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隣の彼女は異世界の妻でした  作者: 佐々木勇二


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先読みの訓練

レンとの訓練は、思っていたよりずっと厳しかった。

「遅い」

乾いた声と同時に、木剣の先が柊の肩口を軽く叩いた。反射的に距離を取ろうとした瞬間、今度は足元を払われる。視界が傾き、次の瞬間には背中から土の上へ叩きつけられていた。

「っ、また……!」

肺の空気が一気に押し出される。村の外れにある訓練場は踏み固められた土で、ところどころ雨上がりの泥が残っていた。転ぶたびに服の裾が汚れていく。レンは息一つ乱していない。木剣を肩に担いだまま、眠たげな目で柊を見下ろしていた。

「来ると思ってから動くな。そこに来ると決まってる場所に、先に身体を置け」

「……決まってるって、そんなの、わかるわけ——」

言い終わるより早く、木剣がまた振り下ろされる。今度こそ受けようとした、その一瞬前だった。

右だ、となぜか思った。頭で考えたわけではない。風が頬を撫でる方向を知るみたいに、ただそこに来ると身体が理解していた。柊は反射的に半歩だけ右へずれた。ひゅ、と木剣が空を切る。

初めて、避けた。

レンの目が、わずかに細くなった。「今のは悪くない」

その一言が、また胸の奥へ落ちた。

次の瞬間には足払いでまた地面へ転がされていた。

「うわっ!」 「一回できたくらいで止まるな」 土埃の中、泥だらけのまま柊は空を見上げた。

できた。でも、どうしてできたのかわからない。ただ一瞬だけ、レンの次の動きが風の音みたいにわかった気がした。

(もう一回、やれる気がする)

