに呼びかけた。

「お前の矜持は、汚さない」

それは、この自死の道連れからアイを切り離してやるという、レンなりの不器用な気遣いだった。

「……ありがとう」

指が、引き金に触れる。

『やめてください!!』

——初めてだった。

警告でも、推奨でもなかった。最適化の計算式から完全に逸脱した、ただの、必死な願いだった。

レンは、ほんの一瞬だけ、困ったように笑った。

(……なんだよ。お前も、ただのポンコツじゃねえか)

視界が、真っ白に染まっていく。

指が動かない。いや、動かされている。

白の中に、断片が浮かぶ。

夜道の、小さな影。背中を押した、誰かの手。間に合わなかった、という感覚。

それはレンの記憶ではない。彼の中に重なっていた別の誰かが、かつて守れなかった遠い過去の記憶。

(……同じか)

そうか。お前も、誰かを守れなかったことがあったのか。だから俺の中にいる。だから、今度こそ、と。

白銀の光が、レンの身体の奥底から爆発的に満ち溢れた。

脳の奥で、振動が響く。言葉ではない。でも、これまでで一番はっきりとした意志の波紋だった。

ありがとうございました、という意味だと、レンにはわかった。

レンの意識が、ゆっくりと暗闇へ沈んでいく。

光は、音もなく広がった。

レイクは動かなかった。

その圧倒的で純粋な光の奔流の前で、絶対の管理者は初めて——言葉を失った。

白銀の光が、レイクの鎧の隙間に滲む。関節が静止し、瞳がゆっくりと白に染まっていく。破壊でも、爆発でもなかった。ただ、硬く閉じていたものが、帰る場所を思い出したように静かにほどけていく。

護衛兵たちも、一人ずつ、静かに光の中へ還っていった。悲鳴も、抵抗もない。

戦艦の中枢が、内側から完全に機能停止した。

「……こういう終わり方も、あるのか」

レイクの最後の言葉が、静寂の空間に溶けていった。

それが感情だったのか、ただの演算の結果だったのか。誰にもわからなかった。

地上から見えたのは、勝利の閃光ではなかった。

空を覆っていた戦艦の黒い輪郭が、静かに薄れていくのが見えた。轟いていた対空砲火が止まり、黒煙が晴れ、戦艦の頂点から霧のような白銀の光が溢れ出している。

静かだった。恐ろしいほど、静かだった。まるで、巨大な何かが、最後に一つだけ深い息を吐いたように。

「……終わったのか」

瓦礫の上に立ち尽くし、鉄パイプを下ろしたゼンが、誰に言うでもなく呟いた。

戦艦の船体の一部が剥がれ落ちる。推進機が火を吹き、黒煙が空を裂いた。ゆっくりと、しかし確実に、かつて空を支配していた巨大な鉄の塊が、重力に従って地平線の向こうへと墜ちていく。

誰もしばらく声を出せなかった。

レムは胸の前で、両手を強く握りしめたまま、白銀の光が消えていく空を見上げていた。

涙が出ない。声も出ない。ただ、光のあった場所を、見ていた。

(行ったんだ)

