狂気と正義
組合ビル上階 バロウ応接室
高級車は音もなく、都市の夜を滑るように走った。
内山は窓の外を見ていた。高度を上げるにつれて、都市の景色が変わっていく。下の層で蠢いていた雑多で生々しい光が次第に消え、冷たく整然とした白い光だけが眼下に広がっていく。
クロは内山の膝の上で、静かに伏せていた。青銀の光が、低く、しかし確かな意志を持って脈打っている。
「着きました」 無人のように静かだった運転手が、初めて口を開いた。
都市の頂点に君臨する、組合ビルだった。
外観は無機質な高層ビルに過ぎない。だが、入り口を固める警備員の様子が異様だった。全員が一寸の狂いもない同じ姿勢で立ち、その瞳には感情の欠片も宿っていない。空っぽの器たちが、ただそこにあるだけだった。 クロが内山の後から降りる。
正面のエレベーターではなく、灰原から得た情報の通り、保守用の昇降路を使って静かに上階を目指す。最上階に出た。
廊下は死んだように静かだった。足音が完全に吸い込まれる分厚い絨毯。壁には歴史的な名画が掛けられているが、どの絵からも温度が感じられない。
最奥の重厚な扉の前に立つと、ノックをする前に内側から声がした。
「どうぞ」 部屋は、異様なほど広かった。
壁の一面がすべてガラス張りになっており、眼下には巨大都市の夜景がジオラマのように広がっている。その中央の豪奢なデスクの向こうに、一人の男が座っていた。
五十代半ばか。仕立ての良い白いスーツに、銀縁の眼鏡。髪は一糸乱れず丁寧に整えられている。机の上には、アンティークのティーカップが二つ。用意されていたかのように、微かな湯気が立っていた。「ようこそ、先生」 穏やかな声だった。
怒鳴らない。急かさない。ただ、圧倒的な余裕を持ってそこにいる。灰原の言葉が、内山の頭をよぎった。その穏やかさが、一番怖い。
「バロウ」 内山が鋭く名を呼ぶ。「ええ」バロウは静かに頷いた。「お座りください。冷めますよ」
内山は座らなかった。
クロをゆっくりと床に下ろす。クロはバロウを真っ直ぐに見た。唸らない。ただ、じっと見据えている。毛並みに走る青銀の光が、細く、鋭く脈打っていた。
「お分かりになっている事ばかりでしょうけど」バロウは内山の拒絶を気にする風もなく言った。「何か聞きたいことはありますか、先生」
「西の蜂起」内山が言った。「あれもお前らか」
バロウはふっと、小さく笑った。
「ただのビジネスですよ。片田舎の領主に何ができるはずもない。まあ、目くらまし程度にはなりましたがね」
「目的は何だ」内山が言った。「小物が刈られてるくらいで怖気づいたわけでもあるまい。今更」
バロウは優雅な仕草でティーカップを持ち上げた。一口飲む。それから、ガラス越しの夜景へと視線を移した。
「あの競技場の暴走、事故だったと思いますか、先生」 内山は答えなかった。
「実験です」バロウの顔から、笑みが消えなかった。「七塔を掌握するための予備試験と、使える個体の選抜。二つ同時にやりました」
バロウは窓の外の都市の光を見た。「感情は、扱い方さえ誤らなければ、この上なく上等な燃料になります。海水からですら、力を引き出せるのですよ」
「七塔を取ってどうする」 「管理します」
バロウは窓の外を見たまま、淡々と言い放った。
「傲慢。怒り。虚栄。悲しみ。醜すぎる。うんざりです。この世は完全に管理統治されるべきなのですよ、先生。感情があるから争いが起きる。感情があるから弱者が生まれる。感情があるから……あなたのような医者が必要になる」
「……」
「感情を管理すれば、誰も傷つかない。誰も失わない。完璧な世界です」
「それは、お前の言葉か」内山が静かに言った。
バロウは微笑みを崩さなかった。
「正しければ、誰の言葉でも構わない。私はこの都市の管理を任されている。絵図そのものは、もっと奥で描かれたものです」
内山の目が、一瞬、冷えた。
「狙いは電波塔か。この話は届いているぞ」 「構いません」
バロウが、ゆっくりと振り返った。 「もう、始まりましたから」
沈黙が落ちた。
