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隣の彼女は異世界の妻でした  作者: 佐々木勇二


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4/13

坂道の荷車と、夕景の丘

その日の午後、柊と澪は広場から続く長い坂道で、備品を積んだ重い荷車を押していた。村は数日後に控えた小さな市場の準備で、いつもより活気づいている。

「少しペース落とすぞ。重いからな」 「大丈夫よ、これくらい」

言い合いながらも、二人の足並みは自然と揃っていた。

そのときだった。バキッ、と嫌な音が鳴り、荷車の古い車軸の留め木が重さに耐えきれずに弾け飛んだ。「うわっ!」

バランスを崩した荷車が、柊の手を離れて急な下り坂をものすごい勢いで逆走し始める。坂の下には、逃げ遅れて立ちすくむ小さな子供の姿があった。

「危ない!」

声より先に、柊の足が弾かれたように動いていた。同時に、荷車の反対側にいた澪も駆け出している。言葉はない。視線さえ合わせていない。なのに、相手が次に何をするかが、痛いほど鮮明にわかった。

柊が地面を蹴り、子供の前へ滑り込んでその小さな身体を強く抱き寄せる。荷車が激突するまで、あと一秒。だがその瞬間、澪が横から回り込み、拾い上げた太い薪を暴走する車輪のスポークの間に正確に突き入れていた。ガァンッ、と凄まじい音がして車輪がロックされる。荷車は斜めに大きく跳ね上がり、柊と子供のわずか数十センチ手前で、激しい土埃を上げて停止した。

土埃が晴れる。

澪が荒い息を吐きながら、こちらを見ていた。

「……無茶、しないで」

珍しく、その声が震えていた。怒りじゃない。誤魔化しようのない、心配の色だった。

柊は子供を駆けつけた親へ引き渡しながら、澪を見た。

頬に土埃がついている。息がまだ整っていない。いつも完璧に整っている澪が、髪も服も乱れたまま、それでも真っ直ぐこちらを見ていた。

「……心配したのか」 柊が言うと、澪の目つきが一瞬で変わった。

「別に」 「でも今——」 「荷車が惜しかっただけ」 「俺のことだろ」

「備品が台無しになるところだったでしょ」 「澪」 「なによ」

「ありがとう」

澪が黙った。

それから、ふいっと顔を背けた。耳が赤い。

「……次から、ちゃんと足元見て走りなさいよ」

それだけ言って、乱れた髪をぱっと整え始めた。もう柊を見ない。でも、その手が少しだけ急いでいた。

「……今の動き、悪くなかった」

ふいに上から声が降ってきた。見上げると、坂の上の石塀にレンが座っていた。いつからそこにいたのか、静かに事態を見下ろしている。

柊が驚くのも無理はなかった。

「……俺なりにやりました」 柊が言うと、レンは少しだけ目を細めた。

「そうだな」

レンは塀から飛び降り、荷車の車軸に視線を落とした。折れた留め木の断面には、わずかに黒い煤のような不自然な焼け焦げの痕が残っていた。レンは小さく目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。

見回りを終えた頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。村の外れへ続く緩やかな坂を登りきったところで、レンが足を止める。

