同じ布団の朝
その夜、柊はベッドに入った記憶しかなかった。
風呂にも入らず寝落ちした、という意味ではなく、本当にそれしか覚えていない。晩飯を食って、スマホを見ながら横になって、気づけばもう意識が落ちていた。期末試験の三日前で寝不足だったし、放課後に友達に付き合って無駄に走り回ったせいでもある。とにかく、ひどく疲れていた。
だから、夢の中で誰かに話しかけられた気がするのも、その延長だと思っていた。
『少しだけ、お力をお借りしたいのです』
妙に上品な男の声だった。
白い靄の向こうに、白髪の紳士が立っていた気がする。細い目で、柔らかく微笑んでいた。どこかの映画から抜け出してきたような、胡散臭いほど品のいい老人だった。
『あなたという存在の輪郭を、異世界でトレースさせてください。見返りに、現世におけるあなたは心身ともに健全な状態へ導かれます』
寝ぼけた頭では、その意味が半分もわからなかった。ただ、その言い方が妙に丁寧で、眠気を邪魔しない声だったので、柊は夢の中で適当に頷いた。
「……はいはい」 『ありがとうございます』
そこで意識は完全に沈んだ。
次に目を開けたとき、柊は知らない天井を見ていた。
「……は?」
まず、木目が違った。自分の部屋の天井じゃない。薄い飴色の板が、朝の光をやわらかく返している。それから、匂いが違った。洗剤でも柔軟剤でもない。乾いた木と、どこか甘い花みたいな匂い。最後に——体勢がおかしかった。
右腕の感覚がない。じんと重く、肩から先だけが自分のものではないみたいだった。
まだ眠気の抜けきらない頭のまま、その理由を確かめようと視線を横へずらし、柊は完全に目を覚ました。
すぐ隣に、女の子が寝ていた。
「………………は?」
しかも近い。近すぎる。鼻先から鼻先まで、たぶん十センチもない。白い頬、長いまつ毛、少しだけ開いた唇。寝息がかかる距離だった。
知らない女の子だった。しかも同じ布団の中だった。柊の右腕は、その子の頭の下にすっかり入り込み、枕として使われている。
「えっ、ちょ」
引こうとして、痺れた腕が言うことをきかない。逆に布団を大きく揺らしてしまった。
少女のまぶたが、ぴくりと震えた。ゆっくりと目が開く。薄い光を含んだ瞳が、数秒ぼんやりと柊を映して——止まった。
「……誰」 寝起きらしい、低くてかすれた声だった。
「いや、こっちの台詞——」 「きゃああああああああ!?」
反応が一拍遅い。だが悲鳴はでかかった。同時に平手が飛んできた。
「痛っ!?」
次の瞬間、柊の視界がひっくり返った。少女が布団ごと暴れ、柊はベッドから盛大に蹴り落とされたのである。
「痛っ! ちょ、待っ、落ち着いて!」 「なんであんたがいるの!?」
「それはこっちの台詞だって!」 「なんで同じ布団!?」 「知らないよ!」
「最低!」 「理不尽だろ!」
床に転がったまま抗議すると、少女は顔を真っ赤にしたまま、布団を胸元まで引き上げていた。さっきまで熟睡していたとは思えない速さで、部屋の隅まで後退している。
寝起きのはずなのに目だけはやたら鋭い。警戒心むき出しの猫みたいだった。
「……誰よ、あんた」 「だから俺も知らないって。ていうかここどこだよ」
「知らない。こっちが聞きたい」 「俺んちじゃないのは確かだけど!」
「私の部屋でもない!」
そこまで言って、二人とも同時に黙った。部屋を見回す。
狭いが小綺麗な部屋だった。木の壁。小さなテーブル。窓辺に見たことのない白い花。ベッドは一つ。扉も一つ。逃げ場も、たぶん一つ。
改めて状況が最悪だった。
「……夢?」 柊が呟くと、 「そうならあんたを殴っても無罪ね」
少女が即答した。 「夢判定の基準おかしいだろ」
「じゃあ現実。もっと最悪じゃない」
確かに。
そのとき、こんこん、と上品なノックの音がした。
二人ともびくっと肩を揺らす。 「失礼。お目覚めでしょうか」
聞き覚えのある声だった。昨夜、夢の中で聞いた声と同じだ。扉が開く。
白髪の紳士が、朝の光を背負って立っていた。年齢の読みにくい、よく整った顔立ち。仕立てのいい灰色のスーツを着て、柔らかな微笑みまで、昨夜とまったく同じだった。
