第365話:『三つの鏡と、未だ見ぬ守成(しゅせい)』
秋の空はどこまでも高く、突き抜けるような蒼を湛えていた。
真昼の陽光は鋭いが、荒野を吹き抜ける風は湿り気を一切含まず、肌を刺すような冷たさを運んでくる。
建設が進む『道の駅・ガレリア北壁店』の敷地内には、不釣り合いなほどの熱気と音が渦巻いていた。
マキナの弟子たちが組み上げた「蒸気式重機」が、黒い煙を吐きながら巨大なアームを動かし、岩を砕く。その傍らでは、帝国と北辰同盟の関係者たちが、共に汗を流していた。
その光景から少し離れた小高い丘の上。
ユリウス、レオン、ゼイドの三人は、眼下の喧騒を複雑な面持ちで見つめていた。
「……もうすぐ数万の敵が押し寄せてくるというのに」
ユリウスが、砦の反対側に位置する「足湯」や「茶室」を指差して、ぽつりと呟いた。
「軍師殿は、なぜこれほどまでの資材と時間を、戦に関係のない『娯楽』に割くのだろうか。不謹慎にさえ見えてしまう」
実直なゼイドも頷く。
「砦の強化を優先すべきではないのでしょうか。あの重機があれば、防壁をさらに厚くすることもできたはずだ」
三人の背後で、小石を踏む硬質な靴音が響いた。
振り返ると、いつものように襟元を完璧に整えたアイゼンハルト監査官が、片手に胃薬の瓶、もう片手に帳簿を抱えて立っていた。
「……それは、軍師殿がこの場所を『鏡』にしようとしているからですよ。皇子殿下」
アイゼンハルトの声は、相変わらず冷徹だが、どこか以前にはなかった熱が混じっていた。
「鏡、だと?」
「ええ。皇帝陛下がかつて仰った、君主が持つべき『三つの鏡』の教えをご存知ですか?」
ユリウスは目を見開いた。帝王学の講義で聞いた覚えがある。
「一つ目は、銅の鏡。自らの容姿と身なりを整えるための鏡です」
アイゼンハルトが、整然と並ぶシュタイナーの精鋭部隊を指す。
「一糸乱れぬ隊列、磨き上げられた装甲。それは帝国の威厳という『外見』を敵に見せつける鏡です。これにより、敵は戦う前に己の矮小さを知る」
「二つ目は、歴史の鏡。過去の興亡を映し、現在の過ちを知る鏡です」
アイゼンハルトの視線が、工事を手伝うカナンの民へと向けられた。
「覇国がカナンを滅ぼし、恐怖で統治しようとして今、自壊しようとしている。軍師殿はその歴史を鏡とし、逆の道を歩もうとしておられる」
アイゼンハルトは一度言葉を切り、懐から小さな紙包みを取り出した。先日、彼が「戦略物資」として承認したばかりの、塩気の効いたフライドポテトだ。それを一口噛み、ふぅと息を吐く。
「そして三つ目は、人の鏡。己の過ちを指摘し、正してくれる臣下という名の鏡です」
彼は自嘲気味に笑った。
「軍師殿は、私のような小うるさい監査官や、異論を唱える将軍たちを遠ざけない。それどころか、あえて傍に置き、自らの策を磨くための鏡としておられる」
「では……あの茶室や足湯も、鏡だと言うのか?」
ユリウスの問いに、アイゼンハルトは深く頷いた。
「あれは、北の民にとっての鏡なのです。自分たちが信じてきた『恐怖と飢えの世界』と、帝国が示す『平和と豊かさの世界』……そのどちらが正しいかを映し出し、比較させるための、巨大な鏡ですよ」
ユリウスは絶句した。
リナが頑くなに「遊び」に見える施設を優先させたのは、武力で敵を倒す前に、敵の「心の中にある正義」を倒すためだったのだ。
◇◆◇
時を同じくして、数キロ先の『北辰同盟』の陣幕。
バラク、ゴード、エルラの三族長は、リナから届けられたばかりの「贈り物」を囲んでいた。
それは、白い柔らかな餅の中に、甘く煮た赤い豆の泥――あんこが詰まった和菓子、大福だった。
「……ふむ。相変わらず、軍師殿の贈るものは腹に溜まるのう」
バラクがその白い塊を頬張り、鳶色の瞳を細めた。
「クルガンを討つ。……それは我ら戦士にとっては『創業』。すなわち、事を成す始まりに過ぎん」
バラクの声は、焚火の爆ぜる音よりも低く響いた。
「だがな、ゴード。エルラ。本当に難しいのは、その後にこの甘い菓子を、民全員が笑って食える世界を維持することだ。……それを『守成』という」
ゴードが、巨大な拳を膝に置いた。
「守成……。戦うよりも難しい、というのか」
「当たり前よ。クルガンの首を獲るのは、牙を剥けば済む。だが、奪うことをやめ、交易し、法を守り、この平和を何十年と守り続けるのは、わしらのような血生臭い古狼には荷が重い仕事じゃ」
バラクは、自分の息子アランが、陣の外で若い戦士たちと談笑している姿を見つめた。
「軍師殿は、わしらにその『守成』の主になれと言っておられる。……戦うことしか知らぬ獣に戻るな、とな」
