喪失の記憶と、選択の朝
深い闇の中だった。 けれど、不思議と冷たさは感じなかった。
身体が動かず、声も出ない。それでも、澪は自分が「誰かの夢」の中にいるのだと、はっきりと理解していた。 視界が開ける。
小さな、絵本に出てくるような部屋だった。机の上で、青い硝子のランプが静かに灯っている。青白い光が、磨かれた木の床と、壁の棚に柔らかく落ちていた。窓の外は夜だった。でも、寒さはなかった。
棚には、無数の模型が並んでいた。木の鳥。真鍮の歯車。小さな馬車。どれも丁寧に作られたものだった。机の端に、古びた木箱のオルゴールが置かれていた。蓋を開けたまま、低く鳴っていた。欠けていない、澄んだ旋律だった。
揺り椅子に、一人の男が座っていた。
白髪の紳士ではない。三十代半ばほどの、若い男だ。少し癖のある髪が乱れていたが、その瞳はひどく穏やかだった。膝の上で、古びた本を開いている。その横顔が、どこかで見覚えのある輪郭をしていた。澪はそう感じた。けれど、誰かまでは、たどり着かなかった。
寄り添うように、女が横に座っていた。男の肩に頭を預け、同じ本を覗き込んで、幸せそうに笑っていた。
「パパ!」
無邪気な子供の声が響いた。小さな女の子が走ってきて、男の膝に飛び込み、読んでいた本を無理やり閉じさせる。男が困ったように笑った。女も声を上げて笑った。
女の子の腕の中には、艶のある黒い木で彫られた、小さな犬の模型があった。彼女はそれを、机の端に丁寧に置いた。そして、「よしよし」と頭を撫でた。
「クロちゃん、聞いてる? オルゴール、今日もちゃんと鳴ってるよ」
そう言って、また笑った。
温かかった。
青いランプの光と、オルゴールの旋律と、その笑い声だけで、部屋は満ちていた。過酷な世界から切り取られた箱庭みたいに、ただひたすらに温かかった。
その時、澪は気づいた。
女の子の笑い声の奥に、わずかに別の音が混じっていた。犬の、くぐもった鳴き声だった。遠くから、助けを呼ぶような鳴き声。
その音は、だんだん近づいてきた。オルゴールの旋律が、わずかに欠け始めた。青いランプの光が、揺れた。
女の子が立ち上がった。笑顔のまま、窓の外を見た。その表情が、ゆっくりと強張っていった。
「クロちゃん!」
「……っ!」 澪は弾かれたように目を開けた。 白い天井だった。
澪は重い上半身を無理やり起こした。頭が芯から痛み、身体が鉛のように重い。
でも、目は完全に覚めていた。
「お目覚めですか」 すぐ横から、静かな声がした。 ヴェルナーだった。
傍らの椅子に座り、澪を見ていた。いつもの仕立てのいいスーツ。いつもの柔らかな微笑み。ただ今朝だけは、その瞳の奥の色が少しだけ違って見えた。
「クロが」 澪は渇いた喉から声を絞り出した。
「……今、内山さんのところにいます」 ヴェルナーが短く答えた。
澪は黙った。夢の中で聞いた犬の悲鳴が、まだ耳の奥にこびりついて離れない。
「あの夢は」 「……見ましたか」 「誰の記憶ですか」
ヴェルナーは少しだけ沈黙を落とした。 「…私のものでもあります」
澪は布団を払い、立ち上がろうとした。足に力が入らず、ふらつく。
「まだ休んだ方が——」 「クロのところへ行きます」
有無を言わさぬ声だった。ヴェルナーは、それ以上止めなかった。
澪は冷たい床にしっかりと足をつけた。窓の外の光を見る。
「ヴェルナーさん」 「なんですか」 「柊は」
「もう、バロウのところへ行きました」 澪の目が、少しだけ細くなった。
「……そうですか」
驚きはしなかった。あの馬鹿で不器用な相棒なら、絶対にそうすると思っていたからだ。
「心配ですか」 澪は答えなかった。 ただ、ベッドから完全に立ち上がった。
「行きます」 扉へ向かう足は、最初は頼りなくふらついていた。
でも、病室を出て廊下を歩き出す頃には、その足取りはもう真っ直ぐに、力強く前だけを踏みしめていた。
扉が閉まった。 一人残されたヴェルナーは、澪の消えた扉をじっと見ていた。
しばらく、その場から動かなかった。




