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隣の彼女は異世界の妻でした  作者: 佐々木勇二


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6/13

村の朝と、真実への旅立ち

朝の空気は、まだ少しだけ焼け跡の匂いを残していた。

村は静かだった。

静かすぎる、と柊は思った。人の気配はある。どこかで仮設の鍋が鳴る音も、泥を洗うための水を運ぶ足音も、遠くで誰かを呼ぶ声もする。けれど、そのどれもが以前よりずっと小さい。

まるで、足元にある壊れものに怯えながら、そっと日常を置き直している。そんな朝だった。

家の外へ出ると、澪が先に共同井戸のところに立っていた。袖を少しまくり、重そうな水桶を持ち上げる横顔が、冷たい朝の光に透けて見える。

「起きたの」 「今」 「遅い」 「お前が早いんだろ」

柊がいつものように言い返すと、澪は少しだけ口元をやわらかくした。

ほんの少しだけだった。でも、それで充分だった。前みたいに、いちいち言葉のあとに妙な探り合いや沈黙が残らない。ただ同じ朝に立って、同じ冷たい水に触れている。それだけで、昨日までとは確かに違った。

柊は無言で手を伸ばし、澪から桶を受け取った。

澪も何も言わず、自然に手を離す。

それだけのことが、なぜだか少しだけくすぐったい。

「……今日は落とすなよ」 「落とさないわよ」 「昨日、危なかっただろ」

「あなたが急に横から持つからでしょ」 「手伝っただけだって」

「余計なことしかしないの間違いじゃない?」 「朝からひど」

澪がちらっとだけこちらを見る。睨んだわけじゃない。ただ、少しだけ呆れた顔だった。その飾らない顔を見て、柊はなぜだかひどく安心した。

朝食のあと、部屋の卓の上に置かれていた「それ」に澪が気づいた。

「……なにこれ」 柊が近づいて眉をひそめる。

「嫌な予感しかしないな」「同感」

見慣れない封筒と、二つの真新しい腕輪が並んでいた。滑らかな金属質の光沢を放ち、この村の素朴な技術とは明らかに異質な代物だ。

中に入っていたのは、紙切れが一枚だけだった。澪が読み上げる。

「『この腕輪を持ち、地図の記す大きな街の外れ――内山という私の仲間の診療所を訪ねてください』」

そこで二人は同時に顔を上げた。 「ヴェルナーだろ」 「ヴェルナーね」

ぴたりと重なって、二人とも少しだけ嫌そうな顔をした。

「相変わらず、言い方が腹立つ」

「ええ。丁寧なだけで、親切ではないのよね」

「昨日の夜まで、こんなの卓になかったぞ。……勝手に入ったな」

「不法侵入ね。相変わらず最悪」

卓の上で鈍く光る二つの腕輪。綺麗だが、迂闊に身につける気にはなれなかった。

「……とりあえず、今はやめておきましょう。何が仕込まれてるかわからないし」

「だな。しまっておく」

柊は腕輪を布で包み、警戒するように自分の鞄の奥底へと押し込んだ。

そのとき、戸を叩く音がした。

返事をする前に、レムが顔をのぞかせた。後ろにはゼンもいる。

「入っていい?」 「ああ」

レムはそっと中へ入ってきた。その両手には、黒い手帳が大事そうに抱えられている。焦げ跡の残る、革の手帳だった。

見た瞬間、柊の喉が少しだけ詰まる。

レムはそのまま卓の前まで来ると、手帳をそっと置いた。

「……これ、やっぱり、持ってきた」

小さい声だった。でも、逃げない声だった。

「昨日のあと、柊くんが……預けてくれたでしょ。だから、わたしが持ってたの。でも」

ゼンが頭をガシガシと掻きながら引き取る。

「こいつ、一晩中それ抱えて泣くかと思ったら、朝イチで『みんなで開けなきゃ』って言い出したんだよ。意味わかんねえけど、妙に頑固でさ」

「意味わからないことないでしょ」

レムが少しだけ口を尖らせる。泣きはらした目はまだ赤いけれど、その奥にある光は弱っていなかった。

「レンさんと、あの子……レンさんの中にいた相棒の、二人の言葉が詰まってるんだよ。私ひとりで閉じ込めちゃいけない。あの戦いを一緒に見届けた私たち全員に見てもらいたくて」

レムはそこで言葉を切ると、手帳の焦げた表紙をそっと撫でた。

「でも、手帳を開くのは……『その時』にしましょう」 「その時?」

柊が問い返すと、レムは小さく頷いた。

「うん。今ここで開けたら、レンさんがいなくなったことだけを確認して、そこで立ち止まっちゃいそうな気がするの。だから……レンさんが命を懸けた本当の意味とか、私たちがこれからどうするべきなのか、それをちゃんと見つけてから、みんなで開けたい」

柊と澪は顔を見合わせた。

「ちょうどいい、って言ったら不謹慎かもしれないけど」

柊が卓の上の手紙を指さした。

「俺たちがこれからどうするべきか。その目的地なら、たった今できたところだ」

澪がヴェルナーの手紙の内容を二人に手短に説明する。大きな街の外れにある、内山という診療所のこと。

それを聞いたゼンが、鼻で笑って壁に背中を預けた。

「ウチヤマ…なるほどな。そのでかい街に行けば、この胸糞悪い襲撃の理由も、ヴェルナーの野郎の思惑もわかるかもしれないってわけだ」

ゼンは柊を見た。

「だったら、俺たちも行くぜ。村の片付けだけして納得できるほど、俺は聞き分け良くねえよ」

「私も」 レムが手帳を胸に抱き直して、まっすぐに柊と澪を見た。

「村の復興は他の人たちでもできる。でも、レンさんの足跡を辿るのは、あの戦いを見た私たちにしかできないと思うから」

止める理由なんて、最初から一つもなかった。

柊は小さく息を吐いて、呆れたように笑う。

「……まあ、ヴェルナーの掌の上で大人しくしてるのも癪だしな。人数が多い方が腹立ち紛れに文句も言える」

澪もふっと口元を緩めた。 「そうね。準備ができたら出ましょう。四人で」

朝の光が差し込む部屋の中で、四人の意志が自然と重なった。

開かれなかった手帳と共に、本当の真実を見つけるための新たな旅が、ここから始まろうとしていた。

村を出てから数時間が経っていた。

焼け焦げた木々が点在する村の境界を越えると、景色は次第に見知らぬ深い森へと変わっていった。足元の土は湿り気を帯び、踏みしめるたびに微かに落ち葉の沈む音がする。

四人は無言のまま歩き続けていた。村を襲ったあの巨大な空の化け物と、喪われた命の重さが、まだ足取りに影を落としている。

やがて日が傾き始め、森の木々の間に差し込む光がオレンジ色に染まり出した頃。生い茂る葉の向こうに、ひっそりと佇む石造りの建物が見えてきた。

古いが、崩れてはいない。窓枠は丁寧に磨かれ、軒先には乾かした薬草が何束も吊るされている。風が吹くたびに、森の土の匂いに混じって、少し苦いような青い匂いが流れてきた。