「おはようございます」 その声に、柊は反射的に指をさした。 「あんた!」
「夢の人!」 少女も同時に叫んだ。紳士は穏やかに一礼した。
「おめでとうございます。お二人とも、無事にこちらの世界へ定着されたようですね。私はヴェルナーと申します」
「待ってください」 「ちょっと待ちなさい」 また同時だった。
柊は立ち上がった。少女も布団を巻き込んだまま立ち上がる。二人とも距離を取りつつ、しかし揃ってヴェルナーを睨んでいる。
「俺、昨日たしか自分の部屋で寝てただけなんですけど!?」
「私は学校から帰って普通に寝ただけなんだけど!?」
「なのにどうして知らない部屋で」 「知らない男と」 「同じ布団で」
「寝てるのよ!?」
最後だけまた綺麗に揃った。
ヴェルナーは少しだけ目を細めた。まるで微笑ましいものを見るみたいに。その目の奥に、ほんの一瞬だけ、遠い昔を振り返るような光がよぎった。
「ええ。お二人とも大変よくお似合いです」 「はあ!?」 「は!?」
「ふざけないでください! 俺、そんな契約してませんから!」
「そうよ! 言ったのは異世界で存在をトレースする、でしょ! なんで自我まで来てるの!」
少女のその一言に、ヴェルナーは涼しい顔で頷いた。
「現世のあなた方を、心身ともに健全にする、とも申し上げました」
「……は?」
柊が固まる。ヴェルナーはにこやかに続けた。
「今のあなた方の自我は、現世においていささか不健全にすり減っておりましたので。こちらへ避難していただいた次第です。現世のお身体は、空っぽのまま大変健全な状態で保護されております」
数秒、沈黙が落ちた。 「詐欺だろそれ!!」 「詐欺じゃない!!」
また揃った。 「言葉の意味ずらして騙すの最低!」
「おや、騙してはおりません。説明は正確でした」
「正確なら何してもいいと思ってる!?」 「いいえ。思っておりませんよ」
「絶対思ってる!」
ヴェルナーは一つ咳払いをした。
「では、そろそろ落ち着いて状況説明を——」
「落ち着けるわけないでしょ!」
少女が怒鳴る。その勢いのまま柊を振り向いた。
「あなたも何か言いなさいよ!」 「言ってるだろ! ずっと!」
「もっとちゃんと!」 「無茶言うなよ!」
彼女は数秒、柊を睨みつけた。それから、ぐっと唇を引き結ぶと、ベッドの端をぱん、と叩いた。
「……座って」 「え?」 「座れって言ってんの」
さっきまでの怒鳴り声とは違う、低くて短い声だった。
少女は一度深く息を吸い、腕を組んだ。「話す」
柊はヴェルナーを見た。ヴェルナーは穏やかに微笑んでいるだけだった。助ける気はなさそうだった。
仕方なく、柊はベッドの端に腰を下ろした。少女も反対側に、きっちり距離を空けて座る。腕は組んだまま、足を床に揃えて、顔はまだ赤い。それでも妙に姿勢がいい。
「確認する」 少女は指を一本立てた。「私とあなたは昨日まで他人」
「うん」 「今は知らない部屋にいる」 「うん」 「しかも同じ布団で寝てた」
「……うん」 「最悪ね」 「そこは同意する」
少女はこくりと頷いた。「次。あの人は信用できない」 「うん」
「でも状況を説明できるのはたぶんあの人だけ」 「……それも、うん」
「つまり」
少女は短く息を吸った。
「話を聞くしかない」
柊は思わず感心した。「すごいな。ちゃんとしてる」 「当たり前でしょ」
「いや、さっきまで俺を蹴ってたから」 「それは蹴るでしょ」
「理不尽だなあ」 「理不尽なのは全部そっちよ!」
また言い合いになりかけたところで、ヴェルナーが柔らかく割って入る。
「お二人とも、実に息が合っていらっしゃる」 「合ってません!!」
見事なくらい、また揃った。
ヴェルナーの話の要点はこうだった。
ここは異世界であり、柊と少女は現世から存在をトレースされ、この世界へ移送された。当面はとある村に滞在し、生活を送るよう手配してある。
「ただし、お二人には『夫婦として』暮らしていただきます」 「……は?」
「なんで夫婦なんですか」