バロウはティーカップを置き、銀のシガレットケースから煙草を取り出した。火をつける。一口吸って、紫煙を細く吐き出した。
しばらくして、その冷たい視線がクロへと移った。 「それにしても」
声は、どこまでも穏やかだった。 「見事な作品ですね。何よりも自然だ」
内山の目が、剣呑に鋭くなる。
「島の研究所の作品でも、これほど自然に融合しているのは他にない」バロウは微かに目を細めた。
「今なら戻れますよ。我々の楽園に」内山は言葉を発さず、ただ静かに睨み据えた。
「……まあ、いいでしょう」バロウは灰皿に煙草の灰を落とした。
「どのみち、あなたは必要ない」その瞬間。 ギィ、と不快な音が鳴った。
部屋の隅に、いつの間にかアンティークの鳥かごが置かれていた。その中で、森で見たあの極彩色の小鳥が、金属の止まり木の上で激しく震えていた。
「ギ、ギギギ」 一度。二度。 三度目の声は、出なかった。
小鳥の身体が、ぐらりと傾く。止まり木から真っ逆さまに落ち、かごの底でピクピクと痙攣し、やがて完全に動かなくなった。バロウは鳥かごには目もくれなかった。
内山の目が、一瞬だけ細くなった。森でダイスの最期を見届けてから飛び去った、あの鳥だった。都市の広場で枝先に止まっていたのも、同じ鳥だ。監視の目が一つ、役目を終えて落ちた。
バロウは、デスクの奥の豪奢な木製パーティションを見つめていた。
低い音が来た。
壁の向こうから。床の下から。建物の骨組みそのものが軋むような、重く禍々しい駆動音だった。
ゴゴゴゴゴ……。 パーティションが左右に開いた。 それが出てきた。
四足歩行だった。だが、決して犬や獣などではない。
前肢が異常に太く、装甲のような硬質な皮膚に覆われている。頭部は不気味なほど大きく、脈打つ皮膚の下で、高圧電流のような赤黒い光が蠢いていた。そして、目が二つあるべき場所に、カメラのレンズのような巨大な赤い単眼が一つ、不気味に光っていた。
「完成品のお披露目です」 バロウが、初めて楽しそうに言った。
「容姿は私の趣味ではありませんが」
キメラが動いた。
一歩。二歩。その足音が絨毯を踏みしめるたび、床が微かに震える。
クロが、前に出た。内山が制止するより速かった。
青銀の光が全身を激しく走る。骨格がミシミシと音を立てて変形し、前肢が猛獣のように伸び、爪が鋭利な刃となって飛び出す。
キメラが、バネが弾けるような速度で跳んだ。 クロも跳んだ。
空中で、赤黒い光と青銀の光が激突した。 ドガァァァンッ!
凄まじい衝撃波が部屋を吹き抜けた。バロウのデスクが真っ二つに割れ、ティーカップが粉々に砕け散る。分厚い防弾ガラスの窓に、蜘蛛の巣状のひびが走った。
クロが着地する。その横腹が、激しい息継ぎで大きく波打っていた。前肢からわずかに血が滴っている。だが、その金色の目は死んでいない。
弾き飛ばされたキメラが、無傷のまま体勢を立て直し、再び単眼を赤く光らせる。
クロが、人の言葉にならない咆哮で内山を庇うように立ち塞がった。
だが、内山は一歩も下がらなかった。
キメラが、さらに速度を上げて再び跳躍した、その瞬間。 ドゴォォォンッ!!
部屋の重厚な扉が、外側から爆発したように吹き飛んだ。
土煙の中から、バロウの余裕を切り裂くような声が飛んだ。 柊だった。
肩で激しく息を切らし、服は泥と煤で汚れきっている。だが、その目は獰猛な獣のように笑っていた。
「遅いですよ。ご主人」
「うるさい」 柊は手にした鉄パイプを、肩に担ぐようにして構えた。
巨大なキメラを見た。傷ついたクロを見た。そして、静かに立つ内山を見た。
「状況は」
「キメラと一対一だ」内山が短い言葉で現状を叩き込む。「クロが消耗している」
「バロウは」 「俺が見る」 柊が頷いた。
「じゃあ、デカブツは任せます、先生」
柊が言い終わるより早く、キメラが標的を柊に変えて襲いかかってきた。
赤い単眼が不気味な軌跡を描き、丸太のような前肢が柊の頭上から振り下ろされる。
柊は躱さなかった。正面から、鉄パイプを両手で構えて受け止める。
ガキィィィンッ!!