「ここか」

柊が足を止める。手元の地図の印と、目の前の建物が一致していた。

だが、入り口へ続く石段の上に、黒い影が一つ座り込んでいた。

大型の黒い犬だった。 レムが肩をこわばらせる。

「え、えっと……こんにちは……?」 「犬に挨拶すんな」とゼンが言う。

「だ、だって見てるし」 「見てるな」 「すごく見てる……」

黒い犬は石段を下り、レムの前で止まると、その胸元に抱えられた手帳の匂いを嗅いだ。ひとつ、ふたつ。そこでぴくりと耳が動く。

「……反応した」澪が低く言う。「手帳に、だよな」

柊の背筋に、微かな悪寒が走る。 そのとき。 「クロ」

低く乾いた声がして、入り口の影から一人の男が出てきた。飾り気のない実用的な服を着た、刃物のように鋭い眼差しの男だった。

男はクロと呼ばれた犬の頭を一度だけ撫でると、四人を見た。最後に、レムの抱える手帳で視線がぴたりと止まる。

「……それ、どこで持った」

レムが息を呑む。柊は警戒しながらも、一歩前へ出た。 「レンのものです」

男の視線が柊に移る。深く値踏みするような目だ。けれど、敵意のような嫌な感じはしない。ただ、些細な嘘も見逃さないような底知れなさがあった。

「そうか」 短く言って、男は石段を一段下りた。 「名前は」

「柊です。こっちが澪。レムとゼン」 「内山だ」

それだけ名乗る。愛想はないが、拒んでもいない。

澪が手紙と地図を取り出した。「この地図で来ました」

内山はそれを見て、ほんの少しだけ眉を動かした。 「……あの白髪か」

「知ってるんですか」

「知ってると言うと面倒だな。関わりがあった、とだけ言っておく」

クロがまた立ち上がり、手帳に鼻先を寄せる。焦げた表紙を嗅いで、それから内山を見上げた。まるで、これだ、と告げるみたいに。

内山の表情が少しだけ変わった。 「なるほどな」 「何かわかるんですか」

柊の問いに、内山はすぐには答えず、建物の重い木の扉へ手をかけた。

「立ち話で済む内容じゃない」

きしんだ音を立てて扉が開く。中から、薬品と乾いた草の匂いが濃厚に流れてきた。外の冷たい風より、少しだけ温かい空気が四人を包む。

「入れ。その手帳を持ってきたなら、お前たちはもう引き返せない」

レムの指が少し強く、手帳の表紙を握りしめた。 けれど、離しはしなかった。

四人はそれぞれの決意を胸に、内山の診療所の中へ足を踏み入れた。


診療所の夜と、圧倒的な都市


内山に通された診療所の中は、外観から想像するよりもずっと広かった。

木の棚が壁一面に天井まで並び、瓶詰めの薬草や色とりどりの粉末が入った小瓶が、几帳面なほど整然と並んでいる。乾いた草の香りと、少し苦みのある薬品の匂いが鼻をくすぐった。

「座ってろ。話は食ってからだ」

内山の言葉に愛想はない。けれど、そこには外の冷たい風から彼らを匿うような、確かな温かさがあった。

四人は部屋の中央にある無垢材の卓を囲んで腰を下ろした。クロは少し離れた場所で、静かに伏せている。艶やかな黒い毛並みが、ランプの暖色を吸い込むように薄暗がりに沈んでいた。

やがて内山の手によって並べられたのは、湯気の立つ薬草のスープと、少し硬いが香ばしい丸パンだった。 「助かる……」

柊は素直に息をついた。温かいスープが胃の腑に落ちていく感覚だけで、強張っていた肩の力が少しずつ抜けていく。

レムがパンをちぎった拍子に、ひとかけらが床にぽろりと落ちた。

「あ、ごめん……」 思わず全員の視線が床に落ちる。 だが、クロは動かなかった。

犬なら間違いなく飛びついてもおかしくない距離だ。それなのに、床に転がったパンには目もくれず、クロの視線はただひとつ——卓の上に置かれたレンの手帳だけに真っ直ぐ向けられていた。