胸の奥で、何かがすとんと落ちた。

少し離れた場所で、柊と澪もまた、白銀の光が消えていく空を見上げていた。泥だらけの顔。煤で汚れた服。二人とも、言葉を発することはできなかった。

あの光の意味を、彼らは肌で感じ取っていた。

ひとりで最深部へ行った無愛想な先輩と、彼の中にいた何か。その二つが、最後まで互いの輪郭を重ね合わせたまま、誰かを守るためにあの場所で燃え尽きたのだということを。

そしてそれは——外側から夫婦という輪郭を与えられた自分たちと、どこかで地続きだった。

言葉にはしなかった。でも、隣に立つ人間の体温が、今だけは妙にはっきりと伝わってきた。

やがて白銀の光が完全に薄れ、冷たい朝の色が空に戻ってくる。

風が吹いた。止まっていた機械のどこからも、もう音はしなかった。

狂ったように回り続けていた輪舞が、ここで一つ、完全に切れたのだった。

気づいたら、ゼンがレムの隣に来ていた。

何も言わない。ただ、並んで、同じ空を見ている。

しばらくして、ゼンが静かに言った。「……行ったな」

レムは答えなかった。ただ、小さく、頷いた。

それから、上着のポケットに手を入れた。固い感触があった。手帳だった。柊が、いつの間にか渡してくれていた。

表紙には焦げ跡があり、頁の端は煤けている。レムはそれを、胸の前でそっと抱きしめた。中を開く気にはなれなかった。でも、この重さだけは、はっきりと腕に伝わっていた。

風が吹く。朝の、冷たい風だった。

その夜、レムは仮設の寝床で、手帳を胸に抱えたまま天井を見ていた。

頁を開く勇気は、まだなかった。最後に何が書かれているのかを見てしまえば、本当にあの人たちが帰ってこないことを、認めなくてはいけない。そう思うと、指が動かなかった。

隣の寝床で、ゼンも眠っていなかった。何も言わない。寝返りもあまり打たない。ただ、レムが眠りに落ちるまで、起きている。そういう距離の取り方だった。

翌朝、レムが目を覚ますと、台所で小さな音がしていた。ゼンがパンを温めていた。ぶっきらぼうな手つきだったが、皿は二枚きちんと並べられていた。

「……おはよ」 「おう」

それだけだった。そんな日が、何度か続いた。


手を取る


空を覆っていた巨大な鉄の塊が墜ちてから、季節が少しだけ動いた。

村は、まだあちこちに深い傷跡を残している。砕けた石畳、焼け落ちた屋根、瓦礫の山。それでも朝になれば鳥が鳴き、井戸端には水汲みの音が響き、仮設の作業場からは、かん、かん、と鉄を打つ音が絶え間なく聞こえてくる。

復興の槌音の響く広場の片隅で、レムは胸の前で古い手帳を強く抱きしめていた。表紙には焦げ跡があり、頁の端は煤けている。

「……いつまでそれ、抱えてんだよ」

瓦礫運びで汗だくになったゼンが、首に巻いた手ぬぐいで顔を拭いながらぶっきらぼうに言った。

レムは手帳を抱きしめたまま、少しだけ怒ったような顔でゼンを見た。

「ずっとだよ」 「重いだろ」 「重い。でも、これがいいの」

レムは手帳の表紙をそっと撫でた。

中を開いても、新しい字が増えることはもう二度とない。あの日、空で弾けた白銀の光と共に、あの不器用で面倒見のいい兄貴と、彼の中にいた相棒は、完全にこの世界から消え去ってしまった。

でも、彼らが守り抜いたこの場所で、自分たちは生きていく。

「……行くぞ」 ゼンがぶっきらぼうな声のまま、レムに背を向けた。

「どこへ」

「知らん。でも、ここだけじゃないだろ」

レムは少しだけ目を丸くした。それから、ふっと笑った。

久しぶりに、太陽みたいな笑顔だった。

「……うん」

レムは小さく頷き、顔を上げた。

失われたものは戻らない。だが、遺された者たちの時間は、確かに前へと進み始めていた。


夕暮れ、柊と澪は自分たちに与えられた小さな家に帰ってきていた。

村の復興作業を手伝い、泥と埃にまみれて帰宅し、順番に湯を使い、不格好な食卓を囲む。戦艦が落ちる前と変わらない、泥臭くて地味な日常だった。

だが、一つだけ明確に変わったことがあった。ヴェルナーがふらりと姿を消して以来、誰も彼らに夫婦としての振る舞いを強要しなくなったのだ。村の人々も、あの激戦の中で共に泥まみれになって戦った二人を、単なる外から来た夫婦という枠ではなく、同じ村を立て直す仲間として見ていた。