柊が質問すると、ヴェルナーは微笑んだまま答えた。
「相性の問題です。お二人の組み合わせは、この世界で非常に効果的に機能する。それに、身寄りのない若い男女が単独で暮らすより、夫婦という形をとった方が、村への溶け込みもスムーズです」
「意味がわかりません」 「追々、ご理解いただけるかと」 「今わかりません」
「今は生活に慣れることが最優先です」
のらりくらりしている。
柊は少女を見た。少女も柊を見ていた。
(信用できないな)
声には出さなかった。でも、なぜか伝わった気がした。少女も同じ目をしていたから。
「……澪」 少女が不意に言った。 「え?」 「名前。神波澪」
ぶっきらぼうな、値踏みするような言い方だった。
「……柊。日野柊」 「ふーん」
それだけだった。ありがとうも、よろしくもない。でも、なぜかそれで十分な気がした。
村へ向かう馬車の中で、澪はずっと窓の外を見ていた。
景色は悪くなかったが、山の稜線も空の色も、どこか見知らぬ角度をしていた。
「……あの紳士のこと、信用してないよな」
柊が言うと、澪は窓から目を離さないまま言った。
「当然でしょ。でも今は動きようがない」
「夫婦設定の理由、あれだけじゃないと思う」 「絶対ある」
二人の意見が珍しく噛み合っていた。澪は一度だけ柊を品定めするように見て、それから前に向き直った。
「……帰れると思う?」
少しして、澪が静かに聞いた。窓の外を見たまま、声が少し小さかった。さっきまでの刺々しさとは違う声だった。
「帰る。絶対」 「根拠は」 「ない。でも帰る」
澪はそれを聞いて、何も言わなかった。ただ、少しだけ唇を引き結んだ。そのまま、また窓の外へ視線を戻す。
案内された村は、石造りの家が斜面に並ぶ、穏やかな場所だった。
馬車を降りると、栗色の髪を後ろで結んだ若い女性が駆け寄ってきた。
「あ、来た! 新しい夫婦さんだ!」
「夫婦さん」という単語に、柊と澪は同時に固まった。
「レムです! よろしくね」 「夫婦じゃないです」
「夫婦でも、知り合いでもないです」 「ふうん」
レムはあっさり受け入れた。「でも管理局から夫婦として登録されてるから、まあそういうことにしといてね。村の人にも説明済みだし」
澪が低い声でため息をついたとき、別の声が飛んできた。
「なんで夫婦なんだよ」
少し離れたところで、腕を組んだ少年が立っていた。十代後半くらい。ぼさぼさの髪に、人を食ったような笑顔。
「ゼンです。こいつと旅してきた」
レムがゼンを指した。ゼンは肩をすくめた。
「まあ、こっちの世界あるあるだよ。管理局の言うことは半分くらい意味わかんないから。死なない程度に頑張って」
案内された家は、小さかった。居間と台所と、部屋が一つ。
部屋が一つ。
「……部屋が一つ」
柊が確認すると、澪は口を一文字に結んで荷物を床に下ろした。
部屋の中央に歩いていく。立ち止まる。台所から細い炭を持ってくると、床の上にすーっと一本の線を引いた。
まっすぐ、部屋を半分に分ける線を。
「こっちが私の領域。そっちがあんたの。越えてきたら承知しない」
「いきなり領土宣言かよ」 「文句ある?」 「……ないです」
思わず敬語になった柊を見て、澪は少しだけ鼻を鳴らした。勝ち誇ったような、でも満足そうな顔だった。
澪は立ち上がって、荷物を自分の領域に移動させた。几帳面に。
柊は自分の荷物をそちらに置きながら、思った。
(この人、怒ってるんじゃなくて、ちゃんとしようとしてるんだな)
刺々しいけど、適当じゃない。不安を、ルールを作ることで整えようとしている。
「……ご飯は作れる?」 「インスタントと、簡単な炒め物くらい」
「私の方がたぶん作れる。交代でやる。食べた方が片付ける。文句は言わない。それだけ」
「……了解」 「返事が遅い」 「了解!」 「よろしい」
その夜。
柊は自分の「領域」に敷かれた布団に横になって、天井を見ていた。
暗かった。異世界の夜は、街灯がないぶんずっと暗い。
境界線の向こうから、澪の寝息が聞こえた。寝るのが早い。
柊は天井を見続けた。
(帰る。絶対)
