森の不協和音
あの競技場の狂乱から、数日が経っていた。
狂乱に包まれた巨大都市の外縁を抜け、柊たちは再び鬱蒼とした森の小道へと足を踏み入れていた。
背後で空を赤く染めていた都市の喧騒が嘘のように、森の中は静まり返っている。木漏れ日が落ちる土の道を、先頭の内山とクロが歩き、その後ろを柊と澪が続く。
澪はまだ、競技場で流れてきた低い振動を耳の奥に残したままだった。柊はそれに気づいていたが、あえて何も言わなかった。ただ、歩幅をいつもより少しだけ狭くしていた。
その時だった。 先頭を歩いていたクロの足が、ぴたりと止まった。
「どうした」 内山が振り返るより早く、柊も道の異変に気づいた。
土と緑しかないはずの道のど真ん中に、ひどく場違いなものが置かれている。
シンバルを持った、猿のブリキ人形だった。
傾いたまま静止しているその姿は、誰かがうっかり落としていった玩具のようにも見える。だが、クロは前へ出ようとしない。低い姿勢のまま、毛を逆立てて喉の奥で唸っている。
「クロが嫌がってる」澪が息を潜めて言った。「近づかない方が——」
柊が警戒しながら一歩踏み出した、その瞬間。
カシャン。 シンバルが、自ら一回だけ鳴った。
「あーっ、クロちゃんだ」 木々の奥から、妙に間延びした声が降ってきた。
「女の子もいる。すごいすごーい。歓迎パーティだよ。準備するの、大変だったんだからぁ」
巨木の陰から、ぬらりと人影が這い出てきた。長身の男だった。色の薄い服を着たその顔には生気がなく、焦点の合っていない両目が、真っ直ぐにクロを見下ろしている。
「先生。ちゃんと連れてきてくれたんだ」
内山の目が、すっと細く研ぎ澄まされた。 その瞬間。
シャンシャンシャンシャンシャン!
四方八方から、一斉に鼓膜を破るような音が鳴り出した。
木の根元、岩の陰、茂みの奥。大量のシンバル猿、太鼓を叩くクマ、ぜんまい仕掛けの兵隊人形が、一斉に姿を現し、狂ったような速度で手元の楽器を打ち鳴らし始めた。
「うるさっ!」柊が顔をしかめ、耳を塞ぐ。 だが、澪の反応は違った。「……っ、何、これ……!」
澪は激しく顔を歪め、両手で耳を塞ぐようにしてその場にうずくまった。単なる大音量への拒絶ではない。その不協和音の下に蠢く、粘り気のある人工的な周期。都市のホテルで彼女を暴走させたのと同じ、脳の奥の神経を直接引っ掻き回されるような「異常な振動」に対する、強烈な嫌悪と吐き気だった。
「澪!」
柊が駆け寄ろうとした瞬間、男の背後の土が不自然に盛り上がった。金属の光沢が蛇のようにうねって向かってくる。
「っ、スリンキー?なんでだよ!」
巨大化した金属のばねが弧を描き、内山の肩へ向かって伸びた。柊が咄嗟に間に入り、腕で受ける。ギリギリと肉に食い込むように締め付けてくる。固い。
さらに別の一本が、うずくまる澪の足元へ這う。 「澪、右!」「わかってる……っ!」
澪が不快感に耐えながら跳んで躱した瞬間、焦点の合わない目をした男が走り込んできた。両手には、先端が丸まった安っぽいカメレオン棒。それをビュン、と無造作に振るう。
クロが耳を伏せ、踏み出せずにいた。体に青い光が纏わる。
「クロ、無理しなくていい。下がってろ」
内山が言うと、男が顔を歪めて笑った。「クロちゃんかわいそうじゃん。先生」
だが、内山は男を見ていなかった。クロも同じだ。
二人の視線は、男のさらに後ろ——木の枝にとまっている小鳥に向けられていた。
極彩色に発光する羽。この自然の森には絶対に存在しない、人工的な鳥だった。
「澪」内山が低く言った。「この人形、振動がどこかから来てないか」
澪は顔を上げ、嫌悪感で息を乱しながらも、鋭く目を細めて周囲の「音」を探った。
「……来てる。おもちゃからじゃない。全部、同じ気持ち悪い周期で……あそこから!」
澪の視線が、男を越えて小鳥を射抜いた。
その瞬間、男の焦点の合っていない目が初めて大きく揺れた。
「柊、あの鳥を驚かせて。今すぐ!」 「は?」 「いいから!」
柊は理由を聞く前に、足元の石を掴み、枝へ向けて力一杯投げつけた。石は当たらなかったが、小鳥が驚いてバサリと羽を広げた。
男の動きが、通信不良の映像のようにカク、カク、と不自然にバグった。スリンキーの軌道が乱れ、カメレオン棒が空を切る。
「今だ!」
澪が踏み込んだ。不快な音の波を強引にかき分け、男の胸元へ振動を一点に叩き込む。
ドンッ、とくぐもった衝撃が走り、男が大きくよろめいた。 「もらった!」
柊が腕に食い込んでいたスリンキーを強引に引き千切り、がら空きになった男の胴体へ鉄パイプのフルスイングを叩き込む。
鈍い音が響き、男の身体が吹き飛んで木の根元に激突した。
「終わったか……?」 柊が肩で息をしながら近づこうとした、その時。
男の身体が、音もなく崩れた。
ぱらぱらと灰のように解けていく。腕が、胴が、顔が。中身など最初からなかったかのように、服と人の形をした残骸だけがそこに取り残された。
木の枝から、極彩色の小鳥が飛び立っていた。木漏れ日の中で一瞬だけ不自然な光の尾を引き、そのまま森の奥へと滑るように消えていく。
クロは男の残骸には目もくれず、小鳥の消えた方角をいつまでも警戒するように睨みつけていた。
内山は何も答えなかった。ただ静かに目を細め、小鳥の消えた方角を見ていた。
内山が前を向いたまま言う。 「急ぐぞ」
「レンさんがやってたのと、似てるな」
澪は前を見たまま、小さく頷いた。「似てる。でも、向きが逆よ。味方にするのと、縛るのと」
柊はしばらく黙った。それから、少し前を歩く内山の背中に声をかけた。
「内山さん。レンさんの手帳、何かあるんですか」
内山は振り返らなかった。
「……どうして、物が動かせたんだろう」
少し間があって、内山が短く返した。
「振動物理学。手のひら一枚で、世界の機械と位相を合わせる理屈だ」
「同じなのだろうか…さっきの男とも」
「同じだ。だが、君の師匠のそれは、次元も理論も、全く異なる」
内山は少し黙ってから口を開いた。それは躊躇だったのかもしれない。
「あれの呼び方があるとするなら」
「輪廻…」
呟いたのは澪だった。
内山はそれ以上、何も言わなかった。