「……少し休むぞ」

珍しく、レンの方からそう言った。

「助かります……荷車騒ぎのあとの見回りは、さすがに脚が死にそうです」

「それは鍛え方が足りん」

風が草原を渡る。目の前には夕日に照らされた広い平原が広がり、草の波が海みたいに揺れている。柊も隣に腰を下ろし、しばらく二人とも何も言わずただ景色を見ていた。

「……今日は、さすがに骨が折れたな、柊」

柊は思わず隣を見た。レンが少しだけ肩を回している。しかも、初めて名前だけで呼ばれた。

「レンさんでも、そういうこと言うんすね」 「俺を何だと思ってる」

レンは短い返しのあと、珍しく小さく笑った。夕日の光が、その横顔を少しだけ柔らかく見せていた。

「……ここ、好きなんですか」

「広い景色を見るのが好きでな」 レンは遠くを見たまま答えた。「海も、平原も、森も。ちゃんと風が流れてる場所は、落ち着く。……一人で見てると、少し楽になる」

柊はその言葉を少し意外に思った。もっと無機質な答えが返ってくると思っていた。けれど、今のレンの声は思っていたよりずっと静かで、人間らしかった。

「今は、一人じゃないんですか」 「……相棒がいるってのも、悪くない」

柊は息を呑んだ。あの手帳の二つの筆跡を思い出す。レンは、自分の中にいる得体の知れない存在を、すでに相棒と呼んでいるのだ。

「……お前はどうなんだ」 ふいにレンが横目で柊を見た。「澪のことだ。最近、よくお前を迎えに来るだろ」

「……あれは、その」 言葉に詰まる柊を見て、レンは小さく笑った。

「相棒がいるってのは、悪くないぞ」

風が二人の間を通り抜ける。

柊は夕焼けの平原を見たまま、ずっと気になっていたことを口にした。

「……レンさん。ヴェルナーさんって、何者なんですか」

レンはすぐには答えなかった。しばらく沈黙したあと、遠くを見たまま静かに言う。

「……あれも、悪いものではないさ。俺も詳しくは知らん。ただ、少なくとも危害を加える側ではない」 レンは少しだけ目を細めた。「ただ、最後にそれを決めるのは、お前たちだろ」

「……俺と、澪?」 「そうだ」

夕日が平原の向こうへ沈みかけていく。

そのとき、レンの目つきがすっと鋭くなった。柊も異変に気づく。夕焼けの赤に染まる遠くの森の境界線に、生き物ではない無機質で幾何学的な黒い影が、一瞬だけ音もなく揺れた。

レンがゆっくりと立ち上がる。その横顔は、もう先ほどまでの疲れた青年のものではなかった。

「……遠くないな」 ぽつりと呟いてから、いつもの無愛想な顔に戻り、柊を見下ろした。「今日はもう帰れ。待たせると怒られるぞ」

「……はい」 柊は短く答えて、坂道を駆け下りた。

すっかり日が落ちた頃、柊が家へ帰り着くと、部屋の中には灯りが点いていた。

卓の前に腕を組んで立つ澪の姿を見た瞬間、柊はびくっと足を止める。

「……遅い」

「あ、いや、ごめん! 丘のところでレンさんとちょっと話し込んでて……」

「どうしてこういう時に限って遅いの」

澪の眉がきつく寄っている。完全に怒っている。だが、その怒りの奥に何か別の感情が揺れているのがわかった。

柊の視線が卓の上へ向く。大きな木の鉢に、打ったばかりだったらしい麺が置かれていた。だが少し水気を吸ってしまい、端の方がくっつき始めている。

「……小麦粉、市場で安かったから、伸ばしてみたの」 澪はそっぽを向いたまま、ぽつりと言った。「うまくできたと思ったのに」 小さく息を吐く。「……のびた」

その一言に、柊の胸の奥がぎゅっと熱くなった。

「……ごめん」 「別に怒ってないわよ」 「いや、絶対怒ってるだろ」「怒ってない」

柊は口元が緩みそうになるのをこらえ、上着を脱いだ。

「のびててもいいよ。絶対うまいから、食おうぜ」

「……温め直すから、座ってなさい」

澪が鉢を持ち上げようとした瞬間、柊も自然に立ち上がり、竈の薪へ手を伸ばした。澪が鉢を置く。柊が火をつける。澪が水差しを取る。柊が鍋を用意する。言葉にする前に動きが重なり、考えるより先に手が噛み合う。

