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隣の彼女は異世界の妻でした  作者: 佐々木勇二


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狂乱の都市と、夜を鎮める歌

レムとゼンの姿が、極彩色の人混みの向こうへ完全に溶けて見えなくなるのを、二人はしばらく黙って見送っていた。

背後にそびえる巨大な競技場の外壁では、擬幻の竜がなおも空を旋回している。鱗の光が壁面を滝のように流れ、その強烈な光を浴びるたびに、周囲を歩く観客たちの腕輪が一斉に明滅した。

「……すごい街ね」 澪が小さく呟いた。

感心しているようにも聞こえたが、その声音にはどこか硬い芯があった。

柊は隣を見た。澪の視線は頭上の派手な竜ではなく、その下に広がるアリの群れのような観客席へと向けられていた。

「どうした」 「……音」 短い返答だった。 「さっきから、少し変」

柊も耳を澄ませた。歓声、笑い声、足音、店先のけたたましい呼び込み。巨大都市ならではの雑多な音が渦を巻いている。

「気のせいじゃないか?」

澪は無意識に、腕輪を外した自分の手首へ触れた。

数歩先を歩いていた内山の足が、ぴたりと止まった。クロも同時に耳を伏せ、喉の奥で低く警戒の唸り声を上げる。 空気が、明確に変わった。

競技場の方角から、歓声とも悲鳴ともつかない大きなどよめきの波が押し寄せてくる。さっきまでの熱気とは明らかに質が違う。ざわめきではなく、何かが根本から崩れ落ちるような音だった。

内山が短く言った。 「……始まるのが早すぎる」 「何がです」

誰かが走り出した。それにドミノ倒しのように押され、周囲の人間も一斉に無秩序な方向へと動き出す。

「ここを離れる。レム達なら大丈夫だ」 内山の声は低く、一切の迷いがなかった。

柊は澪の腕を掴んで、人波に逆らうように路地へと潜り込んだ。

一方、競技場のすぐ近くでは。

熱気を帯びた人波のど真ん中。レムとゼンはそこにいた。

巨大な外壁は、近くで見ると建物というより一つの空だった。壁面いっぱいに映像が走り、剣を振るう選手たちや炎を吐く幻獣が次々と映し出される。見上げるだけで首が痛くなる高さを、火炎の竜が悠々と旋回していた。

「……すごいね」 レムは足を止めたまま、半ば呆然と呟いた。

そのゼンの目が、ふと細められた。 「……妙だな」 「何が?」 「光だ」

レムは言われて、周囲の観客たちの腕輪を見た。さっきまで思い思いの色でばらばらに見えていた光が、今はなぜか一色に揃い始めていた。色も、明滅の間隔も、その強さも。

その時、競技場の内側からひときわ大きな歓声が上がった。外壁の映像が切り替わり、周囲がどっと沸く。

レムのすぐ前にいた女が、何の前触れもなく、隣で笑っていた男の顔に爪を立てたのだ。

男は怒鳴るでもなく、満面の笑みを浮かべたまま女の腕を振り払う。そして、その笑顔のまま、今度は自分の前にいた人間を力任せに突き飛ばした。

周囲の腕輪の光が、一斉に不気味な赤に濁った。誰かが笑い、誰かが叫び、誰かが意味もなく走り出す。理性が完全に吹き飛び、本能だけが暴走した異常な空間。

ゼンがレムの腕を強く掴んだ。 「下がれ、レム!」

その声が終わるより早く、競技場の内側から本物の悲鳴が突き刺さった。入場ゲートが内側からの圧力で割れた。人が雪崩のように溢れ出してくる。走る。ぶつかる。掴む。引き倒す。

