都市へ
巨大都市が見えてきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
最初に目に入ったのは、無骨な煙突でも威圧的な塔でもなく、暴力的なまでの「光」だった。
建物の壁面という壁面に、極彩色の映像が縦横無尽に走っている。空中に浮かび上がるホログラムの文字群。それに呼応するように腕輪が微振動し、視界の端に絶え間なくノイズのような情報が重なり続ける。
のどかな村とは次元が違う。圧倒的な密度の情報と、ひしめき合う人の波、そして耳鳴りがするほどの喧騒が、熱風となって一度に押し寄せてきた。
内山は立ち止まらなかった。この狂騒に慣れきった足取りで、人混みを縫うように抜けていく。クロも内山の足元にぴたりと寄り添い、忙しなく周囲を警戒しながら歩いている。
「宿を取る」内山が振り返らずに言った。「今夜は休め。明日から動く」
宿は、都市の中層に位置する手狭なホテルだった。
柊と澪は連れ立って街へ出た。特に目的はない。ただ、街の空気を吸いたかった。
「今夜、初演だそうよ」 澪が近くの立て看板を読んだ、その時だった。
「よろしければ、記念に一曲いかがですか。今夜の演目のテーマ曲です。腕輪に入れておくと、いつでも高音質で聴けますよ」
澪が差し出した腕輪に、宣伝員が自分のデバイスをかざす。ピリッ、と短い電子音が鳴り、データの転送があっさりと完了した。
ふと、柊の視界の端で何かが動いた。
広場の木の枝に、極彩色の羽を持つ小さな鳥がとまっていた。街のネオンを受けてわずかに不自然な輝きを放っている。柊が目を瞬いた時には、その鳥はもうどこかへ消えていた。
夕食を終え、ホテルに戻った頃にはすっかり夜になっていた。
柊と澪に割り当てられた部屋は、外観の割には広かった。壁一面の大きな窓からは、都市の夜景がパノラマのように広がっている。
光の洪水だった。無数の建物の窓明かり、空を這う広告の文字、巨大なホログラム映像。それらが混ざり合い、村では絶対に見られない毒々しくも美しい夜の色を作っていた。
「見て、これ買っちゃった」
澪が紙袋から、小さな木の棒を取り出した。先端に銀色のネジが埋め込まれている。「伝統玩具なんだって。バードコールっていうの」
きゅっ、と澪がネジをひねる。
高く澄んだ音が、部屋に小さく響いた。
ピィ……。
「……ダイスって」
窓ガラスに額を押し当てるようにして、澪がぽつりと呟いた。
柊は答えず、次の言葉を待った。 「最後、景色が良かったって言ってた」
「……ああ」 「絶景ポイントで、本当に景色を見てたのよね。あの人」
「……音楽、聴いてみるか」 少しでも気を紛らわせようと、柊が提案した。
「そうね」 澪が自身の腕輪に意識を向ける。
広場で受け取った旋律が、部屋のスピーカーを通して静かに流れ始めた。
穏やかな音だった。幾重にも重なる弦楽器の調べが、毒々しい夜景の輪郭を優しくぼかすように広がっていく。
「……っ」 何かが、決定的に違った。
美しい旋律の下に、隠蔽されていた「別の何か」が這い出てきた。音楽ではない。悪意に満ちた振動だ。脳髄に直接触れ、神経をかきむしるような粘り気のある波が、音に紛れて強烈に流れ込んでくる。森で人形たちが発していた、あの狂気の周期だった。
澪の顔は血の気を失い、青ざめていた。両手でこめかみを強く押さえ、うめき声を上げている。
「止めて……っ」 「腕輪か!?」
柊が音を止めようと澪の腕輪に手を伸ばした。だが、澪が激しくそれを手で払いのけた。
「触らないで……っ、触ると……広がる……っ!」
その直後、部屋の中で異常な現象が起き始めた。
照明が明滅を繰り返す。壁の中を通る空調チューブが、破裂しそうなほどバチバチと音を立てる。備え付けの保管庫の重い扉が、ガタガタと激しく振動する。空間そのものが、見えない巨大な圧力に押し潰されていく。
「澪!」 限界を超えた澪が、突然叫んだ。
パァンッ! 限界に達した巨大な窓ガラスが、内側から粉々に吹き飛んだ。
「待て待て待て——っ!」
正気を失った澪が、割れた窓の外へ向かってふらふらと歩き出す。柊は反射的に飛びつき、澪の腕を掴んだ。だが止まらない。凄まじい力で引きずられる。
足が、窓枠を越えた。
柊は咄嗟に澪の細い身体を両腕で強く抱きかかえ、そのまま外へと飛び出した。
眼下を見た。 絶望的に高い。
パニックになる暇すらなかった。一瞬だけ、頭が冴え渡るように冷えた。
どうせ落ちるなら、抱きかかえたまま、自分が下になって背中から落ちる。それだけを瞬時に決めた。
落下しながら、腕の中で澪が叫んでいた。 「いやぁああああ!!」
落下していく二人の周囲にあるホテルの窓ガラスが、上から順に一斉に弾け飛んでいく。空調の室外機が爆ぜ、壁が不自然に膨張する。都市の一角が、澪の悲鳴をトリガーにして大きく揺れ動いていた。
抗いようのない重力が、二人を石畳へと引きずり下ろす。
——死ぬ。 そう覚悟した瞬間、光が来た。
淡い光の膜が、落下する二人を包み込むように球体となって広がった。
ドンッ、と衝撃が来る。
だが、骨が砕けるような痛みはなかった。まるで巨大な見えないクッションに受け止められ、石畳の上にゆっくりと下ろされるような、奇妙な感触だった。
「無事か」 聞き慣れた、低い声がした。
顔を上げると、内山が走ってきていた。足元にはクロもいる。
内山はしゃがみ込み、澪の首元に指を当てて状態を確認した。クロが澪の顔に鼻先を寄せると、その毛並みに走る青銀の光が、穏やかな脈動を繰り返す。
「生きてる。だが、脳に深い干渉を受けた。しばらく意識は戻らない」
「……特別なものって言ってた」
柊が、広場での女の言葉を思い出して呟く。 「最初から狙ってたんだ」
「ああ」
内山がゆっくりと立ち上がった。その目は、夜の闇よりも深く、鋭く冷たくなっていた。
「病院へ運ぶ。それから」 「会長のところへ行く」
柊が、内山の言葉を遮って鋭く言った。