しばらくして、温め直した麺が卓に並んだ。

柊は一口食べた。

「……うまい」 「のびてるのに?」 「のびてても、うまい」

澪はそっぽを向いたまま、自分の椀を引き寄せた。

柊は何も言わなかった。ただ、もう一口、麺をすすった。

窓の外に迫り来る不穏な影を、二人はまだ知らない。ただ隣にいるのが当たり前のような、静かで、かけがえのない夜だった。

その日は見回りのあとの報告書の整理で、帰りが遅くなっていた。詰所で柊とレンが作業をしていると、不意に戸が開いた。

「お疲れさまー!」

大きな鍋を抱えたレムが、ひょっこりと顔を出す。「シチュー、作りすぎちゃったから夜食の差し入れ。澪さんには、柊くんの分はこっちで試食させるって了解もらってあるからね」

「お、マジですか。腹減ってたんで助かります」

柊が立ち上がって椀を受け取る。レンも無言で受け取り、木のスプーンで口へ運んだ。レムは机の向かいに肘をつき、二人が食べるのをにこにこと眺めていた。

やがてレンの左手首の腕輪をじっと見て、ふふっと笑う。

「いいなあ。手助けロボットが入ってるんでしょ? 掃除とか忘れ物チェックとかしてくれるって」

「……ジイの奴、余計なことを」 レンは食べる手を止めなかった。

「私にも貸してほしいくらいだよ。洗濯物たまってるし」

「たまってるなら、さっさと帰って自分でやれ」 「はーい」

レムは立ち上がると、急にぎこちなく背筋を伸ばした。両腕をわずかに外に張り、膝を固定したまま、カクカクと一歩踏み出す。ねじを巻いたブリキの人形のように。

「いーち」 もう一歩。「にー」 振り返って、無表情のまま舌を出した。「さーん。……べっ」

バタン、と足音が遠ざかり、戸が閉まる。

静かになった詰所で、レンは小さく溜息をついた。だが、その口元が少しだけ緩んでいるのを、シチューを頬張っていた柊は見逃さなかった。

その夜、家へ帰ると澪は起きて待っていた。温かいお茶を淹れてもらい、卓を挟んで向かい合う。二人の間には、昼間の荷車の一件がまだ生々しく残っていた。

「……昼間のことだけど」 澪が茶碗の縁を指でなぞりながら、静かに切り出した。

「ああ。俺も、あれは変だと思った」 柊は自分の両手を見つめた。「声も出してない。合図もしてない。なのに、お前がどう動くかが、頭じゃなくて身体の芯でわかった。……俺の身体なのに、俺だけのものじゃないみたいだった」

「私もよ」 澪は小さく頷いた。「次にあなたが必要とするものが、風の向きを読むみたいに自然に頭に浮かんだの。……正直、怖かったわ。私たちの感覚が境目なく溶け合っていくみたいで。元の世界の私たちが消えて、この世界に都合のいい何かに書き換えられていくんじゃないかって」

だが柊はゆっくりと顔を上げ、澪の手の上に自分の手をそっと重ねた。

澪がびくりと肩を揺らす。けれど、その手は振り払われなかった。

「……怖いよな。俺も怖い。でもさ」 柊はまっすぐ澪を見た。「今日あの時、俺たちの息が合わなかったら、あの子は助からなかった。俺たちが写しで、この力が誰かに与えられた都合のいいものだったとしても、その力で今日、目の前の命を守れたんだ」

澪が静かに息を呑む。

「……そういえば」と柊は続けた。「こないだ、レンさんが隠そうとした手帳の端に、見慣れないアルファベットが書いてあったのが、ちらっと見えたんだ」

「アルファベット?」 「ああ。『A』と『I』って読めた気がする」

「エー、アイ……人工知能ってこと?」

「元の世界じゃ、パソコンやスマホの中のプログラムの話だろ? でも、この世界じゃもっと物理的っていうか……レンさんの中に、そのAIの意識みたいなものがいて、一緒に動いてるんじゃないかって」