じっと。一度の瞬きもせず。 澪が小さく眉をひそめる。

「……やっぱり、この子、手帳に反応してる」

内山の手が一瞬だけ止まった。だが何も言わず、淡々とスープを口に運ぶ。その沈黙が、かえってクロの異質さを物語っていた。

食後、柊はこれまでの経緯を短く、だが正確に内山へ伝えた。

カルナの村が焼かれたこと。レイクの侵攻。そして、レンが空で散ったこと。

内山は黙って聞いていた。途中で口を挟むことも、表情を変えることもない。ただ、レンの名前が出た瞬間だけ、ランプの火に照らされたその目がわずかに細くなった。

柊が話し終えると、内山は短く息を吐いた。 「今日はもう休め」

「レンのことは」と柊が身を乗り出しかける。 「今は追うな」

内山が静かに、だが強い語気で遮った。

「追えば追うほど、深みに嵌る。今夜は寝ろ」

答えになっていない。だが、わざと濁しているのは誰の目にも明らかだった。

「奥の部屋を使え」 内山が立ち上がる。それで会話は終わりだった。

翌朝。 最初に起きたのは澪だった。

いつものことだ。柊より早く目を覚まし、顔を洗い、火を起こす。その順番と几帳面さは、焼けた村にいた頃から何一つ変わっていない。

だが今朝は、台所へ向かう前に足が止まった。 クロがいた。

昨夜は部屋の入り口で伏せていたはずの黒い影が、いつの間にか澪のすぐ足元にぴったりと寄り添っている。「……なに」

澪が小声で言う。クロは答えない。当然だ。ただ、金色の目でじっと澪を見上げている。

「どいて」 どかない。

澪は少しだけ眉をひそめて、クロの頭を一度だけ軽く押した。クロは押された分だけずれて、またすぐに澪の足元へ戻ってきた。

「……頑固ね」

呆れ半分で息を吐き、澪はクロをまたいで台所へ向かった。クロは忠実な影のように、そのままついてくる。

しばらくして、レムが目をこすりながら起きてきた。

「クロちゃーん、おいでー」 無邪気に両手を広げる。 クロ、無反応。

「え、ひどくない?」 ゼンが吹き出す。「完全に無視されてるな」

「なんで澪ちゃんにはついてくの」 「知らないわよ」

澪も少し戸惑った顔をしている。火にかけた鍋をかき混ぜながら、足元のクロをちらりと見下ろす。クロは澪の足元に座ったまま、やはり動かない。

その様子を壁際で見ていた内山が、ふっと小さく言った。

「……クロは、匂いだけで物を追ってるわけじゃない」

柊が顔を上げる。「どういう意味ですか」 内山は答えなかった。

「出る準備をしろ。街へ向かうんだろう」

それだけ言って、奥の部屋へ戻っていく。

「また教えてくれない」とレムが口を尖らせる。

「そういう人よ」澪が短く言い捨てる。

柊は内山の消えた扉を、少しだけ引っかかりを覚えながら見つめていた。

出発の準備をしながら、柊はふと鞄の奥を探った。

布に包んだ二つの腕輪が、ちゃんとそこにある。

「内山さん、これ何かわかりますか」

柊が腕輪を取り出して見せると、内山は一瞥して短く言った。

「ヴェルナーからの支給品だな。デバイスみたいなものだ。遠距離の会話はできないが、チャンネルを合わせれば情報は受け取れる。支払いにも使える。都会の連中はたいていつけてる」

「お金が入ってるの?」

澪が身を乗り出した。生活を預かる者としての条件反射だ。

「意識を向ければわかる」

言われた通り、柊が自分の腕輪をはめ、意識を集中させてみる。すると、網膜の裏側に直接映像が投影されるように、ぽん、と青い数字が浮かび上がった。

「……うおっ」 思わず声が出た。

「見せて」澪も自分の腕輪を装着して確認し、目を丸くする。「本当だ」

レムとゼンも横から覗き込んできた。 「いいな、それ」ゼンが口笛を吹く。

柊は安堵とともに天を仰いだ。

「俺たち、ちゃんとエージェント扱いされてたんだな……。最初に言えよあの爺さん」

「変なところで堅実ね」澪が少し笑う。

その笑顔を見て、柊は胸をなでおろした。村での惨劇の後、澪の表情はずっと張り詰めていたが、ここへ来てようやく少しだけ空気が軽くなっている。完全にではないが、昨日よりは確かに。

内山の診療所を出発し、森を抜けて歩き続けること数時間。

街が近づくにつれ、道は少しずつ石で舗装され、広くなっていった。行き交う人の数が増え、奇妙な形をした荷車の駆動音が風に混じり、木々の向こうに巨大な建物の輪郭が蜃気楼のように見え始める。

そして、森の境界を抜け、街の端に足を踏み入れた瞬間。 「……でかい」

柊は思わず立ち止まり、首が痛くなるほど上を見上げた。

彼らの視界を埋め尽くしたのは、天を衝くような大競技場の外壁だった。ただの壁ではない。壁面そのものが巨大なスクリーンとなっており、極彩色の映像が目まぐるしく走っている。さらにその上空百メートルには、炎を纏った巨大な竜が悠然と旋回していた。

鱗の一枚一枚が別の色で光り、羽ばたくたびに、熱波のような風が路地にまで届いてくる。

「あれ、本物じゃねえ」ゼンが目を細めて上空を睨む。「擬幻ホログラムだ。誰かの生命力をコアに注いで、共鳴尖塔から拡散してる。触れれば消えるが、熱は本物みたいに感じるよう設定されてるんだ」

「どこで覚えたのそういう知識」レムが呆れたように聞く。

「覚える?理屈だろそんなの」

観客席には何万人もの人々がひしめき、全員の腕のデバイスが一斉に同じ色で明滅している。静かな村から来た四人にとって、それは暴力的なまでの情報量とスケールだった。

圧倒されている四人をよそに、内山が短く告げた。

「俺は俺で準備を済ませる。時間になったら、またこの広場に集まれ」

それだけ言うと、クロを連れてネオンの眩しい人混みへとあっさり消えていった。

レムがポカンと口を開けて見送る。「……引率、ゼロだね」

「最初からそういう人よ」澪が言う。 「慣れた」柊も頷く。

残された四人は、競技場に併設された広大な商業エリアへと歩き出した。

ゼンとレムは物珍しさに目を輝かせ、すぐに奥のエリアへと吸い込まれていった。

柊と澪は、少し離れた広場の端をゆっくりと歩いた。

澪は近くの店を覗きながら、真新しい服と、日差しを遮るつばの広い帽子を手に取って合わせていた。鏡の前で帽子を傾けるその横顔は、村で生き死にの境界に立っていた頃とは違う、年相応のやわらかさがあった。

柊はその様子をしばらく眺めてから、意を決して、こっそり隣の装飾品の店へ走った。

「澪」

店から出て、歩き出そうとする澪を呼び止め、柊は不格好に包まれた小さな箱を差し出した。

「ほら」 「なにこれ」 「今日、誕生日だろ」

澪が目を丸くして、完全に固まった。 「……教えてないよ」

「そうだっけ。まあいいじゃん」

柊は照れ隠しに頭をかきながら、わざと視線を逸らした。本当は、村で一緒に暮らしていた時の、洗い物をしながらのふとした会話の端から拾って、ずっと覚えていたのだ。

澪は震える手で包みを開けた。

中には、彼女がさっき見ていた新しい服によく似合う、小ぶりで上品な髪飾りが一つ入っていた。

しばらく、澪は黙ったままそれを見つめていた。

「これ。高いよね……お金、全部使ったの?」 「いや、守衛の稼ぎもあったし」

余裕ぶって誤魔化そうとする柊だが、実はさっき支給されたばかりの腕輪の残数を、この数分で綺麗に使い果たしていた。一番似合うものを買ってやりたかった。後先のことなど考えず、ただそれだけだった。

