海辺の青き静寂
不気味な森を抜け、次の村が見えてきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
最初に気づいたのは匂いだった。
潮の匂い。それから、草と土が混ざった青い匂い。そして、かすかに硫黄に似た、地熱特有の温かい匂い。
「……海だ」 柊が思わず呟いた。レンと見た、あの遠い景色と重なった。
鬱蒼とした木々が途切れた先に、視界が一気に開けた。 息を呑んだ。
島だった。大小の島々が、陽光を弾く海に浮かんでいる。緑の稜線が霞の中に幾重にも重なって見え、その間を縫うように白い蒸気が立ち上り、光を受けて虹色に滲んでいる。海面は穏やかで、砕けた光が水面をどこまでも走っていた。
「……きれい」 澪が、ごく自然に言った。柊は安堵した。
澪は景色を見ていた。先ほどまでの森での強張りが嘘のように、いつもの整った横顔からすっと力が抜けている。潮風に髪を揺らすその目は、とてもやわらかかった。
村は斜面に沿って建てられていた。石畳の道が緩やかに海へ向かって下り、その両脇に白い壁の家が並んでいる。軒先に洗濯物が翻り、どこかで子どもの笑い声がした。
「思ったより、普通の村だな」 柊が言うと、内山が短く返した。「表向きはな」 それだけだった。
クロは先を歩きながら、時折立ち止まっては二人を振り返る。急かすでもなく、ただ確認するように。
「クロ、待ってくれてる」澪が小さく言った。
澪はそれだけ言って、また景色の方へ視線を戻した。石畳を下りながら、澪の歩幅がいつもより少しだけ広い。気づいているのかいないのか。ただ、足取りが軽かった。
村の入口近くで、年配の女性が花に水をやっていた。顔を上げてこちらを見ると、にっこりと笑った。
「旅の方かい? ゆっくりしていきなさい」
「ありがとうございます」 澪が素直に頭を下げた。
「そうだろう」女性は誇らしそうに言った。「ここの蒸気と光は、世界一だよ」
内山は村に着くと、すぐに一人で研究棟の方へ向かった。
「俺は用がある。お前たちは村を見て回れ」
研究棟の一室は狭く、棚という棚に資料が積み重なっていた。窓の外では地熱の蒸気が白く立ち上り、部屋の中まで薄く湿った熱を運んでくる。
机の前に座った少女は、見た目より静かな目をしていた。
「久しぶりだね、先生」
声は子供のものだが、響きが違う。内山はいつものように、居心地の悪さを隠せない。
「生きてたか」
「なんとかね」博士は自分の小さな手を見つめた。「この体、まだ馴染まないけど……命はつながってる」
内山は椅子を引いて腰を下ろした。
「クロのことも聞きに来た」
「やっぱり」 短い沈黙のあと、博士は机の上の資料を一枚指で軽く叩いた。
「あの子は島の最初の試験体。不完全故に、島の組織が干渉できない。それが強みでもあり、厄介なところだ。回収対象になってるよ。あなたも込みで」
内山は黙って頷いた。
博士は続けた。声は淡々としているが、どこか疲れた響きがあった。
「彼女の犬だったからな。最初は偶然だった。逃げる時に、あなたに託すと。『闇の干渉を受けない人間』として」
「島の組織は今、急いでいる。都市高層からの照射。競技場のパニック、あれはテストだが、個体の選別と収集も兼ねている。転送系だけでは数も足りない」
「独立して、利権と対峙する村は、連中にとっても目障りだろう。いずれここにも来るだろう」
「都市部か」
「タワーの所有者は会長だ。おそらくは」
内山が視線を外したその時、部屋の隅で古い椅子の軋む音がした。
いつの間にか、そこに白髪の紳士が座っていた。仕立てのいい灰色のスーツ、柔らかな微笑み。手には湯気の立つカップがある。
「……相変わらずだな。友よ」
ヴェルナーが穏やかに答えた。「邪魔をしないつもりでしたので」
「生贄の準備か」声が低く沈む。
ヴェルナーはカップを膝の上に置いたまま、静かに首を振った。
「生贄を選ぶのは、あの子たちです。私は……ただ、彼らを見つけただけ」
内山は扉へ向かった。取手に手をかけた瞬間、ヴェルナーが静かに続けた。
「内山先生…」振り返らない。
「あの二人は、揃わなくていいんです」
「揃わないまま、一緒にいられるかどうか。それが、問いです」
扉が開いた。
廊下には、地熱の白い蒸気と、遠くから聞こえる柊と澪の言い合いの声が、かすかに届いていた。
坂を上りきった瞬間、二人の視界が開けた。
「……わあ」 声が出た。澪だった。
海だった。
さっき村に着いた時に見た景色とは、角度が違う。ここからは島全体が見渡せた。大小の島が霞の中に重なり、地熱の蒸気が白く立ち上る岩場の向こうに、光が水面を跳ねて遠くまで続いている。
風が吹いた。蒸気が流れて、光の角度が変わった。
「……本当に、世界一かもな」 柊が呟いた。
