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隣の彼女は異世界の妻でした  作者: 佐々木勇二


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16/32

海辺の青き静寂

不気味な森を抜け、次の村が見えてきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

最初に気づいたのは匂いだった。

潮の匂い。それから、草と土が混ざった青い匂い。そして、かすかに硫黄に似た、地熱特有の温かい匂い。

「……海だ」 柊が思わず呟いた。レンと見た、あの遠い景色と重なった。

鬱蒼とした木々が途切れた先に、視界が一気に開けた。 息を呑んだ。

島だった。大小の島々が、陽光を弾く海に浮かんでいる。緑の稜線が霞の中に幾重にも重なって見え、その間を縫うように白い蒸気が立ち上り、光を受けて虹色に滲んでいる。海面は穏やかで、砕けた光が水面をどこまでも走っていた。

「……きれい」 澪が、ごく自然に言った。柊は安堵した。

澪は景色を見ていた。先ほどまでの森での強張りが嘘のように、いつもの整った横顔からすっと力が抜けている。潮風に髪を揺らすその目は、とてもやわらかかった。

村は斜面に沿って建てられていた。石畳の道が緩やかに海へ向かって下り、その両脇に白い壁の家が並んでいる。軒先に洗濯物が翻り、どこかで子どもの笑い声がした。

「思ったより、普通の村だな」 柊が言うと、内山が短く返した。「表向きはな」 それだけだった。

クロは先を歩きながら、時折立ち止まっては二人を振り返る。急かすでもなく、ただ確認するように。

「クロ、待ってくれてる」澪が小さく言った。

澪はそれだけ言って、また景色の方へ視線を戻した。石畳を下りながら、澪の歩幅がいつもより少しだけ広い。気づいているのかいないのか。ただ、足取りが軽かった。

村の入口近くで、年配の女性が花に水をやっていた。顔を上げてこちらを見ると、にっこりと笑った。

「旅の方かい? ゆっくりしていきなさい」

「ありがとうございます」 澪が素直に頭を下げた。

「そうだろう」女性は誇らしそうに言った。「ここの蒸気と光は、世界一だよ」

内山は村に着くと、すぐに一人で研究棟の方へ向かった。

「俺は用がある。お前たちは村を見て回れ」

研究棟の一室は狭く、棚という棚に資料が積み重なっていた。窓の外では地熱の蒸気が白く立ち上り、部屋の中まで薄く湿った熱を運んでくる。

机の前に座った少女は、見た目より静かな目をしていた。

「久しぶりだね、先生」

声は子供のものだが、響きが違う。内山はいつものように、居心地の悪さを隠せない。

「生きてたか」

「なんとかね」博士は自分の小さな手を見つめた。「この体、まだ馴染まないけど……命はつながってる」

内山は椅子を引いて腰を下ろした。

「クロのことも聞きに来た」

「やっぱり」 短い沈黙のあと、博士は机の上の資料を一枚指で軽く叩いた。

「あの子は島の最初の試験体。不完全故に、島の組織が干渉できない。それが強みでもあり、厄介なところだ。回収対象になってるよ。あなたも込みで」

内山は黙って頷いた。

博士は続けた。声は淡々としているが、どこか疲れた響きがあった。

「彼女の犬だったからな。最初は偶然だった。逃げる時に、あなたに託すと。『闇の干渉を受けない人間』として」

「島の組織は今、急いでいる。都市高層からの照射。競技場のパニック、あれはテストだが、個体の選別と収集も兼ねている。転送系だけでは数も足りない」

「独立して、利権と対峙する村は、連中にとっても目障りだろう。いずれここにも来るだろう」