澪は少しだけ俯いた。

帽子で表情は隠れていたが、ぽつりとこぼれたその声は少し震えていた。

「馬鹿ね……」 「馬鹿ってなんだよ」 「馬鹿は馬鹿よ」

澪は涙を隠すように帽子を深くかぶり直した。でも、手の中の髪飾りは、絶対に落とさないように両手でしっかりと握りしめていた。

指定された時間になり、広場の時計塔の下に内山が戻ってきた。クロの背には小さな荷物がいくつか括り付けられている。

ゼンとレムも両手いっぱいに買い食いの包みを抱えて合流した。内山は四人が揃ったのを確認すると、レムとゼンを真っ直ぐに見据えた。

「お前たちは、この都市にある禁書庫を目指せ。そこで『カイ』という人物を訪ねろ」

「禁書庫?」ゼンが怪訝そうに眉をひそめる。

詳しい理由は語られなかった。だが、その低い声には、従うべき確かな響きがあった。

「ここから先は、二手に分かれるってことだな」柊が言うと、内山が顎で頷く。

その時、澪が自分の腕から腕輪を外し、レムの手にぐっと握らせた。

「澪さん?」 「これ、持っていきなさい。道中の足しになる。お互いの確認もできると思う」

「でも、そっちの分は……」 「大丈夫よ。柊の腕輪があるから」

澪が当然のように振り返り、柊を見る。 柊の顔が、一瞬引きつった。

澪が少しだけ不思議そうな顔をしたが、深くは追求しなかった。

ゼンが腕輪を受け取り、軽く手を上げる。

「ありがたく使わせてもらうわ。じゃあな」

「気をつけてね」レムが大きく手を振る。

二人の姿が、極彩色の人混みの向こうへ消えていく。

残された柊の懐には、異世界に来て一番冷たいすきま風が吹いていた。

だが、隣で澪が、プレゼントしたばかりの髪飾りにそっと触れながら小さく息をついた。

その仕草を見た途端、金額の痛みが少しだけ遠のいた。

後悔していない。全然していない。強がりでもなんでもなく、柊は心からそう思った。


狂乱の都市と、夜を鎮める歌


レムとゼンの姿が、極彩色の人混みの向こうへ完全に溶けて見えなくなるのを、二人はしばらく黙って見送っていた。

背後にそびえる巨大な競技場の外壁では、擬幻の竜がなおも空を旋回している。鱗の光が壁面を滝のように流れ、その強烈な光を浴びるたびに、周囲を歩く観客たちの腕輪が一斉に明滅した。

「……すごい街ね」 澪が小さく呟いた。

感心しているようにも聞こえたが、その声音にはどこか硬い芯があった。

柊は隣を見た。澪の視線は頭上の派手な竜ではなく、その下に広がるアリの群れのような観客席へと向けられていた。

「どうした」 「……音」 短い返答だった。 「さっきから、少し変」

柊も耳を澄ませた。歓声、笑い声、足音、店先のけたたましい呼び込み。巨大都市ならではの雑多な音が渦を巻いている。

「気のせいじゃないか?」

澪は無意識に、腕輪を外した自分の手首へ触れた。

数歩先を歩いていた内山の足が、ぴたりと止まった。クロも同時に耳を伏せ、喉の奥で低く警戒の唸り声を上げる。 空気が、明確に変わった。

競技場の方角から、歓声とも悲鳴ともつかない大きなどよめきの波が押し寄せてくる。さっきまでの熱気とは明らかに質が違う。ざわめきではなく、何かが根本から崩れ落ちるような音だった。

内山が短く言った。 「……始まるのが早すぎる」 「何がです」

誰かが走り出した。それにドミノ倒しのように押され、周囲の人間も一斉に無秩序な方向へと動き出す。

「ここを離れる。レム達なら大丈夫だ」 内山の声は低く、一切の迷いがなかった。

柊は澪の腕を掴んで、人波に逆らうように路地へと潜り込んだ。

一方、競技場のすぐ近くでは。

熱気を帯びた人波のど真ん中。レムとゼンはそこにいた。

巨大な外壁は、近くで見ると建物というより一つの空だった。壁面いっぱいに映像が走り、剣を振るう選手たちや炎を吐く幻獣が次々と映し出される。見上げるだけで首が痛くなる高さを、火炎の竜が悠々と旋回していた。

「……すごいね」 レムは足を止めたまま、半ば呆然と呟いた。

そのゼンの目が、ふと細められた。 「……妙だな」 「何が?」 「光だ」

レムは言われて、周囲の観客たちの腕輪を見た。さっきまで思い思いの色でばらばらに見えていた光が、今はなぜか一色に揃い始めていた。色も、明滅の間隔も、その強さも。

その時、競技場の内側からひときわ大きな歓声が上がった。外壁の映像が切り替わり、周囲がどっと沸く。

レムのすぐ前にいた女が、何の前触れもなく、隣で笑っていた男の顔に爪を立てたのだ。

男は怒鳴るでもなく、満面の笑みを浮かべたまま女の腕を振り払う。そして、その笑顔のまま、今度は自分の前にいた人間を力任せに突き飛ばした。

周囲の腕輪の光が、一斉に不気味な赤に濁った。誰かが笑い、誰かが叫び、誰かが意味もなく走り出す。理性が完全に吹き飛び、本能だけが暴走した異常な空間。

ゼンがレムの腕を強く掴んだ。 「下がれ、レム!」

その声が終わるより早く、競技場の内側から本物の悲鳴が突き刺さった。入場ゲートが内側からの圧力で割れた。人が雪崩のように溢れ出してくる。走る。ぶつかる。掴む。引き倒す。