柊は歯を食いしばって立ち上がった。膝が笑っている。腕が痺れている。それでも、退く気にはなれなかった。  「……もう一本」 「構えろ」

レンは表情を変えなかった。だが、木剣を持ち直す動作が、わずかに丁寧になった気がした。

家へ戻ると、戸口の前に澪が立っていた。 「……ひどい格好」

開口一番、それだった。泥のついた袖を見下ろして柊は苦笑する。「見ればわかるだろ……」

澪は一瞬だけ汚れた服を見て、それから小さく息を吐いた。

「そのまま入ってこない。お湯、もうわかしてあるから」 「……先に?」

「汚れてるから」

ぶっきらぼうな言い方だった。感謝を求めている顔でもない。ただ、当然のことを当然にやった、という顔だった。

柊がありがとうと言うと、澪は返事をせず、手ぬぐいだけを差し出した。

その手つきが妙に自然で、柊はふと足を止める。

「……なあ。なんで俺が今それ欲しいってわかったんだ?」

澪の指先が、ほんの少しだけ止まった。だが彼女は振り返らずに言った。

「見ればわかるでしょ」

その声は、少しだけ硬かった。柊は手ぬぐいを受け取りながら、その背中を見た。

訓練場でレンの動きを読もうとしていた、あの感覚。澪が今やったことは、それと同じじゃないか。

写しの問いと、本物の夜

風呂を上がったあと、部屋には湯気の残り香と温かい茶の匂いが満ちていた。卓を挟んで向かい合う。窓の外では虫の音が小さく響いていた。

しばらく、二人とも黙って茶を飲んでいた。

澪が茶碗をこ、と置いた。

「ちょっと、座りましょう」

柊はその言い方に、思わず背筋を正した。それから、少しだけ可笑しくなった。

「……なんだよ、急に改まって」 「うるさい。座って」 「座ってるけど」

澪は卓の上で両手を組んだ。妙に姿勢がいい。まるで別の場所で覚えてきた作法を、そのまま持ち込んだみたいな、少し不器用な改まり方だった。

柊はなんとなく、背筋を伸ばした。

「……私たち、おかしいと思わない?」部屋の空気が少しだけ冷えた気がした。

「……村のことか?」 「それもある。でも、それだけじゃない」

彼女の指先が、組んだ手の上で止まっている。

「今日、備品の仕分けをしていた時。担当の人が次に何を探すか、言われる前にわかったの」

柊は息を止めた。昼間の訓練の感覚が蘇る。風のように、次が見えたあの一瞬。

「……俺もだ。レンさんの木剣が、次にどこへ来るか、一瞬だけわかった」

沈黙が落ちた。二人とも、同じことを考えていた。これは偶然じゃない。

澪は少し間を置いてから、小さく息を吐いた。

「もし」

その声は、いつもの鋭さとは少し違った。慎重に、言葉を選んでいる声だった。

「もし、私たちが……ここで作られた『写し』だったら?」

柊は言葉を失った。澪の視線は揺れていない。だが、卓の上の組んだ手だけが微かに震えていた。

「元の世界の私たちは、ちゃんといるのかもしれない。ここにいる私たちは、ただ切り分けられた別の何かで……」

言葉がそこで途切れる。

柊はしばらく黙ったまま茶碗を見つめた。

澪がこんな顔をするのを、初めて見た。刺々しさも、プライドも、全部どこかへ行って——ただ怖い、という顔だった。

それから、静かに口を開く。

「……写しかどうかは、わからない」まっすぐ彼女を見た。

「でも、今ここで、そうやって不安になってるお前は、本物だろ」

部屋の空気が、少しだけ止まった。

澪は何も言わない。ただ、その目の強張りがほんの少しだけ和らいだ。

「少なくとも、俺にはそう見える」

「……そういうこと、急に言わないで」

耳が赤い。さっきまで震えていた手が、茶碗をぎゅっと握り直している。

「……たまに、まともなこと言うわね」 「たまには余計だろ」 「事実よ」

でも、その声は確かに少し柔らかかった。

窓の外で風が鳴る。卓を挟んで座る距離は変わっていない。それでも今夜だけは、炭の境界線よりも先に、何か別の線が少しだけ薄くなった気がした。

翌朝、目を覚ましたとき、部屋にはもう朝の光が差し込んでいた。

境界線の向こうで澪がすでに起きている。鍋の蓋が小さく鳴る音と、香草の匂いが漂ってくる。

柊は起き上がり、桶の水で顔を洗う。顔を上げると、澪が卓の上にパンとスープを並べていた。

「今日は買い出し、だったよな」 「ええ。昼前には市場へ行くわ」

澪はそう言いながら、さりげなく柊の前にコップを置いた。言葉はない。だが、ちょうど柊が手を伸ばそうとしていた位置に、自然とそれが置かれる。

一瞬だけ、昨夜の話を思い出した。先にわかる。相手の動きが、少しだけ。

柊は黙ってコップを受け取った。

市場に着くと、澪は慣れた様子で野菜を見て回り始めた。「これと、あと肉を少し」 柊は自然に袋を受け取る。最初の頃ならいちいち言い合いになっていたやり取りが、もう半分くらいは無言で済むようになっていた。

買い物を終えて歩き出したところで、袋の片方がぐっと重くなった。見れば、澪が無言で半分持っていた。

「……持つって言えよ」 「そっちこそ」 「いや、俺が持つ」

「じゃあ最初からそうしなさい」

そのとき、少し先の井戸端で若い守衛たちが話している声が耳に入った。

「だから本当に見たんだって。樽が勝手に転がったんだよ」

柊は思わず足を止めた。守衛のひとりがこちらに気づき、気軽に声をかけてくる。「ああ、昨日の盗賊騒ぎの話。夜中に村へ忍び込んだやつがいてさ、レンさんが追いかけたんだけど」 守衛は身振りを交えて続けた。「路地の角にあった空樽が、いきなり転がってきて、ちょうど盗賊の足元に入り込んで転ばせたんだ」

「レンさんが蹴ったとかじゃなくて?」

「いや、違う。俺、後ろから見てたけど、誰も触ってなかった」

勝手に動いた。第三章で聞いた違和感が、また現実味を帯びる。隣で澪も黙って聞いていた。

「……行くわよ」

澪の声は短かった。だが、その眉間には昨夜と同じ、あの緊張の色があった。

午後、訓練場でレンはいつもの無表情で木剣を構えていた。

「今日は避けるだけじゃない。打ち込んでこい」

柊は木剣を握り直し、呼吸を整えて一気に踏み込んだ。右上段から振り下ろす。だが、レンはその一歩前にもうそこからいなくなっていた。空振った次の瞬間、木剣の先が柊の脇腹へぴたりと当たる。「遅い」 「っ……!」

もう一度、今度は下段から払う。だがそれより早く、レンの木剣が上から落ちてきた。完全に読まれている。三度目も、四度目も、何度踏み込んでも、まるで先に答えを知っているみたいにレンはそこにいない。

「……なんで」 息を切らしながら柊が呟くと、レンは木剣を下ろした。

「お前、次に左へ逃げようとしただろ」

柊の背筋が冷えた。その通りだった。まだ動いていない。頭の中でそう考えただけだ。

「……なんでわかるんですか」 「癖だ」

そのとき、レンの左手首の腕輪が、かすかに小さな音を立てた気がした。電子音にも似た、乾いた微音。柊は思わずそちらを見る。レンは無言で袖を引き下ろして隠した。

「……今日はここまでだ」

帰り道、夕焼けの坂を並んで歩きながら、柊は小さく言った。

「……やっぱり、普通じゃない」

澪は前を向いたまま答えた。「ええ」

その声に迷いはなかった。「私も、そう思う」

二人の間に、静かな確信が落ちた。答えはまだない。でも、同じものを見ている。

雨宿りの対話と、器の在り処

その日の夕方、村の広場でレンは木剣を下ろした。「今日はここまでだ」

「……はいっ」

肩で息をする柊に、レンは淡々と指示を出す。「俺は先に詰所へ戻る。お前は裏の倉庫の戸締まりと、機材の片付けをやっておけ」

「了解です……」

膝に手をついたまま頷く柊を残し、レンは背を向けて歩き出した。

(また置いていかれた)