澪はわずかに目を見開いた。

「……あなた、意外とそういうの鋭いのね」 

「異世界に来たんだぜ? ゲームとか映画なら王道だろ」

得意げに笑う柊に、澪は小さくため息をつく。だが、その視線は再び自分の手元へ落ちた。

「……だとしたら」 その声には、まだ拭いきれない不安が滲んでいた。「最近の私たちの、この勘の鋭さは何なのかしら。いつか、私たちが私たちじゃなくなってしまうんじゃないかって、やっぱり少し怖いわ」

「レンさんも言ってた。どう使うかを最後に決めるのは、俺たちだって」 柊は重ねた手に少しだけ力を込めた。

「……そうね」 やがて澪は小さく息を吐き、重なった柊の手をほんの少しだけ握り返した。「与えられた力でも、私たちが自分の意志で選んで使うなら……それはもう、私たちのものよ」

「それにさ」 柊はふっと口元を緩めた。「何があっても、俺がちゃんとついてるから。お前がもし自分じゃなくなりそうになっても、俺が絶対にお前を見つける」

澪の目が一瞬だけ見開かれ——次の瞬間、ぱっと頬が赤く染まる。

「……ば、馬鹿じゃないの。何よ急に」 「いや、俺は普通に——」

「お茶、冷めるわよ! 早く飲みなさい!」

照れ隠しに声を荒げる澪を見て、柊は思わず吹き出した。

湖畔の影と、不完全な共鳴

昨夜、丘の向こうに見えた黒い影が、朝になっても柊の頭に残っていた。

湖側の細い道へ入ったところで、後ろから足音がした。

「……やっぱり」

振り返ると、澪が立っていた。肩で少し息をしている。だが顔つきは固い。走って追ってきた、というより、最初から追うつもりでいた顔だ。

「ついてくんなよ」 「ひとりで行く気だったの?」 「見回りだし」

「見回りにしては、顔が落ち着いてなかったわ」

ぐっと言葉に詰まる。澪はそのまま柊の横に並んだ。いつも通り背筋はまっすぐだが、歩幅がわずかに速い。

「昨日の影のこと、気にしてるんでしょう」 「……してないとは言わない」

「なら、なおさらひとりにしない」

湖畔の森は昼でも薄暗い。枝が重なって、光を細く裂いている。水面は静かだった。風もない。音が少ない。

静かすぎる。

その違和感に気づいたのは、澪が足を止めたのと同時だった。

「……鳥がいない」 「ああ」

次の瞬間、藪の奥で低い金属音が鳴った。

柊は反射で前へ出る。澪も同時に半歩ずれる。

黒いものが飛び出した。

人型に見えた。だが人間じゃない。四肢はやけに細く、関節だけが長い。胸部だけが不自然に固く、頭の中央に赤い光が灯っている。見ている、というより、狙っている光だった。