「走るぞ!」

二人は路地を駆けた。狂気に当てられた人の波が、すぐ後ろから押し寄せてくる。怒号はない。だが、足音だけが不気味なほど揃っていた。それが余計に恐ろしかった。

曲がり角を抜けた先で、一人の少女がレンガの壁に背を押し当てていた。両手で喉元を強く押さえ、小刻みに震えている。暴徒の群れが三方から迫っていた。

レムは少女の腕を見た。群れの腕輪が赤く揃って明滅する中、この子の腕輪だけが光を失い、冷たく沈黙していた。

「おい、そこ!」 ゼンの鋭い声に、少女が怯えたように振り向く。

「走れるか!」

ゼンは答えを待たなかった。群れの側面に強引に割り込み、肩を使って一瞬の隙間をこじ開ける。

「今だ!」 少女が走り出した。レムがすかさず並走し、その細い手を強く引く。

三人は入り組んだ裏路地を抜け、都市の端にある古びた廃屋の扉を蹴り開けた。中へ滑り込み、ゼンが素早く扉を閉めて体重をかけ、外を警戒する。

月光が、床に積もった埃を白く照らしていた。

窓の外では、暴走した共鳴尖塔の光が、街の空を血のような赤に染め上げていた。

ゼンは扉に背を預けたまま、窓の隙間から外の気配を探っている。レムは膝を抱えた少女の隣に座り、自分の呼吸がひどく浅くなっていることにようやく気づいた。

しばらくして、外の足音が少しずつ遠ざかっていく。

ゼンが小さく息を吐いた。「……行ったか」

レムは隣の少女を見た。膝を抱えたまま、まだ小刻みに震えている。

「……大丈夫?」

少女は答えなかった。ただ、怯えた小動物のように、こくりと小さく頷いた。

「名前、聞いてもいい?」 少し間があった。 「……タウ」

かすれた、消え入りそうな声だった。

レムは優しく頷いた。「私はレム。こっちで立ってるのがゼン」

ゼンは振り返らなかった。外を警戒したまま、途中でくすねてきたらしいパンをレムとタウの膝元に放り投げる。

タウが受け取る。少し、迷う。

レムは懐から、黒い手帳を取り出した。

膝の上に置いて、表紙をそっと撫でる。焦げ跡のざらつきが指先に引っかかる。

タウの視線が、その手元で止まった。 「……それ」 言いかけて、止まる。

「見る?」 レムが聞くと、タウは少しだけ迷ってから、そっと頷いた。

レムは手帳を開いた。荒々しい乱暴な字と、定規で引いたような整った字。二種類の筆跡が交互に並んでいる。

「レンの手帳。中に、もう一人いたの。彼らはいつも、こうして手帳の中で話してた」

タウが覗き込んだ。ページをゆっくりめくる。

「……最後の、読んでいい?」 レムは頷いた。

タウは、かすれた声で音読した。 「『彼は行きました。自分の足で。』」

沈黙が落ちた。 タウの大きな瞳から、ぽろりと涙が落ちた。

「……羨ましい」 震える声だった。 「自分の足で行く場所があったんだね」

タウは続ける。膝を強く抱え込み、声を殺すようにして。

「お父さんが消えてから、ずっと自分がどこにいるかわからなかった。ただ怖くて、誰かに合わせて、自分が消えないように歌ってただけ」

「……歌いたくて、来たんだ。この街に」 レムが顔を上げる。

「夢かもしれない、でも誰かに届けたくて」 タウは膝を見たまま続けた。

「……私も、自分の足で行きたい」 今度は震えていなかった。

やがてタウが顔を上げた。涙の跡が月光に白く光っている。 「……決めた」

その声は、さっきより少しだけ芯があった。

「歌い手になりたい。怖くて歌うんじゃなくて、誰かに届けるために歌いたい。そうでもしないと、心が持たない気がするの」

「タウの歌、聴きたいな」 レムが真っ直ぐに目を見て言った。

その時。 「おい」

階下にいたゼンの声が落ちてきた。低く、短く、ひどく張り詰めた声。

「囲まれた」

裏口を蹴り開けた。

腕輪を赤く光らせた暴徒たち。赤い瞳。完全に理性を失っているはずなのに、彼らの動きは統率された軍隊のように整然としていた。

三人の前へ、ひとつの影が音もなく落ちた。

漆黒の外套。月光を背に、一人の男が立っていた。 「下がっていろ」

男が剣を抜いた。金属音がしなかった。

舞うように動く。一人ずつ。刃の平で触れるたびに、暴徒が弾き飛ばされる。

斬れていない。峰打ちですらなく、衝撃だけで無力化している。

ゼンが眉をひそめた。「……斬ってねえぞ」

男は答えない。ただ、無駄のない動きで迫る群れを捌いていく。

レムが気づいた。「……血?」

外套の内側が、静かに赤く濡れている。それでも男は止まらない。もう一歩踏み込む。だが、その動きがわずかに遅れる。

ゼンの顔が歪む。「おいっ、無理してんだろ!」 返事はない。

最後の一人に剣の平が触れる。暴徒が崩れ落ちる。 静寂。

男の足が止まった。次の一歩が出ない。剣先が、わずかに下がる。

レムが叫ぶより早く、男の膝が石畳に折れた。

「……なんで」

でも、その横で、タウが震えながら立っていた。

逃げていない。喉を震わせ、声を出そうとしている。

——触れれば、止まる。 タウは自分の喉に両手を当てた。

歌は、空気を震わせ、人に触れるものだ。

レムは手帳を抱きしめた。 「……私も」

喉が震えた。足がすくむ。それでも、顔を上げる。

「私も、強くならなきゃ。レンの矜持を汚さない」

その瞬間、タウの最初の一音が、夜気の中にこぼれ落ちた。

弱い声だった。けれど、決して消えない、透き通った音。

ゼンが息を呑む。「……なんだ、これ」

レムは涙を浮かべたまま、タウを見る。タウは歌い続ける。止めない。目を閉じ、ただ祈るように歌い続ける。

「……戻って」 最後の言葉が、歌に乗せてこぼれた。

「今だ。あの人も連れていかなきゃ」 レムが弾かれたように立ち上がった。

その時、曲がり角の向こうから新たな足音が響いた。まだ歌の届いていない別の群れだった。

ゼンが立ち止まった。手にした鉄パイプを強く握り直し、レムたちとは逆方向を向く。

「おとりになる。お前らはあの人を連れて逃げろ」 「ゼン!」 「行け!」

振り返らなかった。そのまま、新たな群れの方へ怒号を上げて駆けていった。

その瞬間、高い屋根の上から別の影が舞い降りた。

「……やれやれ。隊長の向こう見ずにも困りものだけど、この子たちの意地も相当なものね」

ダリだった。手際よく膝をついた剣士——ブラスの肩を貸し、レムたちを路地の奥へと促した。

レムはブラスの反対側の肩を抱えた。男の身体はひどく重い。それでも、絶対に離さなかった。

手帳が胸の内側で、まだ確かな熱を持っていた。


森の不協和音と、海辺の青き静寂


あの競技場の狂乱から、数日が経っていた。

狂乱に包まれた巨大都市の外縁を抜け、柊たちは再び鬱蒼とした森の小道へと足を踏み入れていた。

背後で空を赤く染めていた都市の喧騒が嘘のように、森の中は静まり返っている。木漏れ日が落ちる土の道を、先頭の内山とクロが歩き、その後ろを柊と澪が続く。

澪はまだ、競技場で流れてきた低い振動を耳の奥に残したままだった。柊はそれに気づいていたが、あえて何も言わなかった。ただ、歩幅をいつもより少しだけ狭くしていた。

その時だった。 先頭を歩いていたクロの足が、ぴたりと止まった。

「どうした」 内山が振り返るより早く、柊も道の異変に気づいた。

土と緑しかないはずの道のど真ん中に、ひどく場違いなものが置かれている。

シンバルを持った、猿のブリキ人形だった。

傾いたまま静止しているその姿は、誰かがうっかり落としていった玩具のようにも見える。だが、クロは前へ出ようとしない。低い姿勢のまま、毛を逆立てて喉の奥で唸っている。

「クロが嫌がってる」澪が息を潜めて言った。「近づかない方が——」

柊が警戒しながら一歩踏み出した、その瞬間。

カシャン。 シンバルが、自ら一回だけ鳴った。

「あーっ、クロちゃんだ」 木々の奥から、妙に間延びした声が降ってきた。

「女の子もいる。すごいすごーい。歓迎パーティだよ。準備するの、大変だったんだからぁ」

巨木の陰から、ぬらりと人影が這い出てきた。長身の男だった。色の薄い服を着たその顔には生気がなく、焦点の合っていない両目が、真っ直ぐにクロを見下ろしている。

「先生。ちゃんと連れてきてくれたんだ」

内山の目が、すっと細く研ぎ澄まされた。 その瞬間。

シャンシャンシャンシャンシャン!

