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隣の彼女は異世界の妻でした  作者: 佐々木勇二


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18/32

座標の死闘と、空っぽの器たち

病院に澪を預け、外へ出た時には完全に夜の底だった。

記者に会いに行く、と内山が言った。柊も黙ってついてきた。安全な病室で澪の手を握り続けていても、今夜はどうせ何もできない。動いている方が、鬱屈した感情を散らすにはまだましだった。

都市の夜は、どこまでも明るく、そして冷たかった。

空中のホログラム広告が極彩色の光を撒き散らし、無機質な石畳を照らしている。人通りは昼の狂騒に比べれば随分と減ったが、完全な静寂が訪れる気配はない。

クロが内山の横を音もなく歩いていた。その毛並みに走る青銀の光が、ネオンの瞬きに呼応するようにかすかに脈打っている。

「先生」 柊が重い口を開いた。 「なんだ」 「澪、本当に大丈夫ですかね」

内山は前を向いたまま、淡々と答えた。

「干渉は深かった。だが命に別状はない。ヴェルナーが傍についている」

「……そうですか」

それ以上は言葉が続かなかった。しばらく、足音だけを響かせて夜の街を歩く。

街灯の少ない細い路地へ差し掛かった時だった。

先頭のクロが、ぴたりと足を止め、低く身を沈めた。 「……っ」

柊も息を呑む。 前方の薄暗い街灯の下に、一人の男が立っていた。

手元で、四角く平らな「光る板」をじっと見つめている。画面の青白い光に照らされた男の顔には、生気がなかった。

男はうつむいたままフラフラと歩き、電柱にゴツンとぶつかった。舌打ちをして、苛立たしげに電柱を蹴り上げる。だが、視線は決して手元の板から外さない。

「……なんだあれ」 柊が小声で言った。

「自分の『象徴』に呑まれている」内山が低く言った。「あのダイスという青年の、サイコロと同じだ」

島で見たものの中に、こういう者は何体もいた。

「来るぞ」 男が顔を上げた。 「あ~あ~あ~」

間延びした、ひどく気怠そうな声だった。光る板から目を離さないまま、ずるずると足を引きずってこちらへ向かってくる。

「なんだお前は」 柊が警戒して一歩前に出た。

男は光る板を見たまま、もう片方の手で頭をガリガリと掻きむしった。それから、ひどく面倒くさそうに顔を歪める。

「ぁああっ、面倒ぇえええっ!」

男が光る板の表面を軽く弾くように叩いた。

次の瞬間、空中に「光のナイフ」が四本、音もなく実体化した。 「散れ!」

内山の声と同時に、柊は横へ跳んだ。四本のナイフが意思を持ったように飛来し、柊がさっきまでいた石畳を深く抉る。クロが内山の背中を押すようにして躱させた。

着地しながら、柊は敵の戦力を計算した。

ナイフは四本。四方向から同時に飛んできた。自分たち三人を相手に、正確に死角を突いてくる嫌らしい軌道だった。

だが、男が再び光る板に視線を落とすと、石畳に刺さっていた光のナイフがふっと掻き消えた。

「……消した?」

代わりに、男の虚ろだった目が、急激にせわしなく動き始めた。

街灯の柱。建物の角。路地の端にある古いポスト。

男の視線があちこちへと飛び、何かを確認するように細められる。

(何を見てるんだ……?) 柊が身構えた、その瞬間だった。

「クロ!」

柊が叫ぶ。地面から切り離されたように、クロの身体がふわりと宙に浮いていた。もがいている。青銀の光が走り、爪が空を切るが、見えない壁に阻まれて地面に届かない。

「結界だ」内山が瞬時に状況を分析し、低く言った。 「結界?」

「あいつがさっき視線を向けた三点……街灯、建物の角、ポストだ。あそこを座標の支点にして、この空間の重力ごと四角く切り取ったんだ。それがあいつの本命の能力だ」

柊の頭で、パズルのピースが噛み合った。

「結界の維持と光のナイフ、同時には使えないんだ!