「認めるの、早いわね」 「いいもんはいいだろ」
澪は答えなかった。ただ、その目がやわらかいままだった。
ベンチがあった。そしてそこに、先客がいた。
長身の青年だった。ベンチに片足を乗せて、膝の上に腕を置いて、遠くの海を見ていた。姿勢が悪いのに、なぜか絵になっていた。
「この景色であのベンチを独占できるなら、ああなるのも仕方ない…」柊が小声で言う。
「うん」澪も小声で返した。「邪魔するの悪いかな」
二人でしばらく立っていると、青年がこちらに気づいた。目が合った。
それから、ゆっくりベンチから足を下ろした。立ち上がって、自分の袖でベンチの座面を軽く拭いた。少し困ったような顔をしながら。
「……行儀悪かった。ごめんね」
「いや、こちらこそ」柊が返す。「先に座ってたのに」
「とんでもない」青年は少し笑った。「どうぞ」
「景色っていいね…」
澪が海を見た。「……はい」
「蒸気と光の重なり方が、時間によって変わるんだ。今がちょうど一番いい」
青年は目を細めて、遠くを見ていた。本当に見ていた。こちらに何かを求めているわけでも、話しかけているわけでもなかった。ただ、綺麗なものを綺麗だと思って、そこに座っていた。
三人で、しばらく同じ海を見ていた。風が吹いた。蒸気が流れて、光が変わった。「あ」
青年が小さく言った。「今だ」
風が止んで、光が落ち着いた頃、青年は立ち上がった。一度俯いたように見えた。
「じゃあね」
立ち上がりながら、青年はポケットから何かを取り出した。無意識な仕草だった。小さな立方体が、光を受けてきらりと光る。指で一度だけ弾いて、握りしめる。
それだけ言って、坂を下りていった。足音が遠くなる。
坂を下りながら、柊はまだ少しざわついていた。
「……あの人、何者だったんだろうな」 「さあ」
澪は短く返した。それだけだった。だが、その声がいつもより少しだけ遠い。
「気になるのか」 「別に」
「顔、見てたじゃないか」 「景色を見てたの」 「どっちを」
澪が柊を見た。少しだけ目が細い。「うるさいわよ」
石畳を下りながら、村の中を歩いた。昼を過ぎた時間で、通りには人が増えていた。干物を売る店、薬草を束ねている老人、井戸端で話し込む女性たち。どれも穏やかで、急いでいない。
「のんびりしてるな」
澪は視線を遠くへ向けた。村の外れに、背の高い塀がある。その向こうに、武装した男が数人立っていた。村の雰囲気とは少し違う、張りつめた空気をまとっている。
近づいてみると、男の一人がこちらを見た。警戒した目だったが、敵意はない。
男は塀に背を預けたまま、話し始めた。
「この村は独立してる。燃料の自給ができてるから、都市の利権に頼らなくていい。地熱と、海の藻から作ってる。それがここの強みだ」
「強みってことは、邪魔される側でもあるってことか」
男が柊を見た。少しだけ目が鋭くなる。
「わかってるじゃないか」
男は淡々と語りだす。「去年、研究棟に火をつけられた。一昨年は、村の井戸に何かを混入された。やつらはじわじわやってくる。一度に潰すんじゃなくて、少しずつ弱らせていく」
「それでも、ここを守るんですね」
男は少し間を置いた。 「ここが好きだからな」
「ありがとうございました」 澪が頭を下げると、男は短く頷いた。
「気をつけて行けよ。この辺、最近よそ者が増えてる」
夕方、内山が戻ってきた。 クロが先を歩いて、宿の部屋の扉を器用に押し開ける。
「話がある」 内山は卓の前に座った。柊と澪も向かいに座る。
島の組織。そしてその裏と表。照射実験のこと。「都市へ行く必要がある」
「わかった」 柊は即答した。澪も頷いた。
内山は少し間を置いてから、付け足した。 「危険だ。今まで以上に」
クロが内山の足元に寄る。内山はその頭を一度だけ撫でた。 「明日、早く出る。寝ておけ」
扉が閉まった。
クロは柊と澪の間に座り込んで、窓の外を見ていた。夜の海が、遠くに光っている。
翌朝、村を出たのは夜明け前だった。
村を抜けると、道は森へ続いていた。朝の空気が冷たい。足元の草が露で湿っている。クロは先を歩きながら、時折立ち止まって全員の歩調を確かめる。
内山が先頭。クロがその横。柊と澪が後ろに並んで歩いている。
「……都市まで、どのくらいかかるの」 柊が聞くと、内山が短く返した。
「今日中には着く」
森を抜けて、開けた道に出た頃だった。 「あれ」
澪が足を止めた。 前方の道に、人が立っていた。
長身。見覚えのある後ろ姿。
「……さっきの」 柊も止まった。
内山の目が細くなる。クロが低く身を沈め、喉の奥で唸り始めた。
青年が振り返った。 さっきと同じ顔だった。さっきと同じ目だった。
青年が言った。「おおっ奇遇だね」
柊が一歩前に出た。「通してくれ」
「うん」青年は頷いた。「通してあげたい」