火花が散る。重い。想像を絶する質量が、腕の骨から背骨まで容赦なく響く。膝が沈みそうになる。
だが、足は一歩も引かなかった。
「奥様がいないと……弱点の解説役がいなくて困るんですよねぇっ!」
柊が歯を食いしばりながら叫んだ。 「クロ!」
その声に応えるように、クロが低い姿勢からキメラの死角へと潜り込んだ。
青銀の光を纏った鋭い爪が、キメラの無防備な側面の装甲を容赦なく引き裂く。嫌な金属音が響き、赤黒い光の飛沫が散る。
キメラの巨体が、バランスを崩して一瞬だけ大きくグラついた。
柊が、その一瞬の隙を見逃さず、沈み込んでいた足に爆発的な力を込めて踏み込んだ。
腰の捻りを効かせた、渾身のフルスイング。 ドゴォォォンッ!!
パイプがキメラの巨大な頭部に直撃し、不快な打撃音が部屋中に鳴り響いた。
傍らで。バロウは、自らのデスクが吹き飛んでもなお、その場から一歩も動いていなかった。
砕けた窓の外を見ていた。都市の光が、相変わらず冷たく、整然と広がっている。
「……先生」
バロウが、背を向けたまま静かに口を開いた。背後の轟音など、まるで聞こえていないかのようだ。
「感情があるから、あなたは今、こんな危険な場所にいる」
「そうだな」内山が短く応じた。
「感情があるから、かつて患者を救えなかった夜を、未だに無様に引きずっている」
「そうだな」
「感情があるから……そんな失敗作の犬を拾い、情けをかけた」
内山は答えなかった。
バロウが、ゆっくりと振り返った。その顔には、先ほどまでの余裕はない。ただ、理解できないものを見るような、冷たい軽蔑があった。
「それが、すべて無駄だとは思いませんか」 「思わない」 「なぜです」
内山は、その醜い機獣に立ち向かっているクロの方を一瞬だけ見た。
「無駄だったとしても、俺はそうする。それだけだ」
バロウは、忌々しそうに目を細めた。 「……非効率ですね」 「ああ」
「それが、人間の限界です」 「そうかもしれないな」
内山は、バロウへ向かって一歩前に出た。
「でも、それはお前には一生わからない答えだ」
バロウの完璧な仮面が、初めて僅かに歪んだ。
怒りではなかった。動揺、あるいは恐怖に似た何かが、一瞬だけその顔の奥を走った。
それが何かを確かめる前に、柊の切羽詰まった声が飛んだ。 「先生!こっち、そろそろヤバい!」 内山は視線をバロウから鋭く切った。 振り返る。
クロが限界だった。
青銀の光が、さっきより明らかに弱々しく明滅している。前肢は血に染まり、息も絶え絶えだ。それでも、這い上がろうとするキメラの前に、決して退かずに立ち塞がっている。
「クロ!」 内山が走った。 その掌から、眩い癒やしの光が滲み出す。
クロの傷だらけの身体に触れた瞬間、弱まっていた青銀の光が、内山の力を吸い上げて一度だけ太陽のように強く輝いた。
最後の、命を燃やすような力だった。 クロが跳んだ。
青い流星となったクロの爪が、キメラの分厚い胸部装甲を紙のように貫き、深々と突き刺さる。
キメラの内部で、心臓部にあたる何かがショートし、焼け焦げる凄まじい音がした。
赤黒い光が四散する。
キメラの巨体が、痙攣を繰り返し、やがてドスンと音を立てて崩れ落ちた。
完全な静寂が、部屋に落ちた。 クロが、内山の足元に力なく倒れ込んだ。
呼吸はある。だが、その毛並みを覆っていた美しい青銀の光は、完全に消え失せていた。
「クロ」 内山がしゃがみ込み、その頭をそっと撫でる。
クロは薄く目を開けていた。内山の手の温もりを感じるように、尻尾が、パタン、と一回だけ動いた。
それだけだった。 ただの、黒い犬に戻っていた。 「……無理させたな」
内山の声が、少しだけ低く、震えていた。 柊が肩で息をしながら横に来た。
膝をついて、光を失ったクロを見た。戦い抜いた小さな相棒に、何も言葉をかけられなかった。ただ、奥歯を強く噛み締めた。
割れた窓の外では、都市の光が相変わらず冷たく輝いていた。
振り返ると、バロウはいつの間にか姿を消していた。
床にかすかな燐光の痕が、壁際まで一筋続いている。自分の足で逃げたのではない。島の手が、必要な部分だけを拾い上げて、持ち去ったのだ。
ただ、彼の座っていた豪奢な椅子だけが、空のままそこに取り残されていた。灰皿の縁で、吸いかけの煙草が細く煙を立てている。