「……何だ、あれ」 「知らない。でも、まともじゃないわ」

敵は言葉もなく踏み込んできた。速い。

頬の横を刃のような腕が掠める。ひやりとした風圧が遅れて来た。

「柊、左!」

澪の声が飛ぶ。その声に従った、というより、澪が何を見たかが先に分かった。足が勝手に動く。地面を蹴って、敵の死角へ半歩潜る。

澪は近くに落ちていた枝を拾い、そのまま敵の腕へ叩きつけた。乾いた音。ほんの一瞬だけ動きが止まる。

「下がって!」 「そっちこそ!」

柊は倒れかけた杭を掴み、そのまま突き出した。外した、と思った瞬間、澪が肩を引く。たったそれだけの動きで、敵の頭部がわずかにずれた。そこへ杭の先端が食い込む。

赤い光が乱れた。金属の身体が軋む。

「今!」 「ああ!」

二人で同時に踏み込む。澪が足元を払う。柊が倒れ込む勢いのまま杭を押し込む。嫌な手応えのあと、黒い身体は力を失って地面に崩れた。

澪の声が少し掠れていた。柊もすぐには答えられなかった。心臓が速い。掌が汗でべたついている。なのに、さっきの動きだけが気味が悪いくらい噛み合っていた。

「お前、今……」 「ええ」 「分かってた?」

「あなたが次にどこへ入るか、なんとなく」 「俺も」

そこで二人とも黙る。目が合う。言葉にしなくても、その一瞬で同じことを考えているのが分かった。

「声が聞こえた、とかじゃない」 柊が確かめるみたいに言う。

「ええ。そういうのじゃない」 「でも、お前が見てる場所が分かった」

「私も、あなたが踏み込む場所が分かったわ」

澪は自分の手を見た。指先が小さく震えている。頬にかかった髪も、そのままだ。いつもなら真っ先に整えるくせに、今はそんな余裕もないらしい。

そのとき、森の奥から足音が近づいた。反射で柊が澪の前へ出る。現れたのは、見慣れた長身だった。

「レンさん」 「無事か」 短い問い。それだけで、なぜか少し落ち着く。

「……少し、じゃないだろ。これ」 「生きてるなら充分だ」

「基準が雑すぎる」

柊が言うと、レンは床に転がった無人兵の残骸へ目を落とした。表情は変わらない。だが視線だけが少し硬い。

「何なんだよ、こいつ」 「斥候だろうな」 「知ってるのか」

「名前だけだ。ろくでもない類だってことも含めて」

「レンさん」 「何だ」 「さっきの、俺たちのあれ……何なんだよ」

レンは少し黙った。面倒な質問を受けた時の沈黙だった。

「分からん」 「即答すんなよ」 「正確には、説明しきれん」

そこでレンは小さく息を吐いた。

「人間ひとりで抱えるには、妙に噛み合いすぎる時がある」

「俺にもいる」 「は?」 「相棒みたいなもんだ」

「いや、意味わかんねえよ」 「説明しにくい」 「説明する努力はしてくれ」

「昔からいる。俺の中で、たまに口を挟む。今はそれで充分だ」

言うだけ言って、レンはそれ以上話す気を失ったように踵を返した。

柊はもう一度、残骸を見る。湖の向こうの静けさが、さっきまでとは違って見えた。この村の外で、何かがもう動き始めている。そんな気配が、風もないのに肌を撫でた。

森を出る手前で、レンがふいに足を止めた。つられて柊も空を見上げる。高いところを、黒い点がひとつ横切った気がした。

隣で澪が柊の袖を軽く引いた。

「戻りましょう」 「ああ」

煙幕の夜と、喪失の予行演習

その夜、村は妙に静かだった。

食事を終えて、柊は椅子を引いた。

「少し外、出てくる」 「……私も行く」

澪が立ち上がる。止める間もなかった。

「いいよ、別に」 「いいから行く」

それだけ言って、澪は上着を羽織った。止めても無駄だと分かっているから、柊も何も言わなかった。

外の空気は冷たかった。

「静かだな」 「昨日より」 「ああ」

村の外れの小さな広場まで来たところで、二人は足を止めた。

そのときだった。風がふっと止んだ。いや、止んだように感じただけかもしれない。空気が一段、冷えた。

「——柊さん」 静かな声がした。

振り向くと、少し離れた暗がりにヴェルナーが立っていた。相変わらず、夜の中にぼんやり浮いたみたいな白さだ。

「うわっ」 「驚かせるつもりはありませんでした」 「十分驚いたよ……」

「何の用ですか」 澪の声は低かった。

「確認です」

「単刀直入に申し上げます。あなたがたを、元の世界へ返すことができます」

「……本当に?」

「はい」 ヴェルナーは頷いた。「ただし、条件があります」

「条件」

「この世界での記憶は、すべて消えます。ここで過ごした日々も、出会った人々も、ここで得たものも。何もかも」

記憶が消える。

その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。重かった。思っていたより、ずっと重かった。

「……今すぐ決めろってことですか」

「いいえ」 ヴェルナーは首を振った。「ただ、選択肢があることをお伝えしたかった。いつでも、ご自身で決めてください。私には……決められないことが、あまりにも多いので」