右手が上がった。手のひらを表にして、縦に一度、振った。
掌の上で、白い立方体が二つ、音もなく浮かび上がる。
カチッ、カチッ。
次の瞬間、青年の顔から、さっきまでの色が全部消えた。「ふぁっひぁあ〜」
声が全く違う。空中からからつららが迫る。
「散れ!」
内山が叫ぶより早く、柊は澪を引いて横へ跳んだ。地面に氷の破片が散らばる。
青年——男が、ダイスを弾いた。くるり、と高く回転して落ちてくる。出目を確認する。
次の瞬間、男の足が地面を離れた。空中に立っている。重力を無視した、恐ろしいほど「不自然な」浮かび方だった。
「柊」内山が言った。「前に出ろ。俺と挟む」
柊は鉄棒を構えて踏み込んだ。「それ」が空中から急降下してくる。速い。だが軌道が読める。柊は半歩ずれて受け流す。 「よし——」
地面から氷の棘が突き出した。出目が変わった。攻撃の種類が切り替わっている。
内山が横から斬り込む。男が躱す。クロが低く回り込み、背骨に沿って青銀が走る。骨格が変形し、前肢が鋭く伸びる。男の腕を弾き飛ばした。
ダイスをまた弾く。出目を見て、舌打ちをする。
肩の関節が、あり得ない方向へ折れた。そのまま腕が、まるで鞭のように柊へ向かって伸びてくる。
「っ!」咄嗟に跳んで躱した。伸びきった腕が、石畳を抉る。だが。
「いてえええやぁあ!」 叫んでいるのは、男だった。目が赤い。
腕が戻ってくる。荒い息で肩を押さえ、膝を折りかけた。顔が歪んでいる。本気で痛そうだった。
「……本人も嫌がってる」 澪が低く呟いた。 「出目によっては、自分も苦しむ」
柊は男を見た。たしかにそうだ。狙って腕を伸ばしたわけじゃない。出目がそうだったから、嫌々やった。その顔だった。
出た目を見て、表情が崩れた。 次の瞬間、ダイスは再び走り出した。また叫び。しかしそれは言葉であった「俺はイカレだぁあああ」
攻撃しない。振り返らない。叫びもしない。ただ、全力で遠ざかっていく。
「なんで」 「追うな。距離を詰めるな」男が叫ぶ「だがなぁああああ」
「あいつが遠ざかるのは、次の出目が出るまでの時間稼ぎだ。追えば近距離で受けることになる。どんな目が出ても」
遠くで、男が立ち止まった。肩で息をしている。また手を縦に振る。出目を確認する。
「勝負に女を巻き込むなぁあああ」 突然、空気が弾けた。 周囲がバチバチと音を立てる。
「……わかった」 内山が低く言った。
「何が」と柊が聞く。 「六の単独目だ。あの時だけ、あいつは攻撃しない」
柊は思い出した。腕が伸びて「いてえええ」と痛がっていた場面。肩を押さえて、膝を折りかけていた。
「……自分が苦しくなる目か」 「ああ。あの目を出させ続ければ、動きが止まる」
内山がクロを見た。
クロはすでに低く身を沈めていた。青銀の光が、前肢の先端に集まっていく。
ダイスがまた手を縦に振った。出目を確認しようとした、その瞬間。
クロが弾けた。
地面を蹴る音すらしなかった。ただ、青銀の軌跡だけが空気を裂いた。
サイコロが、ダイスの指から弾き飛ばされた。
サイコロが空中で何度も回転して、草の上に落ちた。出目が上を向く。
六。単独。
「っあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
ダイスの全身が、内側から軋んだ。膝が折れる。両手が地面をつかむ。歯を食いしばって、それでも声が止まらない。
どれだけ動きが乱れても、出目がどう転んでも、澪の方向だけには向かわなかった。丘で海を見ていたあの目と、今の歪んだ顔が、柊の中で重なった。
人形?それは壊れたロボットだった。男へ向かう。サイコロを拾おうとしたが、間に合わない。
錆びた鉄の腕が、ダイスの胸を貫いた。
その目が、少しだけ穏やかになった。丘で海を見ていた時の、あの目に戻っていた。
澪は、固まっていた。
枝の上に、極彩色の小鳥がいた。
ロボットが跳んだ。物理法則を無視したような、異常な跳躍だった。
だが、小鳥はすでに飛び立っていた。光の尾を引いて、空の向こうへ消えていく。
ロボットは枝の上に着地し、小鳥の消えた方角をしばらく見ていた。
それから、音もなく去っていった。いつもと同じ方角だった。
静寂が落ちた。内山は「鉄の塊の事」を話そうとしなかった。だが、その横顔は硬かった。あの重力を無視した跳躍の仕方も、関節の軋み方も、島で見た何かと——同じ設計思想だった。
草の上に、サイコロだけが残っていた。
柊は立ち上がれないまま、ダイスを見た。
澪が、柊の横に来てしゃがんだ。何も言わない。ただ、同じものを見ていた。
「……矜持、あったんだな」 柊が呟いた。
内山が立ち上がり、青年の元へ歩み寄った。脈を確かめる。それだけで十分だった。
「行くぞ」内山が言った。
四人と一匹は、都市へ向かって歩き出した。