柊は床に座り込んで窓枠の修理をしながら、ふと足元を見た。

部屋の中央に引かれていた、一本の黒い炭の線。澪が最初の日に引いた境界線は、日々の生活の行き来で擦れ、今ではもうほとんど消えかかっている。

「……線、消えそうだな」

柊がぽつりと言うと、台所で洗い物をしていた澪が手を止めて振り返った。床のうっすらとした黒い跡を見つめ、それから柊を見る。

「引き直すか?」

柊が冗談めかして笑うと、澪は静かに首を横に振った。

「……もう、いらない」

澪は布で手を拭きながら、柊のすぐ近くまで歩み寄ってきた。境界線の跡を、なんの躊躇いもなく踏み越えて。

「もう、誰も私たちに夫婦のフリなんて求めてないわ」 澪は窓の外の夕焼けを見つめたまま言った。「ヴェルナーさんもいなくなった。村の人たちも、私たちが本当の夫婦じゃないって、もう薄々気づいてるはずよ」

「だろうな」 柊は手元の工具を置き、胡座をかいて座り直した。「俺たち、嘘が下手だったし」

「あんたがね」 「お前もだろ」

いつもの軽い言い合い。だが、その声のトーンは驚くほど穏やかだった。

静寂が下りる。風が窓を揺らし、遠くで虫の声が鳴り始めていた。

あの白銀の光の中で、一人で逝った先輩の背中を思い出す。自分の内側に重なった他者を、決して切り捨てることなく、最後まで相棒として引き受けた人。

それに比べて自分たちはどうだ。外から与えられた夫婦という設定に戸惑い、反発し、境界線を引いて自分を守ることしかできなかった。

だが、その不格好な線の内側で二人で分け合った湯の温かさや、泥だらけで帰った時のコップ一杯の水、一緒に食べたのびた麺の味は、絶対に偽物なんかじゃなかった。

澪がゆっくりと柊の方へ向き直った。

最初の頃の刺々しい警戒心も、過剰に自分を整えようとする硬さも、その顔にはない。ただ、まっすぐに柊の目を見据えていた。

「あなたは、私の旦那じゃない」

静かで、凛とした声だった。ヴェルナーに押し付けられた役割。異世界を生き抜くための偽装設定。澪はそのすべてを明確な言葉で、一度、完全に否定した。

柊は少しだけ息を呑み、それでも黙って澪の次の言葉を待った。

澪はほんの少しだけ目を伏せた。

それから、ゆっくりと柊のすぐ隣に座った。向かい合うのではなく、同じ方向を見る位置に。

「でも——」

澪の右手が、そっと柊の左手に触れた。柊の肩がびくっと跳ねるが、澪は手を引かなかった。それどころか、柊の無骨な指の間へと、自分の細い指をゆっくりと滑り込ませていく。

体温が、直接流れ込んでくる。

「一緒に歩いていく」

それは、誰かに与えられた設定ではない。澪自身が、自分の意志で選び取った答えだった。

柊は、自分の指に絡められた澪の手のひらの温かさを感じながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

師匠…みたいには、到底なれない。未来が全部見通せるわけでもない。これから先、元の世界に帰れるのか、この村でずっと生きていくのかも、まだ何もわからない。

でも、この手を離さないことだけは、自分自身の意志で決められる。

「……ああ」

柊は小さく頷き、絡められた澪の指をぎゅっと強く握り返した。

澪が少しだけ驚いたように柊を見る。

それから——これまで見せたことのないような、柔らかくて、ほんの少しだけ泣きそうな、綺麗な笑顔を見せた。

窓の外では、完全に日が落ち、夜の帳が村を包み込んでいた。だが、二人の間に引かれていた境界線はもうどこにもない。寄り添う二つの影だけが、温かなランプの光に照らされて、一つに重なって揺れていた。


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