「なんで今、言うんですか」

澪が問うた。鋭い声だった。

「あなたがたが、今夜、岐路に立つからです」

それだけ言い残して、ヴェルナーは夜に溶けるように姿を消した。

しばらく、二人とも黙っていた。

「……帰れる」 柊が呟く。「記憶が消えて、帰れる」 「ええ」 「澪」

柊は澪を見た。 「お前は帰れ」

澪が柊を見た。 「……何?」

「お前は帰れよ。記憶が消えても、元の生活に戻れる。学校も、家も、全部ある。俺は——」

「柊」 澪が遮った。

「何度言ったら分かるの」

その声は低く、静かで、でも揺るぎなかった。

「私だけ帰るなんて、するわけないでしょ」 「でも——」

「あなたが残るなら、私も残る。それだけ」

その瞬間だった。 空の奥から、地鳴りみたいな音が落ちてきた。

反射で見上げる。黒い。あまりにも大きい影が、夜空を横切っていた。

「……何だ、あれ」 「柊!」

澪の声と同時に、警鐘が村中で鳴り響いた。

次の瞬間、空から何かが降った。地面に叩きつけられ、白い煙が一気に広がる。

「煙幕!?」 「離れないで!」

「澪!」 「こっち——」

声が途中で切れた。 白い。何も見えない。

柊は咳き込みながら前へ出た。だが次の瞬間、右から衝撃が来る。反応が遅れた。肩に激しい痛み。身体が横へ吹き飛ぶ。

「ぐっ……!」

地面を転がる。今までなら、もう少し早く読めたはずだった。澪がどこを見るか、どこへ退くか、その気配が半歩先に分かったはずなのに。

ない。

耳の奥にかすかにあった、あの妙な噛み合いが、きれいに消えていた。

「は、っ……」

もう一撃。今度は避けきれず、腕を裂かれた。

「っ……!」 熱い。痛い。

泥を掴んで、無理やり起き上がる。戻る?何も知らなかったところへ?澪を置いて?

「そんなの、選べるかよ……!」

近くに落ちていた鉄片を掴む。無人兵が踏み込んでくる。怖い。足が震える。なのに退けない。

澪がいない。だからこそ、ここで折れたら終わる。

「うおおっ!」

半ばやけくそで振った鉄片が、運よく敵の目に当たった。赤い光が砕ける。体勢が崩れる。だが、二体目、三体目が来る。 終わる。そう思った瞬間。

上から銀の線が落ちた。風が遅れて届く。一拍あとに、無人兵の身体が斜めにずれた。

「……へばるには早いぞ、柊」 「レンさん……!」

煙の中から現れたレンは、いつも以上に無駄がなかった。迷いなく一体を斬り払い、そのまま柊の前へ滑り込む。

「立て」 「澪が……!」 「分かってる」

短い返答。その声に、いつもの冷静さとは違う硬さが混じっていた。

「西へ三十」 「は?」 「行け。お前なら間に合う」

「澪!」 「……柊!」

ようやく見えた。倒れた荷車の陰に、澪がいた。額に煤がつき、息も荒い。無事ではある。だが、ひどく近寄りがたく見えた。壊れそう、というより、自分が壊しそうで怖い近さだった。

