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隣の彼女は異世界の妻でした  作者: 佐々木勇二


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2/13

守る者の目

翌朝、朝食の片付けを終えた二人は、村の奥にある工房へ向かっていた。

今日はレムの案内ではなく、ヴェルナーから「村の仕事ぶりを見ておくように」と指示されてのお使いのようなものだ。朝から吹き抜ける風には、昨日までの草の匂いに混じって、かすかに鉄と灰の匂いが乗っている。

石畳の坂道を並んで歩きながら、柊はふと隣を見た。

澪の髪の端に、小さな木くずが引っかかっている。昨夜の薪割りのときのものか、それとも風で飛んできたのか。

「動くな」 柊が短く言うと、澪はぴたりと足を止めた。「は?」 「木くず」

言うが早いか、柊は手を伸ばして澪の髪からそれをつまみ取った。触れたのはほんの一瞬だったが、澪はわずかに肩をびくつかせた。

「……取った?」 「取った」 「なら最初からそう言いなさい」

「言ったら避けるだろ」 「……まあ、それはそう」

澪は少しだけ目を逸らし、再び歩き出した。文句を言いながらも、歩幅はさっきまでと変わらず柊のすぐ横をキープしている。そのことが、柊にはなんだか少しおかしかった。

工房に近づくにつれ、空気はじんわりと熱を帯びてきた。

かん、かん、という金属を打つ音が、耳ではなく骨に直接響くように重く鳴っている。

大きく開け放たれた戸口の向こうには、むせ返るような熱気と白茶けた蒸気が立ち込めていた。炉の火がごうごうと燃え、何人もの男たちが忙しなく立ち働いている。

「すげえ熱気だな」 「端を歩いて。邪魔になる」

澪に促され、柊は工房の敷居をまたいだ。その瞬間だった。

「おい、そっちの支えが甘いぞ!」

親方らしき老人の怒鳴り声が響いた。

見れば、高く積まれた長い金属材の山が、バランスを崩して傾きかけていた。一番下にある木枠が軋み、留め具が弾け飛ぶ。

がしゃん、と重い音を立てて、金属材が斜めに崩れ落ちてきた。その先には、工房に入ったばかりの澪が立っていた。 「危ない!」

柊の身体が反射的に動いた。澪の肩を強く引き寄せ、自分の背中側へ庇うように回り込む。

だが、金属材が地面に叩きつけられるよりも速く、一つの影が滑り込んできた。

低い摩擦音。ずれた金属材の端が、ぴたりと空中で止まっていた。

片手だった。

濃い色の外套を着た若い男が、崩れかけた数十キロはあろう金属の束を、片手で押さえ込んでいる。顔色ひとつ変えていない。

「支え、こっちに寄せろ」 男は振り返りもせず、静かな声で指示を出した。「下から当てるな。上が逃げる。楔を右から打ち込め」

言われた工員たちが慌てて駆け寄り、指示通りに木枠を固定し直す。ほんの数秒の出来事だった。崩れかけた死地が、魔法のように元通りに収まっていく。

工房の空気が、一瞬で引き締まった。

男は手のひらについた油を布で拭いながら、ようやく柊たちの方を向いた。

眠たげにも見える目つきだが、その奥には刃物のような鋭さがある。

「怪我は」 「ない、です」

柊は答えながら、胸の奥に妙な熱が生まれるのを感じた。悔しい、という感情に近かった。澪を庇おうとした。でも、自分が動くより先にこの男は止めていた。しかも片手で。顔色ひとつ変えずに。

「お前が先に引いたのも悪くなかった」

男はそれだけ言うと、落ちていた留め具を足先で拾い上げた。

悪くなかった。褒め言葉のはずだ。なのに、なぜか余計に悔しかった。

「あんたたち、ヴェルナーが言ってた新しい夫婦か」 「違——」

「夫婦じゃないです」柊と澪の声がまた見事に揃う。

男は少しだけ目を細め、「そうか」とだけ返した。深追いしない。からかいもしない。それがかえって、この男の底知れなさを際立たせていた。

「俺はレンだ。手伝いに来たなら、そこの細かい部品の仕分けをやってくれ」

指示された通り、柊と澪は作業台の端で金属部品の仕分けを始めた。

熱気の中で黙々と手を動かす。ふと、柊が周囲を見回した。「布、どこ」

「はい」 澪が即座に、油拭き用の布を差し出す。 「……早いな」

「探してたでしょ」 「見てたのか」 「見えてたの」 「便利」

「人を道具みたいに言わないで」 「褒めたんだけど」 「褒め方が雑」

軽口を叩きながら部品を拭いていると、少し離れた場所からレンがこちらを見ていた。

「悪くない」

独り言のように呟いたその言葉が、また柊の胸に引っかかった。

悪くない。さっきと同じ言葉だ。なのにどうして、そこまで届く声なのか。この人には嘘がつけない気がする。そんな直感があった。そして同時に——この人みたいには、まだなれない、という感覚も。

