ひとつだった魂
病院の廊下は、都市の狂騒が嘘のように静まり返っていた。
深夜という時間帯もあるが、まるでここだけが世界から切り離されているかのようだ。足音を殺して歩く必要もないのに、柊は自然と足音を忍ばせていた。
病室の扉を、そっと開ける。
薄暗い部屋のベッドで、澪は静かに眠っていた。
昼間のあの激しい暴走や、不気味な旋律に苦しんでいた姿が嘘のように、ただ穏やかな寝息を立てている。その顔を見て、柊の胸の奥で固く結ばれていた何かが、ゆっくりと解けていくのを感じた。
傍らに、椅子が一つ置かれていた。 そこに、ヴェルナーが座っていた。
いつもの仕立てのいい灰色のスーツ。いつもの柔らかな微笑み。だが今夜は、その完璧な微笑みが、病室の薄明かりのせいか、いつもより少しだけ疲労の色を帯びて見えた。
「……来ましたか」 ヴェルナーが静かに口を開く。 「ああ」
柊はヴェルナーを一瞥し、そのまま澪のベッドの反対側へ回り込んで立った。眠る澪の顔をじっと見つめたまま、ぽつりと言った。
「あの男が言ってたよ」 「どの男ですか」
「ダイスって奴だ。女を巻き込むのは最低だってな」
柊の言葉の裏には、澪をこんな危険な目に遭わせてしまったことへの、不器用な自責の念が滲んでいた。ヴェルナーは少しだけ間を置いた。
「彼女は、そう思っているでしょうか」 柊は答えられず、黙った。
澪の顔を見る。静かに眠っている彼女からは、当然だが返事はない。ただ、彼女がこれまで見せてきた覚悟や、背中を預けてくれた手の熱を思えば、「巻き込まれた」などと思っていないことくらい、柊にもわかっていた。
「……回復、するよな」
「ええ」ヴェルナーは即座に言った。「必ず、帰ってきますとも」
それはただの慰めではなく、絶対の断言だった。その声に一切の迷いがないことを確かめ、柊は少しだけ長く、安堵の息を吐いた。
しばらく、誰も言葉を発しなかった。病室には、規則的な電子音と澪の寝息だけが響いている。
やがて、柊はずっと心の底に澱んでいた疑問を口にした。 「どうして」
「……」 「俺たちだったんですか」
ヴェルナーは答えなかった。柊は続ける。
「俺たちには、世界を救うような強い正義感があるわけでも、この異世界への使命感があるわけでもない。自分の部屋で、半分眠ったまま適当に頷いただけの俺たちを……なんで呼んだんですか」
「あなたはどう考えますか、柊さん」
問いを返され、柊は澪の顔を見つめたまま、自分たちに起きた数々の不可解な出来事を思い返した。言葉を交わさずとも通じ合う思考。互いの死角を補い合うような完璧な同期。まるで、最初からそうなるように作られていたかのような——。
考えているうちに、ふと、ある直感が口からこぼれ落ちた。
「……もともと、ひとつだったのかな」
ヴェルナーが、ぴたりと静かになった。 「そう思えますか」
「わからない」柊は少し戸惑いながら言った。「ただ、なんか、そんな気がしたんだ。根拠は全然ないけど」
沈黙が落ちた。
柊はふと我に返り、気恥ずかしさに顔を熱くしてヴェルナーを見た。
「あ、いや……今の、澪には絶対言わないでくださいよ」 「え?」
「なんか、柄にもなく恥ずかしいんで。そういうくさい台詞を澪に直接言うのは、まだ……もう少し先でいい」
ヴェルナーは、そんな柊を見て少しだけ目を細めた。
「言う必要もないでしょう」 いつもと違う声だった。 柊は顔を上げる。
ヴェルナーの微笑みは、いつも通りそこにあった。だが今夜は、その瞳の奥に明確な『別の感情』が見えた気がした。
悲しい、と表現するのが正しいのかどうか、柊にはわからない。ただ、いつもの掴みどころのない飄々とした笑顔とは、明らかに違っていた。
「行ってあげなさい」 ヴェルナーが促すように言った。
柊は澪の顔をもう一度、深く目に焼き付けるように見た。
「……行ってくる」 澪は眠ったままだった。返事はなかった。
でも、柊はそれでいいと思った。必ず戻ってくる。その確信だけを胸に、病室を後にする。
扉が静かに閉まった。
廊下を遠ざかっていく柊の足音が、やがて完全に消える。
病室に取り残されたヴェルナーは、ただ静かに、眠る澪の顔を見つめ続けていた。
しばらく、身動き一つしなかった。
やがて、微かに動いた唇から、誰にも聞こえないかすかな吐息が零れ落ちる。
「……申し訳ありませんね」
その声は、重い夜の静寂の中に、音もなく溶けていった。ずっと昔、同じ言葉を言えなかった誰かの顔が、一瞬だけ瞼の裏をよぎった。