「無事か」 「あなたは」 「なんとか」

手を伸ばす。澪も伸ばす。指先が触れた瞬間、喉の奥に詰まっていたものが少しだけほどけた。

「……まだ、戻らないわね」 「ああ。前みたいに、勝手には来ない」

「でも」 柊はその手を握り返した。「全部なくなったわけじゃない。お前がここにいるってことは、まだ分かる」

澪は一度だけ目を伏せた。

「なら、今度は自分たちで合わせるしかないわね」 「ああ」 「離さない」

「……私も」


非効率な絆と、命を預ける鋼


手はつないでいる。それなのに、前みたいには分からない。

煙の薄くなった北通りで、炎の色が揺れている。でも、手は離れていない。

「行ける?」 「行くしかないでしょ」 「そうね」

炎の向こうから、無人兵が二体現れた。柊は身構える。澪も半歩ずれて立つ。

一体目が突っ込んできた。柊は正面から受けず、ぎりぎりで横へ流す。重い。腕が痺れる。そこへ澪が低く潜り込み、足元を払った。

崩れた。柊が鉄棒を叩き込む。

間一髪だ。昼みたいな滑らかさはない。きれいでもない。それでも倒れた。

柊が踏み込みかけた瞬間、澪が袖を引いた。声より先に、その引き方で分かる。前じゃない。半歩右だ。

従う。刃が空を切る。そこへ澪の投げた木片が敵の顔面に当たり、赤い光がぶれた。

「柊!」 「ああ!」

今度はうまく入った。脇腹に鉄棒を叩き込み、そのまま体重を乗せて押し倒す。地面へ押さえつけたところへ、澪が拾った短剣を突き立てる。

沈黙。二人とも大きく息を吐いた。

「……前みたいじゃない」 柊が言う。 「ええ」

「でも、さっきよりはマシだ」 「さっきより、ちゃんと見てるもの」

「勝手に合ったんじゃないわ」 澪が言う。「私たちが、今、合わせてるの」

「……だな」

その言葉が妙にしっくりきた。

「そっち!」 「分かった!」

二人は駆ける。

家屋の間を抜けた先で、三体の無人兵が村人を追い詰めていた。柊が正面から引きつけ、澪が石を投げて一体の視線を逸らす。荒い。だが通じる。

柊が一体を受け止める間に、澪が村人を逃がす。もう一体が横から来る。見えた瞬間、澪の息がひとつ入る。そのタイミングで、柊は振り返った。

間に合った。

「下!」 「おう!」

柊は無人兵の脚を払う。澪がその隙に、子どもを抱えた母親の背を押した。

「走って! 井戸の方へ!」 「は、はいっ」

村人が走る。その背を見送る暇もなく、空が唸った。

見上げる。黒い母艦が、まだ村の上に張りついている。巨大な砲口の周りに赤い光が集まっていた。

「まずいな……」 「主砲かもしれない」

「かもしれない、で済む見た目かよ」

敵がまた来る。柊は前へ出た。澪が背後を支える。完璧じゃない。だが、もう「いないと戦えない」だけではない。「いるから踏み込める」に変わりつつあった。

刃が迫る。柊が受ける。重い。骨まで響く。でも、次の瞬間には澪がいると分かっている。それだけで、足が止まらない。

叫び返しながら、鉄棒を叩きつける。鈍い音。無人兵が揺らぐ。

その瞬間、空の母艦が大きく揺れた。

高台の方角で、鉄の軋む音が響いた。村の荷揚げに使う古いクレーンの腕が、不自然な角度まで持ち上がっている。次の瞬間、その鋼の先端が母艦の砲身の脇をかすめるように振り抜かれた。

直撃ではない。だが、それで十分だった。

砲口がぶれる。集まっていた赤い光が軌道を外し、放たれた閃光は村の外れの空と森だけを焼いた。

「……レンさん」

柊は思わず呟いた。高台までは見えない。けれど、あれをやれるのは一人しかいない。

最後の一体が迫る。柊は呼吸を合わせる。澪の息が入る。踏み込む。ずれない。

敵の腕をかわし、懐へ入る。澪が後ろから武器を弾く。柊がそのまま胴を突く。

金属が砕けた。

静寂が一瞬だけ落ちる。

「……終わった、か」 「少なくとも、ここは」

澪も肩で息をしていた。髪は乱れ、頬には煤がついている。いつもの整った澪じゃない。なのに、今のほうがずっと近く見えた。

「私は、あなたの隣に立つって、自分で決めたの」 「分かってる」

柊は答えた。今度は迷わなかった。

「俺もだよ」

風が通る。煙が流れる。その向こう、空の端にだけ、夜明け前の薄い光が滲んでいた。



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