「都市部か」

「タワーの所有者は会長だ。おそらくは」

内山が視線を外したその時、部屋の隅で古い椅子の軋む音がした。

いつの間にか、そこに白髪の紳士が座っていた。仕立てのいい灰色のスーツ、柔らかな微笑み。手には湯気の立つカップがある。

「……相変わらずだな。友よ」

ヴェルナーが穏やかに答えた。「邪魔をしないつもりでしたので」

「生贄の準備か」声が低く沈む。

ヴェルナーはカップを膝の上に置いたまま、静かに首を振った。

「生贄を選ぶのは、あの子たちです。私は……ただ、彼らを見つけただけ」

内山は扉へ向かった。取手に手をかけた瞬間、ヴェルナーが静かに続けた。

「内山先生…」振り返らない。

「あの二人は、揃わなくていいんです」

「揃わないまま、一緒にいられるかどうか。それが、問いです」

扉が開いた。

廊下には、地熱の白い蒸気と、遠くから聞こえる柊と澪の言い合いの声が、かすかに届いていた。

坂を上りきった瞬間、二人の視界が開けた。

「……わあ」 声が出た。澪だった。

海だった。

さっき村に着いた時に見た景色とは、角度が違う。ここからは島全体が見渡せた。大小の島が霞の中に重なり、地熱の蒸気が白く立ち上る岩場の向こうに、光が水面を跳ねて遠くまで続いている。

風が吹いた。蒸気が流れて、光の角度が変わった。

「……本当に、世界一かもな」 柊が呟いた。

「認めるの、早いわね」 「いいもんはいいだろ」

澪は答えなかった。ただ、その目がやわらかいままだった。

ベンチがあった。そしてそこに、先客がいた。

長身の青年だった。ベンチに片足を乗せて、膝の上に腕を置いて、遠くの海を見ていた。姿勢が悪いのに、なぜか絵になっていた。

「この景色であのベンチを独占できるなら、ああなるのも仕方ない…」柊が小声で言う。

「うん」澪も小声で返した。「邪魔するの悪いかな」

二人でしばらく立っていると、青年がこちらに気づいた。目が合った。

それから、ゆっくりベンチから足を下ろした。立ち上がって、自分の袖でベンチの座面を軽く拭いた。少し困ったような顔をしながら。

「……行儀悪かった。ごめんね」

「いや、こちらこそ」柊が返す。「先に座ってたのに」

「とんでもない」青年は少し笑った。「どうぞ」

「景色っていいね…」

澪が海を見た。「……はい」

「蒸気と光の重なり方が、時間によって変わるんだ。今がちょうど一番いい」

青年は目を細めて、遠くを見ていた。本当に見ていた。こちらに何かを求めているわけでも、話しかけているわけでもなかった。ただ、綺麗なものを綺麗だと思って、そこに座っていた。

三人で、しばらく同じ海を見ていた。風が吹いた。蒸気が流れて、光が変わった。「あ」

青年が小さく言った。「今だ」

風が止んで、光が落ち着いた頃、青年は立ち上がった。一度俯いたように見えた。

「じゃあね」

立ち上がりながら、青年はポケットから何かを取り出した。無意識な仕草だった。小さな立方体が、光を受けてきらりと光る。指で一度だけ弾いて、握りしめる。

それだけ言って、坂を下りていった。足音が遠くなる。

坂を下りながら、柊はまだ少しざわついていた。

「……あの人、何者だったんだろうな」 「さあ」

澪は短く返した。それだけだった。だが、その声がいつもより少しだけ遠い。

「気になるのか」 「別に」

「顔、見てたじゃないか」 「景色を見てたの」 「どっちを」

澪が柊を見た。少しだけ目が細い。「うるさいわよ」

石畳を下りながら、村の中を歩いた。昼を過ぎた時間で、通りには人が増えていた。干物を売る店、薬草を束ねている老人、井戸端で話し込む女性たち。どれも穏やかで、急いでいない。