そのとき、風の音に混じって、低い金属が擦れるような重い振動が耳に触れた。柊は思わず顔を上げる。村の外れ、夕闇に沈みかけた森の稜線の向こうで、空気がわずかに揺れている。見えたわけじゃない。でも、そこに何かがいると身体が警鐘を鳴らしていた。

ズキリ、と視界が一瞬だけブレた。重い鎧の輪郭。赤く光る隙間。まるで糸で吊られた木の人形のように、関節だけがぎこちなく動く細い腕が、こちらを見下ろしているような感覚。

「……っ」

軽い眩暈が走る。目を瞬いた次の瞬間には、もう何も見えなかった。森の向こうには、ただ夕焼けがあるだけだ。

ぽつり、と頬に冷たいものが落ちる。見上げると、いつの間にか急な雨雲が空を覆い始めていた。


一方、詰所へ向かっていたレンは、降り出した雨を避けるように路地裏の深い軒下へ身を寄せていた。濡れた石畳を打つ雨音を、しばらく黙って見つめている。

やがてレンは目を閉じ、脳の奥へ静かに問いかけた。

(……聞こえてるか)

今まで、勝手に部屋を片付け、勝手に身体を動かしてきた「何か」に向けて。

雨音に紛れるような沈黙のあと、それは答えた。

『……聞こえて、います』

低く、不安定な声だった。言葉になりきっていない。でも、確かにレンの脳裏に届いた。レンの肩がわずかに強張る。

それだけだった。レンは軒下から雨空を見上げた。怖い、という感情とは少し違う。奇妙に静かな実感が、胸にゆっくりと落ちてくる。いる。本当に、自分という器の中に、別の何かがいる。

雨脚が強まる中、レンが詰所に戻ると、入り口のひさしの下に傘を持った人影が立っていた。

「……澪か」 「あ、レンさん」

澪は少しだけほっとしたような顔を見せた。

「中に入れ。風邪を引くぞ」

レンに促され、二人は詰所の中へ入った。薄暗い土間に、雨の匂いが入り込む。

「柊を待ってたのか」 「ええ」

澪は少し間を置いてから、レンの顔を真っ直ぐに見た。

「……うちの柊、迷惑かけてませんか」

うちの、という言葉が自然に出た。澪自身は気づいていないようだった。

「問題ない」 レンは濡れた外套を払いながら、短く答えた。「最初は鈍かったが、最近は勘が良くなってきた。少しずつだが、俺の動きに反応できるようになってる」

「……そうですか」

澪は小さく息を吐いた。安堵、というより、確認が取れた、という顔だった。

だがその視線は、レンの顔から左手首の腕輪のあたりへとじっと注がれたままだった。

「レンさん」 「なんだ」 「……大丈夫ですか」

その問いかけは、ひどく静かだった。レンは手を止め、澪を見た。「何がだ」

「わかりません。でも……あなたの周りだけ、音が違うんです。一人の人間の中に、別の重たい思念みたいなものが、無理やり詰め込まれているような……」

レンの目が、わずかに細くなった。「……お前には、そう見えるのか」

澪は自分の手を見つめ、ぽつりと続けた。

「私自身の勘が鋭くなりすぎているんです。最近、柊が次に何をするか、どう動くかが、考えるより先にわかってしまう時がある」

「……まるで、この身体が空っぽの器で、そこに見知らぬ自我や感覚が流れ込んできているみたいで。気持ち悪いんです」

「……器が空っぽなら、そこに入った水が自分のものかどうかなんて、誰にもわからないさ」

レンはぽつりと言った。

「だが、それがお前を動かしているなら、今はその感覚を信じるしかないだろ」

澪が顔を上げる。

二人の間に、静かな共感が落ちた。言葉にならない、でも確かな、同じ場所を見ている感覚。

そのときだった。

「うわっ、すげえ降ってきた!」

詰所の戸が勢いよく開き、ずぶ濡れの柊が駆け込んできた。「わりぃ澪、待たせた。……って、レンさんもいたんすね」

澪は柊を見た。

ずぶ濡れで、息を切らして、泥が跳ねた足元のまま立っている。

「……遅い」 地を這うような声だった。

「いや、片付けに時間——」 「遅い」

柊が濡れた外套を脱ごうと肩を落としたタイミングで、澪の手が何も言わずに乾いた布を差し出していた。外套が手から離れるのと、布を受け取るのが同時。一切の無駄がなく、ぴたりと動きが重なる。

その様子を、レンは壁に寄りかかったまま静かに見つめていた。

(あいつらの器にも、確実に何かが満ち始めている)

レンは羽ペンを取り、迷いのない字で書き殴った。

『緊急時以外、勝手に動くな』

翌朝、手帳を開くと、レンの乱暴な字の下に、見覚えのない定規で引いたような文字が増えていた。

『了解しました。制約を固定します』


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