だからわざわざナイフを消した!」

「支点を一つ壊せば、結界の形は崩れる。やってみろ」

「わかった、スクリーン野郎!」柊が吐き捨てながら、男の懐へ弾かれたように飛び込んだ。

手元の光る板が、戦闘中にも明滅している。あの画面が、奴の『象徴』なのだ。柊は内山の指摘を、戦いの最中でそう理解していた。

だが、男は慌てなかった。光のナイフを出せない代わりに、上着の裏から実体のある鋼の「投げナイフ」を引き抜いた。それを無造作に、だが正確な手首の返しで、走り込んでくる柊へ向けて三本連続で投擲する。

「チッ!」

柊は鉄パイプで二本を弾き落とし、最後の一本を身をよじって躱す。

その隙を突き、男の懐へ潜り込んだ。

掴みかかろうとした柊の目に、異様な光景が飛び込んできた。男は逃げない。手にしていた「光る板」の縁から、チリッ、と高圧電流のような音を立てて、鋭い光の刃が伸びていたのだ。

男は光る板そのものを短剣のように振るい、柊の喉笛を真横に薙ぎ払ってくる。

「おわっ!」

柊は間一髪で仰け反り、光の刃を持つ男の腕を両手で強く掴み止めた。ギリギリと力が拮抗する。

「先生!」 「わかってる」

内山が支点の一つである「ポスト」へ向かって疾走した。球体の光が内山の掌から滲み出し、ポストに触れた瞬間、光が炸裂した。

パァンッ! 支点を失った見えない結界が、ガラスのように砕け散った。

同時に空間の縛りが解け、クロが地面に落ちる。着地の瞬間、クロの骨格が獣のように変形した。前肢が伸び、爪が鋭く尖る。男が焦って振り返った瞬間、クロの爪が男の腕を強烈に弾き飛ばした。

光る板が宙を舞い、光の刃がふっと消える。

がら空きになった男の顔面に、柊の拳が容赦なく叩き込まれた。

男が吹き飛び、壁に激突して動かなくなった。

静寂。

柊は荒い息を整えながら、男の手から転がり落ちた板を見た。画面がまだ明滅している。

「……あの板で座標を処理して、結界を張ってたのか」

内山は答えなかった。ただ、警戒を解かずに小さく頷く。

その時だった。 頭上に、巨大な影が落ちた。

空から、真っ赤な光沢を放つ異形の機械体が降ってきた。関節が不気味なほど多く、その動きには一寸の迷いもない。着地の瞬間、石畳が蜘蛛の巣状に割れた。

柊はすぐに鉄パイプを構えた。 だが、機械体は柊たちには目もくれなかった。

壁際で気絶している男へ、一直線に向かっていた。

男がうめき声を上げて顔を上げた。目の前の機械体を見る。 「……は?」

機械体の無数の腕が伸び、男の胸倉を掴み上げた。 「っでええええ!

ゔああああ!!」

男が狂ったように暴れた。光る板がない今、結界も光の刃も出せない。腰の投げナイフに手を伸ばそうとするが、腕を掴まれ宙吊りにされたままでは身動きが取れない。

機械体が男を包み込むように強烈な光を放つ。

光が収まると、そこには誰もいなかった。男も、機械体も、跡形もなくその場から消え去っていた。

石畳の上に、割れた光る板だけが残っている。ヒビ割れた画面がかすかに光り、明滅して、完全に沈黙した。

「……また、吸収したのか」 柊が冷や汗を拭いながら言う。 「ああ」

内山は機械体が消えた夜空を睨みつけていた。その目はひどく細く、険しい。

クロが内山の横に寄り添った。青銀の脈動が、少し乱れていた。ダイスが最期を迎えた時もそうだった。あの赤い機械体が現れるたびに、クロの光が不安げに揺れるのだ。

「先生」 ふいに、背後から女の声がした。

「ミカか」

「ヴェルナーから連絡があったわ」「急いで。見せたいものがあるの」

ミカは足元のクロに視線を落とし、目元をわずかに和らげた。

「……かわいい犬ね」 「そうか」内山が短く返す。

「ええ」ミカは顔を上げ、厳しい表情に戻った。「行くわよ」

ミカに連れられてやってきたのは、都市の裏路地にひっそりと建つ、窓のない石造りの建物だった。記者仲間と共に、都市の行政が「なかったこと」にした死体を密かに保全している場所だと、道すがらミカは短く説明した。ミカは慣れた足取りで奥へと進んだ。その慣れ方は、一人で身につけたものには見えなかった。