「走るぞ!」

二人は路地を駆けた。狂気に当てられた人の波が、すぐ後ろから押し寄せてくる。怒号はない。だが、足音だけが不気味なほど揃っていた。それが余計に恐ろしかった。

曲がり角を抜けた先で、一人の少女がレンガの壁に背を押し当てていた。両手で喉元を強く押さえ、小刻みに震えている。暴徒の群れが三方から迫っていた。

レムは少女の腕を見た。群れの腕輪が赤く揃って明滅する中、この子の腕輪だけが光を失い、冷たく沈黙していた。

「おい、そこ!」 ゼンの鋭い声に、少女が怯えたように振り向く。

「走れるか!」

ゼンは答えを待たなかった。群れの側面に強引に割り込み、肩を使って一瞬の隙間をこじ開ける。

「今だ!」 少女が走り出した。レムがすかさず並走し、その細い手を強く引く。

三人は入り組んだ裏路地を抜け、都市の端にある古びた廃屋の扉を蹴り開けた。中へ滑り込み、ゼンが素早く扉を閉めて体重をかけ、外を警戒する。

月光が、床に積もった埃を白く照らしていた。

窓の外では、暴走した共鳴尖塔の光が、街の空を血のような赤に染め上げていた。

ゼンは扉に背を預けたまま、窓の隙間から外の気配を探っている。レムは膝を抱えた少女の隣に座り、自分の呼吸がひどく浅くなっていることにようやく気づいた。

しばらくして、外の足音が少しずつ遠ざかっていく。

ゼンが小さく息を吐いた。「……行ったか」

レムは隣の少女を見た。膝を抱えたまま、まだ小刻みに震えている。

「……大丈夫?」

少女は答えなかった。ただ、怯えた小動物のように、こくりと小さく頷いた。

「名前、聞いてもいい?」 少し間があった。 「……タウ」

かすれた、消え入りそうな声だった。

レムは優しく頷いた。「私はレム。こっちで立ってるのがゼン」

ゼンは振り返らなかった。外を警戒したまま、途中でくすねてきたらしいパンをレムとタウの膝元に放り投げる。

タウが受け取る。少し、迷う。

レムは懐から、黒い手帳を取り出した。

膝の上に置いて、表紙をそっと撫でる。焦げ跡のざらつきが指先に引っかかる。

タウの視線が、その手元で止まった。 「……それ」 言いかけて、止まる。

「見る?」 レムが聞くと、タウは少しだけ迷ってから、そっと頷いた。

レムは手帳を開いた。荒々しい乱暴な字と、定規で引いたような整った字。二種類の筆跡が交互に並んでいる。

「レンの手帳。中に、もう一人いたの。彼らはいつも、こうして手帳の中で話してた」

タウが覗き込んだ。ページをゆっくりめくる。

「……最後の、読んでいい?」 レムは頷いた。

タウは、かすれた声で音読した。 「『彼は行きました。自分の足で。』」

沈黙が落ちた。 タウの大きな瞳から、ぽろりと涙が落ちた。

「……羨ましい」 震える声だった。 「自分の足で行く場所があったんだね」

タウは続ける。膝を強く抱え込み、声を殺すようにして。

「お父さんが消えてから、ずっと自分がどこにいるかわからなかった。ただ怖くて、誰かに合わせて、自分が消えないように歌ってただけ」

「……歌いたくて、来たんだ。この街に」 レムが顔を上げる。

「夢かもしれない、でも誰かに届けたくて」 タウは膝を見たまま続けた。

「……私も、自分の足で行きたい」 今度は震えていなかった。

やがてタウが顔を上げた。涙の跡が月光に白く光っている。 「……決めた」

その声は、さっきより少しだけ芯があった。

「歌い手になりたい。怖くて歌うんじゃなくて、誰かに届けるために歌いたい。そうでもしないと、心が持たない気がするの」

「タウの歌、聴きたいな」 レムが真っ直ぐに目を見て言った。

その時。 「おい」

階下にいたゼンの声が落ちてきた。低く、短く、ひどく張り詰めた声。

「囲まれた」

裏口を蹴り開けた。

腕輪を赤く光らせた暴徒たち。赤い瞳。完全に理性を失っているはずなのに、彼らの動きは統率された軍隊のように整然としていた。

三人の前へ、ひとつの影が音もなく落ちた。

漆黒の外套。月光を背に、一人の男が立っていた。 「下がっていろ」

男が剣を抜いた。金属音がしなかった。

舞うように動く。一人ずつ。刃の平で触れるたびに、暴徒が弾き飛ばされる。

斬れていない。峰打ちですらなく、衝撃だけで無力化している。

ゼンが眉をひそめた。「……斬ってねえぞ」

男は答えない。ただ、無駄のない動きで迫る群れを捌いていく。

レムが気づいた。「……血?」

外套の内側が、静かに赤く濡れている。それでも男は止まらない。もう一歩踏み込む。だが、その動きがわずかに遅れる。

ゼンの顔が歪む。「おいっ、無理してんだろ!」 返事はない。

最後の一人に剣の平が触れる。暴徒が崩れ落ちる。 静寂。

男の足が止まった。次の一歩が出ない。剣先が、わずかに下がる。

レムが叫ぶより早く、男の膝が石畳に折れた。

「……なんで」

でも、その横で、タウが震えながら立っていた。

逃げていない。喉を震わせ、声を出そうとしている。

——触れれば、止まる。 タウは自分の喉に両手を当てた。

歌は、空気を震わせ、人に触れるものだ。

レムは手帳を抱きしめた。 「……私も」

喉が震えた。足がすくむ。それでも、顔を上げる。

「私も、強くならなきゃ。レンの矜持を汚さない」

その瞬間、タウの最初の一音が、夜気の中にこぼれ落ちた。

弱い声だった。けれど、決して消えない、透き通った音。

ゼンが息を呑む。「……なんだ、これ」

レムは涙を浮かべたまま、タウを見る。タウは歌い続ける。止めない。目を閉じ、ただ祈るように歌い続ける。

「……戻って」 最後の言葉が、歌に乗せてこぼれた。

「今だ。あの人も連れていかなきゃ」 レムが弾かれたように立ち上がった。

その時、曲がり角の向こうから新たな足音が響いた。まだ歌の届いていない別の群れだった。

ゼンが立ち止まった。手にした鉄パイプを強く握り直し、レムたちとは逆方向を向く。

「おとりになる。お前らはあの人を連れて逃げろ」 「ゼン!」 「行け!」

振り返らなかった。そのまま、新たな群れの方へ怒号を上げて駆けていった。

その瞬間、高い屋根の上から別の影が舞い降りた。

「……やれやれ。隊長の向こう見ずにも困りものだけど、この子たちの意地も相当なものね」

ダリだった。手際よく膝をついた剣士——ブラスの肩を貸し、レムたちを路地の奥へと促した。

レムはブラスの反対側の肩を抱えた。男の身体はひどく重い。それでも、絶対に離さなかった。

手帳が胸の内側で、まだ確かな熱を持っていた。




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