四方八方から、一斉に鼓膜を破るような音が鳴り出した。

木の根元、岩の陰、茂みの奥。大量のシンバル猿、太鼓を叩くクマ、ぜんまい仕掛けの兵隊人形が、一斉に姿を現し、狂ったような速度で手元の楽器を打ち鳴らし始めた。

「うるさっ!」柊が顔をしかめ、耳を塞ぐ。 だが、澪の反応は違った。「……っ、何、これ……!」

澪は激しく顔を歪め、両手で耳を塞ぐようにしてその場にうずくまった。単なる大音量への拒絶ではない。その不協和音の下に蠢く、粘り気のある人工的な周期。都市のホテルで彼女を暴走させたのと同じ、脳の奥の神経を直接引っ掻き回されるような「異常な振動」に対する、強烈な嫌悪と吐き気だった。

「澪!」

柊が駆け寄ろうとした瞬間、男の背後の土が不自然に盛り上がった。金属の光沢が蛇のようにうねって向かってくる。

「っ、スリンキー?なんでだよ!」

巨大化した金属のばねが弧を描き、内山の肩へ向かって伸びた。柊が咄嗟に間に入り、腕で受ける。ギリギリと肉に食い込むように締め付けてくる。固い。

さらに別の一本が、うずくまる澪の足元へ這う。 「澪、右!」「わかってる……っ!」

澪が不快感に耐えながら跳んで躱した瞬間、焦点の合わない目をした男が走り込んできた。両手には、先端が丸まった安っぽいカメレオン棒。それをビュン、と無造作に振るう。

クロが耳を伏せ、踏み出せずにいた。体に青い光が纏わる。

「クロ、無理しなくていい。下がってろ」

内山が言うと、男が顔を歪めて笑った。「クロちゃんかわいそうじゃん。先生」

だが、内山は男を見ていなかった。クロも同じだ。

二人の視線は、男のさらに後ろ——木の枝にとまっている小鳥に向けられていた。

極彩色に発光する羽。この自然の森には絶対に存在しない、人工的な鳥だった。

「澪」内山が低く言った。「この人形、振動がどこかから来てないか」

澪は顔を上げ、嫌悪感で息を乱しながらも、鋭く目を細めて周囲の「音」を探った。

「……来てる。おもちゃからじゃない。全部、同じ気持ち悪い周期で……あそこから!」

澪の視線が、男を越えて小鳥を射抜いた。

その瞬間、男の焦点の合っていない目が初めて大きく揺れた。

「柊、あの鳥を驚かせて。今すぐ!」 「は?」 「いいから!」

柊は理由を聞く前に、足元の石を掴み、枝へ向けて力一杯投げつけた。石は当たらなかったが、小鳥が驚いてバサリと羽を広げた。

男の動きが、通信不良の映像のようにカク、カク、と不自然にバグった。スリンキーの軌道が乱れ、カメレオン棒が空を切る。

「今だ!」

澪が踏み込んだ。不快な音の波を強引にかき分け、男の胸元へ振動を一点に叩き込む。

ドンッ、とくぐもった衝撃が走り、男が大きくよろめいた。 「もらった!」

柊が腕に食い込んでいたスリンキーを強引に引き千切り、がら空きになった男の胴体へ鉄パイプのフルスイングを叩き込む。

鈍い音が響き、男の身体が吹き飛んで木の根元に激突した。

「終わったか……?」 柊が肩で息をしながら近づこうとした、その時。

男の身体が、音もなく崩れた。

ぱらぱらと灰のように解けていく。腕が、胴が、顔が。中身など最初からなかったかのように、服と人の形をした残骸だけがそこに取り残された。

木の枝から、極彩色の小鳥が飛び立っていた。木漏れ日の中で一瞬だけ不自然な光の尾を引き、そのまま森の奥へと滑るように消えていく。

クロは男の残骸には目もくれず、小鳥の消えた方角をいつまでも警戒するように睨みつけていた。

内山は何も答えなかった。ただ静かに目を細め、小鳥の消えた方角を見ていた。

内山が前を向いたまま言う。 「急ぐぞ」

「レンさんがやってたのと、似てるな」

澪は前を見たまま、小さく頷いた。「似てる。でも、向きが逆よ。味方にするのと、縛るのと」

柊はしばらく黙った。それから、少し前を歩く内山の背中に声をかけた。

「内山さん。レンさんの手帳、何かあるんですか」

内山は振り返らなかった。

「……どうして、物が動かせたんだろう」

少し間があって、内山が短く返した。

「振動物理学。手のひら一枚で、世界の機械と位相を合わせる理屈だ」

「同じなのだろうか…さっきの男とも」

「同じだ。だが、君の師匠のそれは、次元も理論も、全く異なる」

内山は少し黙ってから口を開いた。それは躊躇だったのかもしれない。

「あれの呼び方があるとするなら」

「輪廻…」

呟いたのは澪だった。

内山はそれ以上、何も言わなかった。


不気味な森を抜け、次の村が見えてきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

最初に気づいたのは匂いだった。

潮の匂い。それから、草と土が混ざった青い匂い。そして、かすかに硫黄に似た、地熱特有の温かい匂い。

「……海だ」 柊が思わず呟いた。レンと見た、あの遠い景色と重なった。

鬱蒼とした木々が途切れた先に、視界が一気に開けた。 息を呑んだ。

島だった。大小の島々が、陽光を弾く海に浮かんでいる。緑の稜線が霞の中に幾重にも重なって見え、その間を縫うように白い蒸気が立ち上り、光を受けて虹色に滲んでいる。海面は穏やかで、砕けた光が水面をどこまでも走っていた。