馬車の中で澪に言った言葉を、もう一度繰り返した。偽夫婦なんて冗談じゃない。
でも。
異世界の夜は静かだった。風の音がする。どこか遠くで虫が鳴いている。
そして何より奇妙なのは、知らない部屋の知らない天井を見上げ、隣に昨日まで他人だった少女が寝ているこの状況が、なぜか薄く自分の輪郭に馴染み始めている気がすることだった。
隣の寝息が、少し深くなった。
柊も目を閉じた。明日の朝、どんな顔をして起きればいいのか、まだわからなかった
朝食と買い出し
目が覚めたとき、柊はまず天井ではなく床を見た。
寝返りを打った拍子に、昨夜澪が炭で引いた境界線を踏み越えそうになっていたからだ。
「ちょっと」
低い声が飛んできて、柊は反射的に身を止めた。
「……踏むとこだった」 「見ればわかる」
寝起きの鈍い頭のまま顔を上げると、澪はもう起きていた。髪を後ろでひとつにまとめ、袖を軽くまくって、台所で何かを煮ている。朝の薄い光が横顔に落ちていて、昨夜みたいな険しさは少し薄い。その代わり、妙にしゃんとして見えた。
柊はあくびを噛み殺しながら、線の手前で上半身を起こした。
「……朝から厳しいな」 「最初が肝心だから」 「その理屈、だいぶ——」
「黙って顔洗ってきて」
ぴしゃりと遮られた。言い返す間もなく、台所の方を顎でしゃくられる。
柊はぼんやりとその背中を見た。「……作れるのか」
「昨日も言ったでしょ」
言ってたけど、本当にやるとは思っていなかった。木皿の上には温めたらしい丸パンと、刻んだ野菜の入った汁物、香草みたいなものを混ぜた卵まで並んでいる。異世界の食材なので見慣れない部分はあるが、少なくとも「朝食」としてはかなりちゃんとしていた。
澪は皿を一つ、少し乱暴に置いた。「座って」 「はいはい」
言われるまま卓につく。向かいに澪が座った。
とりあえず汁物を一口飲んだ。温かかった。塩気は少し薄めだが、寝起きの腹にはちょうどいい。
「……普通にうまい」
澪がぴたりと止まった。匙を持つ手だけが、わずかに固まる。
「そう」 「うん」
もう一口飲む。少し間が空いてから、柊は付け足した。
「ありがと」
今度は澪が完全にこちらを見た。
「……別に。取り決めだっただけ」
そっけない言い方だったが、耳の端が少し赤い。しかも、すぐ視線を皿に戻した。照れ隠しにしては動作が早すぎる。
柊はそれ以上は言わなかった。ただ、昨夜よりはほんの少しだけ、この部屋の空気がましになった気がした。
食後、澪が食器を手早く片づけている間、柊は戸口のそばに置いてあった履物に目を留めた。
片方が少しずれていたのを見つけると、澪は無意識みたいな自然さで向きを揃え、きちんと並べ直した。
「……そういうの、ちゃんとしてるんだな」
思わず口にすると、澪の手が止まった。
「悪い?」 「いや。別に」
澪は少し不思議そうな顔をしたあと、また戸口のほうへ向き直った。
「……昔から、そうしてただけ」
それだけ言って、口を閉じた。続きは出てこない。
「まあ、そういうのはわかる」
柊が返すと、澪はちらりとこちらを見た。何か言いかけたように唇が動いたが、結局飲み込んだ。
「行くわよ」 「はいはい」
二人で戸を開ける。
外へ出た瞬間、朝の空気が一気に肌に触れた。冷たいというより、澄んでいる。
斜面に沿って並ぶ石造りの家々。細い煙が屋根の向こうへ立ち上っている。
少し歩くと、明るい声が飛んできた。「あっ、おはよう!」
レムだった。籠を抱えて小走りでやってくる。「おはよう。二人とも、これから村を回るんでしょ? 案内するよ。ヴェルナーさんに頼まれてるし」
村の道は、見た目より起伏があった。家々の間を縫うように細い石畳が続き、ところどころ斜面に沿って坂になっている。
「こっちが井戸。朝はみんなここに来るよ」
井戸の周りでは年配の女の人達が水桶を運びながら話していた。こちらに気づくと視線が向く。
「あら、新しいご夫婦さん?」 「若いわねえ」
柊は思わず口を開きかける。
「違——」 「そういうことになってます」
澪のほうが先に、少し固い声で答えた。