中に入ると、外よりもさらに温度が下がった。霊安室のような底冷えする石の冷たさが、足の裏から這い上がってくる。

重い扉を開けた瞬間、内山は足を止めた。柊も思わず息を呑む。

等間隔に並べられた冷たい台。

その上に、人間が横たわっている。十七人。動かない。死後硬直も腐敗もしていない。ただ、何かが根こそぎ「抜けて」いた。

眠っているのとは違う。苦しんだ痕跡もない。穏やかな顔のまま、ただ「空っぽ」だった。

その言葉が、柊の頭に浮かんで、こびりついて離れなかった。

クロが内山の足元にすり寄り、体を押しつけた。青銀の光が、いつもより悲しげに静かに揺れている。

内山は目を閉じた。一瞬だけだった。

頭の奥がわずかに軋む。形にはならないが、かつて感じたことのある、遠くて薄い「何か」の残滓。

「不審死が十七人」

ミカが静かに沈黙を破った。「全員、原因不明。警察も誰も調べようとしないわ」

内山は目を開け、台の一つに近づいた。横たわっている人間の顔を覗き込む。

ひどく穏やかだった。それが余計に、事態のおぞましさを物語っていた。

「いつからだ」

「半年前から急激に増えているの」ミカはメモ帳を取り出した。「最初は月に一人か二人だった。今は週に三人のペースで見つかっているわ」

「急いでいるな」 ミカが顔を上げた。「何が?」

「抽出のペースが上がっている」内山は言った。「理由はわからない。だが、何かが変わった」

クロが台のそばに近づき、横たわった人間の顔に鼻先を寄せた。青銀が揺れた。また揺れた。それから、クロは悲しそうに静かに離れ、内山の足元に戻ってきた。

内山はそのクロの動きを見て、確信を持って言った。 「……抜かれた後だ」

声は地を這うように低かった。「感情ごと、丸ごと持っていかれた。残滓すら、もうこの肉体には残っていない」

「どこへ?」ミカが聞く。

「わからない。だが、これだけの量を、どこか一箇所へ運んでいるはずだ」

そのとき。地面が微かに揺れた。

地震ではない。石畳のずっと下から、何かが伝わってきた。三拍ごとに、少しだけ強くなる。心拍に似ていた。だが人間のものではない。都市の地下深くに潜む、もっと巨大なものの鼓動だった。

クロの青銀の光が、その不気味な振動に合わせて激しく乱れた。

「……下から来てる」ミカが足元を見た。「配管の振動じゃない。もっと深いところよ」

内山は膝をついて、石畳に直接手のひらを当てた。

確かに来ている。遠いが、ひどく規則的だ。

そして、柊の耳にも聞こえた気がした。

旋律ではなかった。旋律になりかけている何かの単音が、不規則な間隔で続いている。それは、澪を暴走させたホテルで聞いた、あの狂気の振動と同じ音だった。

(……また、同じだ)

柊が身構え、立ち上がろうとした瞬間、ガラスの砕ける音がした。

次の瞬間、建物の外壁が吹き飛んだ。

砂埃の中、一人の男が入ってきた。

四十代くらいの男だった。だが、異常だ。男の皮膚の下で、強烈な光が蠢き、暴れている。抑えきれずに毛穴から光が漏れ出しているようだった。

男は台の上の「空っぽの人間」たちを一瞥した。その目に迷いはなかった。静かに、掌を向けた。

「救済だ」 感情の一切ない声だった。 「苦しまなくていい。もう終わりだ」

光が放たれた。台が、横たわっていた人が、一瞬にして音もなく灰に変わった。

男が内山を見た。ミカを見た。柊を見た。そして、一歩踏み出す。

「逃げるな」 掌が、ゆっくりと上がる。 「お前たちも同じだ。救ってやる」

「走れ!」

内山がミカの腕を掴んだ。クロが先導して飛び出す。柊も後に続く。廊下を走る背後で、炎が石の壁を舐める轟音がした。異常な熱気が首筋を叩く。

出口を抜け、外へ飛び出す。

夜の冷気が、焼け付く肺に刺さった。路地に入る。角を曲がる。壁に背を預けて息を潜めた。

足音が迫ってきた。熱気も一緒についてくる。 「逃げても同じだ」

路地の入り口に、男が立った。皮膚の下で光が暴れている。だが男の顔はひどく穏やかだった。怒っていない。憎んでもいない。ただ、自分の行いが正しいと狂信している顔だった。

「苦しまなくていい」 掌が上がる。 「救ってやる」 その瞬間だった。

エンジン音より低い、骨に直接響くような駆動音がした。

ヘッドライトを消した漆黒の車が、路地の角から猛スピードで一直線に男へ突っ込んだ。

衝突。

鈍い音が響き、男の体が路地の外へ人形のように吹き飛んだ。車はそのまま壁に激突して停止する。

静寂。 内山が路地から出た。クロとミカ、柊が続く。

広場に出ると、男がうつ伏せで倒れていた。動かない。だが生きている。浅い呼吸があり、皮膚の下の光が、まだしぶとくくすぶっていた。

その奥の暗がりから、ガシャッ、と金属音がした。 ロボットがいた。

ボロボロの機体だった。片腕がなく、胴には深い亀裂が入っている。だが動いていた。ガツン、……ガツン。引きずるような一定のリズムで、倒れた男へ向かって這い寄ってくる。男を完全に「処理」しようとしているのだ。