「……きれい」 澪が、ごく自然に言った。柊は安堵した。

澪は景色を見ていた。先ほどまでの森での強張りが嘘のように、いつもの整った横顔からすっと力が抜けている。潮風に髪を揺らすその目は、とてもやわらかかった。

村は斜面に沿って建てられていた。石畳の道が緩やかに海へ向かって下り、その両脇に白い壁の家が並んでいる。軒先に洗濯物が翻り、どこかで子どもの笑い声がした。

「思ったより、普通の村だな」 柊が言うと、内山が短く返した。「表向きはな」 それだけだった。

クロは先を歩きながら、時折立ち止まっては二人を振り返る。急かすでもなく、ただ確認するように。

「クロ、待ってくれてる」澪が小さく言った。

澪はそれだけ言って、また景色の方へ視線を戻した。石畳を下りながら、澪の歩幅がいつもより少しだけ広い。気づいているのかいないのか。ただ、足取りが軽かった。

村の入口近くで、年配の女性が花に水をやっていた。顔を上げてこちらを見ると、にっこりと笑った。

「旅の方かい? ゆっくりしていきなさい」

「ありがとうございます」 澪が素直に頭を下げた。

「そうだろう」女性は誇らしそうに言った。「ここの蒸気と光は、世界一だよ」

内山は村に着くと、すぐに一人で研究棟の方へ向かった。

「俺は用がある。お前たちは村を見て回れ」

研究棟の一室は狭く、棚という棚に資料が積み重なっていた。窓の外では地熱の蒸気が白く立ち上り、部屋の中まで薄く湿った熱を運んでくる。

机の前に座った少女は、見た目より静かな目をしていた。

「久しぶりだね、先生」

声は子供のものだが、響きが違う。内山はいつものように、居心地の悪さを隠せない。

「生きてたか」

「なんとかね」博士は自分の小さな手を見つめた。「この体、まだ馴染まないけど……命はつながってる」

内山は椅子を引いて腰を下ろした。

「クロのことも聞きに来た」

「やっぱり」 短い沈黙のあと、博士は机の上の資料を一枚指で軽く叩いた。

「あの子は島の最初の試験体。不完全故に、島の組織が干渉できない。それが強みでもあり、厄介なところだ。回収対象になってるよ。あなたも込みで」

内山は黙って頷いた。

博士は続けた。声は淡々としているが、どこか疲れた響きがあった。

「彼女の犬だったからな。最初は偶然だった。逃げる時に、あなたに託すと。『闇の干渉を受けない人間』として」

「島の組織は今、急いでいる。都市高層からの照射。競技場のパニック、あれはテストだが、個体の選別と収集も兼ねている。転送系だけでは数も足りない」

「独立して、利権と対峙する村は、連中にとっても目障りだろう。いずれここにも来るだろう」

「都市部か」

「タワーの所有者は会長だ。おそらくは」

内山が視線を外したその時、部屋の隅で古い椅子の軋む音がした。

いつの間にか、そこに白髪の紳士が座っていた。仕立てのいい灰色のスーツ、柔らかな微笑み。手には湯気の立つカップがある。

「……相変わらずだな。友よ」

ヴェルナーが穏やかに答えた。「邪魔をしないつもりでしたので」

「生贄の準備か」声が低く沈む。

ヴェルナーはカップを膝の上に置いたまま、静かに首を振った。

「生贄を選ぶのは、あの子たちです。私は……ただ、彼らを見つけただけ」

内山は扉へ向かった。取手に手をかけた瞬間、ヴェルナーが静かに続けた。

「内山先生…」振り返らない。

「あの二人は、揃わなくていいんです」

「揃わないまま、一緒にいられるかどうか。それが、問いです」

扉が開いた。

廊下には、地熱の白い蒸気と、遠くから聞こえる柊と澪の言い合いの声が、かすかに届いていた。

坂を上りきった瞬間、二人の視界が開けた。

「……わあ」 声が出た。澪だった。

海だった。

さっき村に着いた時に見た景色とは、角度が違う。ここからは島全体が見渡せた。大小の島が霞の中に重なり、地熱の蒸気が白く立ち上る岩場の向こうに、光が水面を跳ねて遠くまで続いている。

風が吹いた。蒸気が流れて、光の角度が変わった。

「……本当に、世界一かもな」 柊が呟いた。

「認めるの、早いわね」 「いいもんはいいだろ」

澪は答えなかった。ただ、その目がやわらかいままだった。

ベンチがあった。そしてそこに、先客がいた。

長身の青年だった。ベンチに片足を乗せて、膝の上に腕を置いて、遠くの海を見ていた。姿勢が悪いのに、なぜか絵になっていた。

「この景色であのベンチを独占できるなら、ああなるのも仕方ない…」柊が小声で言う。

「うん」澪も小声で返した。「邪魔するの悪いかな」

二人でしばらく立っていると、青年がこちらに気づいた。目が合った。

それから、ゆっくりベンチから足を下ろした。立ち上がって、自分の袖でベンチの座面を軽く拭いた。少し困ったような顔をしながら。

「……行儀悪かった。ごめんね」

「いや、こちらこそ」柊が返す。「先に座ってたのに」

「とんでもない」青年は少し笑った。「どうぞ」

「景色っていいね…」

澪が海を見た。「……はい」

「蒸気と光の重なり方が、時間によって変わるんだ。今がちょうど一番いい」

青年は目を細めて、遠くを見ていた。本当に見ていた。こちらに何かを求めているわけでも、話しかけているわけでもなかった。ただ、綺麗なものを綺麗だと思って、そこに座っていた。

三人で、しばらく同じ海を見ていた。風が吹いた。蒸気が流れて、光が変わった。「あ」

青年が小さく言った。「今だ」

風が止んで、光が落ち着いた頃、青年は立ち上がった。一度俯いたように見えた。

「じゃあね」

立ち上がりながら、青年はポケットから何かを取り出した。無意識な仕草だった。小さな立方体が、光を受けてきらりと光る。指で一度だけ弾いて、握りしめる。

それだけ言って、坂を下りていった。足音が遠くなる。

坂を下りながら、柊はまだ少しざわついていた。

「……あの人、何者だったんだろうな」 「さあ」

澪は短く返した。それだけだった。だが、その声がいつもより少しだけ遠い。

「気になるのか」 「別に」

「顔、見てたじゃないか」 「景色を見てたの」 「どっちを」

澪が柊を見た。少しだけ目が細い。「うるさいわよ」

石畳を下りながら、村の中を歩いた。昼を過ぎた時間で、通りには人が増えていた。干物を売る店、薬草を束ねている老人、井戸端で話し込む女性たち。どれも穏やかで、急いでいない。

「のんびりしてるな」

澪は視線を遠くへ向けた。村の外れに、背の高い塀がある。その向こうに、武装した男が数人立っていた。村の雰囲気とは少し違う、張りつめた空気をまとっている。

近づいてみると、男の一人がこちらを見た。警戒した目だったが、敵意はない。

男は塀に背を預けたまま、話し始めた。

「この村は独立してる。燃料の自給ができてるから、都市の利権に頼らなくていい。地熱と、海の藻から作ってる。それがここの強みだ」

「強みってことは、邪魔される側でもあるってことか」

男が柊を見た。少しだけ目が鋭くなる。

「わかってるじゃないか」

男は淡々と語りだす。「去年、研究棟に火をつけられた。一昨年は、村の井戸に何かを混入された。やつらはじわじわやってくる。一度に潰すんじゃなくて、少しずつ弱らせていく」