「のんびりしてるな」

澪は視線を遠くへ向けた。村の外れに、背の高い塀がある。その向こうに、武装した男が数人立っていた。村の雰囲気とは少し違う、張りつめた空気をまとっている。

近づいてみると、男の一人がこちらを見た。警戒した目だったが、敵意はない。

男は塀に背を預けたまま、話し始めた。

「この村は独立してる。燃料の自給ができてるから、都市の利権に頼らなくていい。地熱と、海の藻から作ってる。それがここの強みだ」

「強みってことは、邪魔される側でもあるってことか」

男が柊を見た。少しだけ目が鋭くなる。

「わかってるじゃないか」

男は淡々と語りだす。「去年、研究棟に火をつけられた。一昨年は、村の井戸に何かを混入された。やつらはじわじわやってくる。一度に潰すんじゃなくて、少しずつ弱らせていく」

「それでも、ここを守るんですね」

男は少し間を置いた。 「ここが好きだからな」

「ありがとうございました」 澪が頭を下げると、男は短く頷いた。

「気をつけて行けよ。この辺、最近よそ者が増えてる」

夕方、内山が戻ってきた。 クロが先を歩いて、宿の部屋の扉を器用に押し開ける。

「話がある」 内山は卓の前に座った。柊と澪も向かいに座る。

島の組織。そしてその裏と表。照射実験のこと。「都市へ行く必要がある」

「わかった」 柊は即答した。澪も頷いた。

内山は少し間を置いてから、付け足した。 「危険だ。今まで以上に」

クロが内山の足元に寄る。内山はその頭を一度だけ撫でた。 「明日、早く出る。寝ておけ」

扉が閉まった。

クロは柊と澪の間に座り込んで、窓の外を見ていた。夜の海が、遠くに光っている。

翌朝、村を出たのは夜明け前だった。

村を抜けると、道は森へ続いていた。朝の空気が冷たい。足元の草が露で湿っている。クロは先を歩きながら、時折立ち止まって全員の歩調を確かめる。

内山が先頭。クロがその横。柊と澪が後ろに並んで歩いている。

「……都市まで、どのくらいかかるの」 柊が聞くと、内山が短く返した。

「今日中には着く」

森を抜けて、開けた道に出た頃だった。 「あれ」

澪が足を止めた。 前方の道に、人が立っていた。

長身。見覚えのある後ろ姿。

「……さっきの」 柊も止まった。

内山の目が細くなる。クロが低く身を沈め、喉の奥で唸り始めた。

青年が振り返った。 さっきと同じ顔だった。さっきと同じ目だった。

青年が言った。「おおっ奇遇だね」

柊が一歩前に出た。「通してくれ」

「うん」青年は頷いた。「通してあげたい」

右手が上がった。手のひらを表にして、縦に一度、振った。

掌の上で、白い立方体が二つ、音もなく浮かび上がる。

カチッ、カチッ。

次の瞬間、青年の顔から、さっきまでの色が全部消えた。「ふぁっひぁあ〜」

声が全く違う。空中からからつららが迫る。

「散れ!」

内山が叫ぶより早く、柊は澪を引いて横へ跳んだ。地面に氷の破片が散らばる。

青年——男が、ダイスを弾いた。くるり、と高く回転して落ちてくる。出目を確認する。

次の瞬間、男の足が地面を離れた。空中に立っている。重力を無視した、恐ろしいほど「不自然な」浮かび方だった。

「柊」内山が言った。「前に出ろ。俺と挟む」

柊は鉄棒を構えて踏み込んだ。「それ」が空中から急降下してくる。速い。だが軌道が読める。柊は半歩ずれて受け流す。 「よし——」

地面から氷の棘が突き出した。出目が変わった。攻撃の種類が切り替わっている。

内山が横から斬り込む。男が躱す。クロが低く回り込み、背骨に沿って青銀が走る。骨格が変形し、前肢が鋭く伸びる。男の腕を弾き飛ばした。

ダイスをまた弾く。出目を見て、舌打ちをする。

肩の関節が、あり得ない方向へ折れた。そのまま腕が、まるで鞭のように柊へ向かって伸びてくる。

