第364話:『北辰の出陣、受け継がれる戦化粧』
北の荒野を撫でる風が一段と鋭く冷たさを増していた。
『風読む民』の野営地に張られた巨大な天幕の奥。そこは外の刺すような冷気とは裏腹に、息苦しいほどの熱気とピリピリとした緊張感に満たされていた。
天幕の片隅、揺らめく焚火の影が不自然に身を捩ったかと思うと音もなく一人の男が姿を現した。ゲッコーの配下である『影』の伝令だ。
彼は深く片膝をつき、円座する三人の族長へ向けて感情の乗らない低い声で告げた。
「――軍師殿より伝達。明日中に予定の防衛ラインへの布陣を完了されたし。早ければ明後日の朝にはクルガン本軍が想定戦域に到達する見込みです」
その報告が落ちた瞬間、天幕の周囲に控えていた三部族の隊長格たちの顔に緊張が走った。
ついに来る。
数万の狂気に飲まれた大軍と直接刃を交える刻が。圧倒的な数的不利と、かつての絶対的支配者に対する本能的な恐怖が彼らの屈強な肉体を微かに強張らせているのが見て取れた。
だがその空気を断ち切るようにふっと低い笑い声が響いた。
「がっはっは! なんだもう明後日か! 狂王様も随分と生き急ぐものよ!」
豪快に膝を叩いたのは『赤土の民』の族長ゴードだった。巨体を揺らし、燃えるような赤毛を振り乱して獰猛に歯を剥き出す。
「こっちはとっくに準備万端だ! 腹いっぱい飯を食って牙を研いで待ってたんだからな!」
「ええ。むしろこれ以上待たされれば刃が錆びてしまいますわ」
『黒森の民』の族長エルラが能面のような静けさの中に冷たい青白い炎を宿した黒曜石の瞳を細めた。
彼ら三族長の顔に焦りや怯えは微塵もなかった。
背後に数万の敵が迫ろうとも彼らはすでに腹を括り、自らの意志でその死地へ飛び込むことを選んだ『北の主』たちだ。その底知れぬ余裕と肝の太さがピリピリと張り詰めていた隊長たちの空気を一瞬にして別のものへと変質させていく。
「さて、予定が明確になったのなら話は早い」
『風読む民』の族長バラクがゆっくりと立ち上がった。鳶色の瞳が居並ぶ若き隊長たちをぐるりと見渡す。
「良いか皆の者! 本日の昼までは各自現在の待機場所にて休息と支度を整えよ!」
その声は老いてなお荒野を響き渡る雷鳴のように力強かった。
「太陽が天中を過ぎた刻を以て隊列を組み出立する! 途中の平野で野営を挟み、明日には予定地である後方陣地へ布陣を完了させるぞ。そこでたっぷりと英気を養い……明後日の朝クルガンの鼻っ柱に我らの牙を突き立ててやる!!」
その明確で力強い号令に隊長たちの顔から強張りは完全に消え去っていた。
代わりに浮かび上がったのは決戦へ向かう武者震いと、誇り高き狼としての熱い闘志。
「「「おおおおおっ!!!」」」
隊長たちは一斉に拳を天に突き上げ、赤く上気した顔で咆哮した。彼らは血気盛んに天幕を飛び出し、自らの部隊へ号令を伝えるべく風のように走っていった。
その頼もしい背中を見送った後、ゴードは首をボキボキと鳴らしながら立ち上がった。
「じゃあなバラク。俺たちも自分の陣に戻って支度をさせるとしよう」
「ええ。次に会う時は戦場ですわね」
エルラも静かに立ち上がりマントを翻す。
「おう。……二人とも遅れをとるなよ」
バラクの言葉に二人の族長はニヤリと不敵な笑みを返し、「では後ほど」と天幕を後にした。
◇◆◇
隊長たちと他部族の長が去り、静けさを取り戻した天幕。
そこへ香草の強い香りを漂わせながら、一人の老人が足を引きずるようにして入ってきた。
骨と鳥の羽で飾られた杖をつく風の部族の長老――シャーマンだ。
彼は無言のまま焚火の前に小さな木鉢を置いた。鉢の中には神聖な赤い土と獣の脂、そして香草を練り合わせた「戦化粧」の顔料が入っている。
「……長老。頼む」
バラクは静かに腰を下ろし目を閉じた。
長老の節くれ立った指が赤い顔料を掬い、バラクの額から頬にかけて北の神々への加護を祈る太い線を描いていく。
かつてリナを「魔女」と呼び忌み嫌っていたこの老人も今ではバラクの決断を誰よりも理解し、部族の魂を支える精神的支柱としてその背中を押していた。
静かな祈りの声と顔料の擦れる音だけが響く中。
バラクは目を閉じたまま傍らに直立して控えている息子に声をかけた。
「……アランよ」
「はっ。父上」
アランが一歩進み出る。
バラクは戦化粧を施されながらゆっくりとその鳶色の瞳を開き、息子を真っ直ぐに見据えた。
「今回の戦い……軍師殿が用意してくれた舞台とはいえ相手はあのクルガンだ。何が起こるか分からん」
バラクの声はいつもの豪放磊落なものではなく、深く腹の底を響かせるような重みを持っていた。
「状況によっては……わしは全体への指示や対応ができん状態になるかもしれん」
その言葉の意味するところにアランはハッと息を呑んだ。
それは最前線でバラクが倒れる、あるいはクルガンと直接刃を交えて指揮系統から外れる可能性を示唆している。
「……その時はお前が指揮を執れ。……その心積もりはしておけ」
アランの瞳が一瞬だけ大きく見開かれた。
だがすぐにその唇が真一文字に結ばれ、父の覚悟のすべてを受け止めるように力強く、そして静かに顎を引いた。
「……御意に。この命に代えましても同盟の旗は決して折らせませぬ」
その青年の顔にはもう迷いや父親に頼る気配はなかった。次代の『風読む民』を背負う一人の族長としての決意の顔に変わっていた。
その息子の成長ぶりを見てバラクは満足げに目を細めた。
彼は視線を横へ移し、戦化粧を終えようとしている長老に向かって少し悪戯っぽく笑いかけた。
「……長老。アランにも……頼めるか」
その言葉に長老はピタリと手を止め、アランの顔をじっと見つめた。
そして深く刻まれた顔の皺をくしゃくしゃにして、枯れた喉から独特の笑い声を漏らした。
「……ひょーっひょっひょっひょ!」
長老の目が慈愛に満ちた細い線になる。
「良い顔をするじゃないか若造。……死地へ向かう狼の目ではなく、群れを導く番犬の目じゃ。……こっちへ来い」
アランは静かに頷き、父の隣に腰を下ろした。
長老の指が若き戦士長の額に鮮やかな赤の戦化粧を施していく。
それは単なる祈りの儀式ではない。北の厳しい荒野を生き抜いてきた『風読む民』の魂が、そして族長としての重圧と誇りが父から息子へと確かに受け継がれた瞬間だった。
天幕の隙間から天中へと向かう太陽の光が差し込む。
彼らの出陣の刻は、もう目の前まで迫っていた。