「クロ」 内山が命じるより早く、クロが地を蹴った。

ロボットに体当たりした瞬間、クロの青い光が炸裂した。内部で回路が焼ける音。ロボットの動きがピタリと止まり、そのまま崩れ落ちた。

クロが戻ってきた。呼吸が荒い。横腹が大きく波打っている。 「クロ」

内山がしゃがんで顔を覗き込む。目は開いているが、青銀の光が、さっきよりも明らかに弱々しかった。

「……無理するな」

クロは答えない。ただ内山の手首に、安心させるように鼻を押しつけた。それだけだった。

内山は立ち上がり、倒れた男を仰向けにした。

皮膚の下で熱がまだ燻っている。呼吸は荒いが、止まってはいない。あわや轢死かという状況でも、顔は穏やかなままだった。「救済だ」と宣っていた時と、同じ顔。

内山は、男の胸に手をかざした。

澪の治療で、内山自身の生命力もひどく消耗していた。だが、残された力を全て出し切るように光を放つ。

誰であろうと、狂信者であろうと、目の前の命の灯は消さない。それが医者である内山の業だった。

癒やしの光が皮膚の下へ入っていく。燻っていた異常な熱が、ゆっくりと静まった。波が引くように、時間をかけて。

クロの呼吸が、さっきよりさらに荒くなっていた。 「……クロ」

クロは内山を見た。尻尾が一回だけ、ゆっくりと振れた。それだけだった。

やがて、男がゆっくりと目を開けた。

夜空を見た。しばらく何も言わなかった。それから、自分の手を目の前にかざした。開く。握る。また開く。

皮膚の下で暴れていた光は、もう跡形もなかった。

「……間に合わなかった」 男の口から、かすれた声が漏れた。

「救えなかったんだ」 手を虚空に握りしめたまま、動かない。

「俺は、ここにいたのに」 内山は黙って聞いた。 「……すり抜けた」

一拍、置いた。

「俺より、ずっと小さい手だった」

少し間があった。男が視線を動かした。夜空から、都市の威容を誇る建物群へ。そして、そのさらに上、空に浮かぶようにそびえ立つ「七本の塔」へ。

「灰原だ」 内山の問いかけに答えるように、男は短く名乗った。

「上に行くほど、濃度が濃い。あの塔の中枢に近いほど、深く干渉される」灰原の視線がさらに奥へ動いた。「会長……あれも、結局は島の手のひらの上だ」

「わかった」

内山が答えると、灰原は少しだけ内山を見た。自分を助けてくれた人間を、不思議なものを見るように確かめる目だった。

「……なんで、助けた」 「灯は消さない」

内山の迷いのない一言に、灰原はしばらくその言葉を噛み締めるように沈黙した。

それから、痛む胸を押さえてゆっくりと立ち上がった。

「……まだ、残ってる」 「完全じゃない」内山が忠告する。 「……行く」

内山は止めなかった。

灰原は背を向けた。一歩。また一歩。足元がわずかにふらついていたが、その歩みが止まることはなかった。

「灰原」 内山が背中に向かって呼んだ。 灰原が振り返らずに足を止める。

「次に会う時は、もう少しましな状態でいろ」

少しだけ、夜の間に沈黙が落ちた。

灰原の背中が、わずかに揺れた。自嘲気味に笑ったのかもしれなかった。

それだけで、灰原の姿は夜の街の暗がりへと消えていった。

ミカが内山の横に来た。灰原の消えた方角を見ながら、静かに言った。

「知り合い?」 「違う」 「そう」 それだけだった。

クロが内山の足元にすり寄った。青銀の光が、少しずつ落ち着きを取り戻してきている。内山はその頭に優しく手を置いた。

「……お疲れ」 クロは答えない。ただ、心地よさそうに目を細めた。

迎えに来たのは、音もなく滑るように走る高級車だった。タイヤが石畳を踏む感触だけが夜の路地に伝わってくる。ドアが開いたが、運転手は降りてこない。助手席も空だった。

クロが促されるように、先に乗った。





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