柊はそちらを見た。澪は表情を崩していない。今ここで否定して説明を始めるより、そのまま流したほうが面倒が少ないと判断したのだろう。
「……まあ、そういうことです」
自分も合わせる。井戸端の女性たちはにこやかに頷いた。
「仲良くね」「若いっていいわあ」
井戸を離れてから、柊が小声で言った。「助かった」 「何が」 「さっきの」
「面倒だったから」 「……でも助かった」
澪は一瞬だけこちらを見た。何も言わない。だが、そのまま前を向いて歩く足取りが、ほんの少しだけやわらいだ気がした。
レムに案内されて、村の小さな市場で買い出しをした。
見慣れない野菜や、少し硬そうなパン、干し肉などを買う。
市場を出たところで、柊は澪の持っている袋を見た。思ったより重そうだった。
「貸せよ」 「平気」 「重いだろ」 「だからって勝手に取らないで」
「まだ取ってない」 「取ろうとした」 「持とうとしただけ」
「言ってからにして」
柊は少し考えた。
「……半分持つ」 「最初からそう言えばいいでしょ」
澪は袋を片方差し出した。柊が受け取る。手が少しだけ触れそうになって、お互いにすっと引いた。
しばらく並んで歩く。風が吹いて、袋が少し揺れた。
「何か食べたいものある?」
不意に、澪が前を向いたまま聞いた。
「なんでもいい」
柊が深く考えずに答えると、澪の足がぴたりと止まった。
「……それ、一番困る」 「え」
「なんでもいいって言われると、こっちが全部決めることになるでしょ」
「その方が楽かと思って」 「私が困るの」 「なんで」
「考えるの、私ひとりになるから」
柊は少し黙った。気を遣ったつもりだったが、完全に裏目に出たらしい。ただ文句を言っているのではなく、「一緒に生活を回す」ことを放棄されたようで腹が立ったのだとわかる。
「……じゃあ」 「じゃあ?」 「シチュー」
澪が顔を上げる。
「朝のあれ、うまかったから」 少し間があった。
「……最初からそう言いなさいよ」 「怒るかと思って」 「今も怒ってる」
「ほら」
澪はぷいっと前を向いて歩き出した。でも、その歩幅はさっきより少しだけ軽かった。
夕方、家に戻ってくると、柊は軽く息をついて荷物を下ろした。「……疲れた」
「一日中『新婚さん』扱いされた方はもっと疲れてるわよ」 「お前もだろ」
「私の話はしてない」
澪は手早く買ってきたものを整理し始める。それから、台所の奥にある小さな洗い場の方へ向かった。
「お湯わかしてある。先に入りなさい」
柊は目を丸くした。「え、いいのか」 「汚れてるから先どうぞ」 「言い方」
「事実でしょ。早く行って、冷める」
それだけ言って、もう背中を向けている。
柊は黙った。ぶっきらぼうな言葉の奥に、確かな気遣いがあるのがわかる。
「……ありがと」 「聞こえなかった」 「ありがとうございます」
「よろしい。早く行って」
夜。
明かりを小さく落とした部屋は、昨日よりずっと生活の匂いがしていた。
柊は自分の布団の上に座り、窓の外をぼんやりと見ていた。
そのときだった。かん、かん。
遠くから、金属を打つような音がかすかに聞こえた。鍛冶場か何かの音だろうか。だが、その音のすぐ下を這うように、ごく微かな、低く唸るような振動が混じっている気がした。耳ではなく、床板を通して足の裏に伝わってくるような、名づけようのない揺れ。
柊が眉をひそめて顔を上げると、境界線の向こう側で、澪も布団の上に起き上がっていた。
彼女の視線は、音のする方角——村の奥へとまっすぐ向けられている。
「……聞こえたか?」 柊が小声で尋ねる。
澪はすぐには答えなかった。ただ、その横顔には、昼間の買い出しのときに見せていたような生活のやわらかさはなく、ピンと張りつめた緊張があった。
「……この村、何かある」
独り言のような、かすかな声だった。夜の風が窓を揺らす。
二人の間に引かれた炭の境界線は、もう昨日ほど絶対的な壁には見えなかった。だが、窓の外の暗闇の奥で、まだ見えない何かが確実に息を潜めていることだけは、二人とも同時に感じ取っていた。