「っ!」咄嗟に跳んで躱した。伸びきった腕が、石畳を抉る。だが。

「いてえええやぁあ!」 叫んでいるのは、男だった。目が赤い。

腕が戻ってくる。荒い息で肩を押さえ、膝を折りかけた。顔が歪んでいる。本気で痛そうだった。

「……本人も嫌がってる」 澪が低く呟いた。 「出目によっては、自分も苦しむ」

柊は男を見た。たしかにそうだ。狙って腕を伸ばしたわけじゃない。出目がそうだったから、嫌々やった。その顔だった。

出た目を見て、表情が崩れた。 次の瞬間、ダイスは再び走り出した。また叫び。しかしそれは言葉であった「俺はイカレだぁあああ」

攻撃しない。振り返らない。叫びもしない。ただ、全力で遠ざかっていく。

「なんで」 「追うな。距離を詰めるな」男が叫ぶ「だがなぁああああ」

「あいつが遠ざかるのは、次の出目が出るまでの時間稼ぎだ。追えば近距離で受けることになる。どんな目が出ても」

遠くで、男が立ち止まった。肩で息をしている。また手を縦に振る。出目を確認する。

「勝負に女を巻き込むなぁあああ」 突然、空気が弾けた。 周囲がバチバチと音を立てる。

「……わかった」 内山が低く言った。

「何が」と柊が聞く。 「六の単独目だ。あの時だけ、あいつは攻撃しない」

柊は思い出した。腕が伸びて「いてえええ」と痛がっていた場面。肩を押さえて、膝を折りかけていた。

「……自分が苦しくなる目か」 「ああ。あの目を出させ続ければ、動きが止まる」

内山がクロを見た。

クロはすでに低く身を沈めていた。青銀の光が、前肢の先端に集まっていく。

ダイスがまた手を縦に振った。出目を確認しようとした、その瞬間。

クロが弾けた。

地面を蹴る音すらしなかった。ただ、青銀の軌跡だけが空気を裂いた。

サイコロが、ダイスの指から弾き飛ばされた。

サイコロが空中で何度も回転して、草の上に落ちた。出目が上を向く。

六。単独。

「っあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」

ダイスの全身が、内側から軋んだ。膝が折れる。両手が地面をつかむ。歯を食いしばって、それでも声が止まらない。

どれだけ動きが乱れても、出目がどう転んでも、澪の方向だけには向かわなかった。丘で海を見ていたあの目と、今の歪んだ顔が、柊の中で重なった。

人形?それは壊れたロボットだった。男へ向かう。サイコロを拾おうとしたが、間に合わない。

錆びた鉄の腕が、ダイスの胸を貫いた。

その目が、少しだけ穏やかになった。丘で海を見ていた時の、あの目に戻っていた。

澪は、固まっていた。

枝の上に、極彩色の小鳥がいた。

ロボットが跳んだ。物理法則を無視したような、異常な跳躍だった。

だが、小鳥はすでに飛び立っていた。光の尾を引いて、空の向こうへ消えていく。

ロボットは枝の上に着地し、小鳥の消えた方角をしばらく見ていた。

それから、音もなく去っていった。いつもと同じ方角だった。

静寂が落ちた。内山は「鉄の塊の事」を話そうとしなかった。だが、その横顔は硬かった。あの重力を無視した跳躍の仕方も、関節の軋み方も、島で見た何かと——同じ設計思想だった。

草の上に、サイコロだけが残っていた。

柊は立ち上がれないまま、ダイスを見た。

澪が、柊の横に来てしゃがんだ。何も言わない。ただ、同じものを見ていた。

「……矜持、あったんだな」 柊が呟いた。

内山が立ち上がり、青年の元へ歩み寄った。脈を確かめる。それだけで十分だった。

「行くぞ」内山が言った。

四人と一匹は、都市へ向かって歩き出した。




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