「それでも、ここを守るんですね」

男は少し間を置いた。 「ここが好きだからな」

「ありがとうございました」 澪が頭を下げると、男は短く頷いた。

「気をつけて行けよ。この辺、最近よそ者が増えてる」

夕方、内山が戻ってきた。 クロが先を歩いて、宿の部屋の扉を器用に押し開ける。

「話がある」 内山は卓の前に座った。柊と澪も向かいに座る。

島の組織。そしてその裏と表。照射実験のこと。「都市へ行く必要がある」

「わかった」 柊は即答した。澪も頷いた。

内山は少し間を置いてから、付け足した。 「危険だ。今まで以上に」

クロが内山の足元に寄る。内山はその頭を一度だけ撫でた。 「明日、早く出る。寝ておけ」

扉が閉まった。

クロは柊と澪の間に座り込んで、窓の外を見ていた。夜の海が、遠くに光っている。

翌朝、村を出たのは夜明け前だった。

村を抜けると、道は森へ続いていた。朝の空気が冷たい。足元の草が露で湿っている。クロは先を歩きながら、時折立ち止まって全員の歩調を確かめる。

内山が先頭。クロがその横。柊と澪が後ろに並んで歩いている。

「……都市まで、どのくらいかかるの」 柊が聞くと、内山が短く返した。

「今日中には着く」

森を抜けて、開けた道に出た頃だった。 「あれ」

澪が足を止めた。 前方の道に、人が立っていた。

長身。見覚えのある後ろ姿。

「……さっきの」 柊も止まった。

内山の目が細くなる。クロが低く身を沈め、喉の奥で唸り始めた。

青年が振り返った。 さっきと同じ顔だった。さっきと同じ目だった。

青年が言った。「おおっ奇遇だね」

柊が一歩前に出た。「通してくれ」

「うん」青年は頷いた。「通してあげたい」

右手が上がった。手のひらを表にして、縦に一度、振った。

掌の上で、白い立方体が二つ、音もなく浮かび上がる。

カチッ、カチッ。

次の瞬間、青年の顔から、さっきまでの色が全部消えた。「ふぁっひぁあ〜」

声が全く違う。空中からからつららが迫る。

「散れ!」

内山が叫ぶより早く、柊は澪を引いて横へ跳んだ。地面に氷の破片が散らばる。

青年——男が、ダイスを弾いた。くるり、と高く回転して落ちてくる。出目を確認する。

次の瞬間、男の足が地面を離れた。空中に立っている。重力を無視した、恐ろしいほど「不自然な」浮かび方だった。

「柊」内山が言った。「前に出ろ。俺と挟む」

柊は鉄棒を構えて踏み込んだ。「それ」が空中から急降下してくる。速い。だが軌道が読める。柊は半歩ずれて受け流す。 「よし——」

地面から氷の棘が突き出した。出目が変わった。攻撃の種類が切り替わっている。

内山が横から斬り込む。男が躱す。クロが低く回り込み、背骨に沿って青銀が走る。骨格が変形し、前肢が鋭く伸びる。男の腕を弾き飛ばした。

ダイスをまた弾く。出目を見て、舌打ちをする。

肩の関節が、あり得ない方向へ折れた。そのまま腕が、まるで鞭のように柊へ向かって伸びてくる。

「っ!」咄嗟に跳んで躱した。伸びきった腕が、石畳を抉る。だが。

「いてえええやぁあ!」 叫んでいるのは、男だった。目が赤い。

腕が戻ってくる。荒い息で肩を押さえ、膝を折りかけた。顔が歪んでいる。本気で痛そうだった。

「……本人も嫌がってる」 澪が低く呟いた。 「出目によっては、自分も苦しむ」

柊は男を見た。たしかにそうだ。狙って腕を伸ばしたわけじゃない。出目がそうだったから、嫌々やった。その顔だった。

出た目を見て、表情が崩れた。 次の瞬間、ダイスは再び走り出した。また叫び。しかしそれは言葉であった「俺はイカレだぁあああ」

攻撃しない。振り返らない。叫びもしない。ただ、全力で遠ざかっていく。

「なんで」 「追うな。距離を詰めるな」男が叫ぶ「だがなぁああああ」

「あいつが遠ざかるのは、次の出目が出るまでの時間稼ぎだ。追えば近距離で受けることになる。どんな目が出ても」

遠くで、男が立ち止まった。肩で息をしている。また手を縦に振る。出目を確認する。

「勝負に女を巻き込むなぁあああ」 突然、空気が弾けた。 周囲がバチバチと音を立てる。

「……わかった」 内山が低く言った。

「何が」と柊が聞く。 「六の単独目だ。あの時だけ、あいつは攻撃しない」

柊は思い出した。腕が伸びて「いてえええ」と痛がっていた場面。肩を押さえて、膝を折りかけていた。

「……自分が苦しくなる目か」 「ああ。あの目を出させ続ければ、動きが止まる」

内山がクロを見た。

クロはすでに低く身を沈めていた。青銀の光が、前肢の先端に集まっていく。

ダイスがまた手を縦に振った。出目を確認しようとした、その瞬間。

クロが弾けた。

地面を蹴る音すらしなかった。ただ、青銀の軌跡だけが空気を裂いた。

サイコロが、ダイスの指から弾き飛ばされた。

サイコロが空中で何度も回転して、草の上に落ちた。出目が上を向く。

六。単独。

「っあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」

ダイスの全身が、内側から軋んだ。膝が折れる。両手が地面をつかむ。歯を食いしばって、それでも声が止まらない。

どれだけ動きが乱れても、出目がどう転んでも、澪の方向だけには向かわなかった。丘で海を見ていたあの目と、今の歪んだ顔が、柊の中で重なった。

人形?それは壊れたロボットだった。男へ向かう。サイコロを拾おうとしたが、間に合わない。

錆びた鉄の腕が、ダイスの胸を貫いた。

その目が、少しだけ穏やかになった。丘で海を見ていた時の、あの目に戻っていた。

澪は、固まっていた。

枝の上に、極彩色の小鳥がいた。

ロボットが跳んだ。物理法則を無視したような、異常な跳躍だった。

だが、小鳥はすでに飛び立っていた。光の尾を引いて、空の向こうへ消えていく。

ロボットは枝の上に着地し、小鳥の消えた方角をしばらく見ていた。

それから、音もなく去っていった。いつもと同じ方角だった。

静寂が落ちた。内山は「鉄の塊の事」を話そうとしなかった。だが、その横顔は硬かった。あの重力を無視した跳躍の仕方も、関節の軋み方も、島で見た何かと——同じ設計思想だった。

草の上に、サイコロだけが残っていた。

柊は立ち上がれないまま、ダイスを見た。

澪が、柊の横に来てしゃがんだ。何も言わない。ただ、同じものを見ていた。

「……矜持、あったんだな」 柊が呟いた。

内山が立ち上がり、青年の元へ歩み寄った。脈を確かめる。それだけで十分だった。

「行くぞ」内山が言った。

四人と一匹は、都市へ向かって歩き出した。


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