能面のようなエルラの顔に、微かな、しかし確かな慈愛の笑みが浮かんだ。
「復讐の後の空虚さを、あの方はパンと茶で埋めようとしているのですね。……傲慢なまでに優しい御方だわ」
「ああ。だからこそ、この戦……絶対に負けられん。わしらの世代で血を流し尽くし、あやつらには『守るべき価値のある世界』を渡してやらねばならんからな」
バラクは最後の餅を口に放り込み、力強く立ち上がった。
その顔は、ただの反乱軍の長ではない。未来の北の安寧を背負う、統治者の威厳を纏っていた。
◇◆◇
丘の上。ユリウスは、遠くで忙しなく走り回る小さな、丸い防寒着に包まれたリナの背中を見つめていた。
(僕は……。彼女という鏡に、どう映っているのだろうか)
父である皇帝ゼノンが、彼女を「帝国を救う怪物」と呼んだ意味。
そしてアイゼンハルトが、彼女を「思想」と呼んだ理由。
それが、秋風と共にユリウスの胸に深く染み込んでいった。
「……レオン、ゼイド。行こう」
ユリウスの声には、迷いが消えていた。
「いつか彼女の傍らに、相応しい鏡として並び立てるように。まずはこの戦場、一瞬たりとも目を逸らさずに見届けるぞ」
建設現場の軒先に吊るされた風鈴が、鋭い北風を受けて「チリン」と涼やかに鳴った。
◇◆◇
北壁の砦を、腹の底を揺さぶるような地鳴りが震わせていた。
「左だッ! 盾の角度が三度高い! それでは雨が防げん……ではなく、敵の威圧が削がれると言っておるのだッ! 揃えろ! 魂を揃えろォッ!!」
窓枠に肘をつき、私は眼下の練兵場で仁王立ちするシュタイナー中将を眺めていた。
……便所掃除の脅しが効きすぎているのか、最精鋭の兵士たちが、まるで精密機械か何かのようにお互いの顔色を窺いながら行進している。
(……過保護が。過保護が服を着て大剣を担いで暴走してる……)
私は、ズキズキと痛み始めたこめかみを両手で押さえ、そっと窓を閉めた。あの咆哮を聞き続けていたら、私の豆腐メンタルまで粉砕されてしまいそうだ。
先ほどまでのぼんやりした空気は消え、私の背筋に、冬の足音のような冷たい戦慄が走る。
(……本当に、始まるんだ)
私が描いた絵図。私が動かした駒。私が煽った敵の猜疑心。
それらすべてが、あの荒野で一つの大きな濁流となって激突する。
バラクさんたちが命を懸けて舞台に上がり、私はそれを安全な場所から見守る。アイゼンハルトさんやユリウス皇子たちが、なにやら難しい顔をして私を「国の未来を映す鏡」だとか「統治の思想」だとか呼んでいる気配は、なんとなく感じている。
……でも。
(…………いやいやいや。無理無理、そんな難しいこと考えてないから!)
秋の冷たい風を頬に受けながら、クララ特製の「ずんだ大福」を頬張る。
お茶は少し濃いめがいい。
あの大騒ぎのお忍び視察で、陛下や将軍たちが足湯に浸かって真っ赤な顔をして笑っていた。あんな平和な「ゆるい」光景こそが、私の目指すゴールのすべてだ。
「『道の駅・ガレリア北壁店』。目玉商品が抹茶と足湯だけじゃ、リピーターが掴めないわ」
――ガリガリッ。
ペン先が、凄まじい勢いで紙の上を走る。
「まずは『北壁・岩塩クッキー』。保存が利いて、兵士の塩分補給にもなるわ。パッケージは……そう、可愛いキャラクターが必須ね」
私の脳内に、前世の記憶に眠る「ゆるキャラ」の概念が光臨した。
「北壁だから……『ウォール・ベア』? いや、ひねりがないわね。……あ、『シュタイナー中将の顔をした、おにぎりみたいな形の妖精』はどうかしら。名前は『にぎり・シュタイナー』。……いや、それは物理的に首が飛ぶわね。却下」
私は即座にそれを二本線で消し、次の案を書き殴る。
「バラクさんの部族をモチーフにした、狼の耳がついた丸っこいマスコットがいいわね。……『くるるん狼』。うん、可愛い。ぬいぐるみにして、北の民の子供たちに配るの。で、そのグッズを道の駅で限定販売する。収益の一部はカナンの民の学費に充てる……完璧なCSRじゃない!」
ふふっ、と。
銀の仮面の下で、私の口元がだらしなく吊り上がった。
アイゼンハルトさん。ユリウス皇子。
貴方たちが「新時代の鏡」だなんて神格化して見てくるから、私、なんだか凄くかっこいいことを考えてるふりをしなきゃいけないじゃない。
でも、ごめんなさい。
私の本音は、今この瞬間も。
「くるるん狼」のぬいぐるみの毛並みを、さらふわにするかモコモコにするか。
その一点で、数万の命の天秤よりも激しく揺れ動いているのだった。
「……ふふ、ふふふふ。お土産物コーナーの配置はどうしようかなぁ……」