「お疲れさま! はい、水」

入り口から明るい声がして、レムが木のコップをいくつも抱えて入ってきた。迷わずレンの元へ向かい、一番冷たい水を渡す。

レンは当然のようにそれを受け取り、一気に飲み干した。「どう? 新しい人たち、ちゃんと働いてる?」

「手際がいい。助かる」 「よかった。二人とも、無理しないでね」

レムは柊たちに手を振って、また風のように去っていった。

柊は、水を受け取るレンとレムの横顔を見ていた。大げさな言葉は何もない。だが、言わなくても必要なものがそこにあるという、揺るぎない自然さがあった。

ああいう距離感って、いいな。

無意識にそう思い、柊は隣で黙々と作業を続ける澪をちらりと見た。

だが、澪はレムたちを見ていなかった。

彼女の視線は、レンの左手首にはめられた腕輪と、工房の奥の床に向けられている。その横顔は、いつもの几帳面な顔ではなく、ひどく張り詰めていた。

「どうした?」 柊が小声で聞くと、澪は眉をひそめたまま答えた。

「……音、重なってる」 「え?」

「上の音と、下の音。違うものが、同じところで鳴ってるみたい」

柊が耳を澄ませても、聞こえるのは工員たちの槌の音と、炉の燃える音だけだ。

「何か変なのか?」 「わからない。でも……」

そのとき、工房の外から慌ただしい足音が近づいてきた。「レン!」

若い守衛が息を切らして駆け込んでくる。「北の湖縁で揉めてる! 見慣れない連中がうろついてて……」工房の空気が一変した。

レンは手元の工具を置き、外套をひるがえした。すでに体は出口へ向いている。「行くぞ」

その歩みには、一寸の無駄もなかった。まるで、守衛が駆け込んでくる前から行くべき方向を知っていたかのような、恐ろしいほどの迷いのなさ。

柊はその背中を見て、また胸の奥に熱が生まれるのを感じた。さっきとは少し違う。悔しい、というより——あそこに立ちたい、という感覚に近かった。

レンが戸口を出ようとした瞬間、澪が声を上げた。「待って」

レンが足を止める。「なんだ」

「北の方……さっきから、揺れが変。人の足音だけじゃない。もっと下で、何か鳴ってる」

工房の熱が、わずかに引いた気がした。

レンは澪を見た。その瞳の奥が、一瞬だけ無機質な光を帯びたように見えた。

「……覚えとく」 レンは短く頷き、それから柊へ視線を移した。「お前」

「はい」 「進むのなら、足元も見ろ。上ばっかり見てると死ぬぞ」

突き放すような、けれど確かな助言を残して、レンは外へ走り去っていった。

柊はその背中を見送りながら、拳を少しだけ握った。

ああいうふうに立てる人がいるのだ。誰かを守るために、迷いなく最短距離を駆け抜けられる人が。

自分はまだ、あの場所に立てない。——でも、いつか立つ。

その熱が、胸の奥で静かに燃え始めていた。

夕暮れ時、家に戻った二人は、無言のまま簡単な食事を済ませた。

部屋の明かりを小さく落とす。窓の外からは、夜の風が冷たく吹き込み始めていた。

「戸、閉めた?」 布団の上に座った澪が、確認するように聞いた。

「閉めた。火は見た?」 「見た」 「窓は?」 「……あ」

「見てないじゃない」 「今見る」 「最初からそうしなさい」

「すみません、先生」 「軽口はいいから、鍵」

柊は苦笑しながら立ち上がり、窓の鍵を閉める。

その瞬間、窓の向こう——北の湖の方角の空が、妙に暗く澱んでいるように見えた。雲が出ているわけではないのに、そこだけ星の光が吸い込まれているような、嫌な静けさがあった。

「……なぁ」 柊が振り返ると、澪も同じように窓の外を見ていた。

「やっぱり、この村、何かある」 澪の声は低かった。

「あの人の動きも……すごかったけど」 「うん」

「迷いがなさすぎた。まるで、先のことが全部見えてるみたいに」

柊も黙って頷いた。

頼れる先輩だ。それは間違いない。だが、あの崩れる資材を止めた時の動きも、北へ向かう時の足取りも、人間の勘の良さという枠を少しだけはみ出している気がした。

「強かったけど……なんか、少し変だったよな」 「……ええ」

部屋の中には、かすかな虫の音だけが響いている。

同じものを不審に思い、同じものを警戒している。炭で引かれた境界線のこちらと向こうで、二人だけが共有する秘密のような空気が、夜の冷たさの中で静かに輪郭を結び始めていた。


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