唯一の望みと、崩壊の部屋
扉の前で、ヴェルナーは静かに足を止めた。 低い破裂音がした。
建物の内側から。一度だけ。 それから、不気味なほど静かになった。
「お久しぶりです」
扉越しに、声がした。ひどく落ち着いた、狂気すら感じさせる静かな声だった。
「わが友よ。今、捕らえました」
ヴェルナーは、冷たい金属の取っ手に手をかけた。
「……無駄だ。やめておけ」 「それが、あなたの唯一の望みでは」
ヴェルナーは答えなかった。ただ、ゆっくりと重い扉を開けた。
古びた板張りの床だった。
凄惨な光景が広がっていた。バラバラに破壊された機械の腕が落ちている。無惨に引き裂かれた胴体が転がっている。千切れた配線が黒く焼け焦げ、まだかすかに鼻をつく白煙を上げていた。
その部屋の奥に、男が座っていた。
テーブルの上に、頭部が一つ置かれている。金属と有機物が不気味に混在した、異形の頭部だった。
男はそれを前に、静かに座っていた。足を組み、両手を膝の上できちんと揃えて。
扉が開いても、男はヴェルナーの方を向かなかった。
「ご覧あれ」
男がテーブルの上の頭部を見つめたまま、独り言のように言った。
部屋の中に、何かがあった。
目に見える形はなかった。でも、確かにそこにあった。重い圧のようなもの。空気の密度そのものが歪んでしまったような、圧倒的な異物感。テーブルの異形の頭部を中心に、目に見えない力が静かに渦巻いていた。
男が、そこで初めて顔を上げた。
ヴェルナーを見たその目は、ひどく静かだった。怒ってもいない。恐れてもいない。ただ、自らが成し遂げた「結果」を純粋に見ていた。
部屋が、静まり返った。
窓の向こう、遠くから虫の声だけが微かに届いている。それだけだった。
しばらくして。 「……あ」 男の声が、唐突に変わった。
「ぁ……あ……」
綺麗に揃えられていた手が痙攣し、テーブルの縁を乱暴に掴んだ。
「ぁあああああ——」 絶叫。
手から何かが滑り落ち、カシャン、と金属が落ちる音がした。甲高い音が、板張りの床に冷たく響く。
男が頭を抱え込んだ。 そのまま椅子から崩れ落ちる。
床に倒れ伏し、痙攣が止まり——完全に、動かなくなった。
静寂。 ヴェルナーは、一歩も動かなかった。
表情一つ変えず、扉の前に立ったまま、倒れたかつての「友」を静かに見下ろしていた。
しばらくして、視線をテーブルの異形の頭部へ移す。
頭部は、もう何の圧も放っていなかった。わずかな光すら失い、ただの不気味な残骸としてそこにあった。
ヴェルナーは、静かに扉を閉めた。 廊下に出る。
歩み出そうとして、その革靴がぴたりと止まった。
振動が来た。 足の裏から。建物の分厚い床を通じて。
遠く、海の底のさらに深くから這い上がってくるような、低く、重苦しい駆動音だった。
ゴウ……。一拍。
ゴウ……。また一拍。 ひどく規則的だった。
心拍に似ていた。だが、決して人間のものではない。もっと途方もなく巨大な、次元の違う何かの鼓動。ヴェルナーは、ゆっくりと目を閉じた。
その地の底からの振動を、足の裏で静かに受け取る。
「……始まりましたね」 声には出なかった。ただ、唇だけが形を作った。
再び歩き出したヴェルナーの足音が、薄暗い廊下を遠ざかっていく。
やがて、それも完全に消えた。
誰もいなくなった部屋には、床に落ちた金属の冷たさと、焦げた配線の匂い、そして遠くから響き続ける低い振動だけが残っていた。
その不気味な振動は、夜が明け、都市が朝の光に包まれても、決して止まることはなかった。




