第363話:『微睡みの頭撫でと、鋼鉄の便所掃除』
ぽえーっ……と。
まぶたの裏で揺れていた薄暗い夢の残滓が、柔らかな光に溶けていく。
分厚い羽毛布団の中で身を捩ると、窓から差し込む暖かな陽光が私の頬を優しく撫でた。
「んん……」
ゆっくりと目を開ける。
視界に入ってきたのは作戦室の冷たい石壁ではなく私室の豪奢な天蓋だった。
頭がひどくぼんやりしている。鉛のように重かった身体は嘘のように軽く、心地よい脱力感に包まれていた。
(……あれ? 私、いつの間にベッドに?)
記憶の糸を手繰り寄せる。
空が白むまで、私は『天翼の軍師』として盤面の最終確認と命の選別に心をすり減らしていた。そして極限のプレッシャーに耐えきれず、通信機越しにグレイグ中将にみっともない泣き言を漏らして……。
「――っ!!」
一瞬にして顔面から火が出るかと思うほどカッと熱くなった。
(うわあああああ! 泣いた! 鼻水までズルズル言わせて、大の大人の前で子供みたいに大泣きしたっ!)
ベッドの上で身悶えし、枕に顔を押し付ける。
(あぁあ……どんな顔して今度グレイグさんに会おうか……。慰めてもらったのはありがたいけど、穴があったら入りたい……!)
ひとしきりベッドの上でジタバタと悶絶した後、私はふぅと大きく息を吐き出して寝返りを打った。
その時。
シーツの端に美しい髪がこぼれ落ちているのに気がついた。
「……セラさん?」
ベッドの縁に寄りかかるようにして、セラが突っ伏して眠っていた。
普段は一糸乱れぬ完璧な淑女であり、氷のように冷徹な副官である彼女が、今は防寒用のショールを肩に掛けたまままるで疲れた子供のように無防備な寝息を立てている。
きっと私が泣き疲れて眠りに落ちた後も、ずっと傍で見守ってくれていたのだろう。
窓からの光が彼女の透き通るような白い肌と長い睫毛に落ちる影を美しく縁取っていた。
その目元には隠しきれない疲労の色が薄っすらと滲んでいる。
(……ごめんなさい、セラさん)
私は毛布の中からそっと手を伸ばし、彼女の滑らかな髪に触れた。
さらりとした感触。そのまま愛おしい妹を労わるように、ゆっくりと優しく頭を撫でる。
私の精神年齢は彼女よりもずっと年上だ。
いつも私を「小さな主君」として、あるいは「守るべき妹」として過保護なまでに世話を焼いてくれる彼女たち。その献身に甘えてばかりで、私は昨夜またしても弱いところを見せてしまった。
(……大人としてもっとしっかりしないとダメね)
撫でる手に確かな感謝の念を込める。
(……この温かい日常を必ず守り抜く)
気持ちを新たに締め直し、私は窓の外の青空へ視線を向けた。
太陽はすでに高く昇っている。どうやらすっかり昼過ぎまで寝こけてしまったようだ。
「ん……ぅん……」
私の手のひらの下でセラが小さく身じろぎをした。
長い睫毛が震え、翠の瞳がとろんと開かれる。
寝ぼけ眼の彼女の視界に、窓の外を穏やかな表情で見つめながら、自分の頭を優しく撫でている私の姿が映った。
「……え? あ、れ……?」
セラの瞳がぱちぱちと瞬きを繰り返す。
状況が飲み込めていないのか、その表情がみるみるうちに赤く染まっていった。自分が主君のベッドに突っ伏して寝落ちしていた事実と、あろうことかその小さな主君に「よしよし」と頭を撫でられているという現実。
「あ、あああっ! わ、私としたことが……! 申し訳ございません、リナ様っ!」
セラは弾かれたように飛び起き、慌てて乱れた髪と服のシワを整えようと両手をバタバタと泳がせた。
「お、お、ちゃんとお傍でリナ様をお守りしなければならなかったのに……! 決して、決して気を抜いていたわけでは……っ!」
氷の副官の面影はどこへやら。顔を真っ赤にして「わたわた」と慌てふためくその姿はあまりにも可愛らしくて、私は思わずくすくすと吹き出してしまった。
「ふふっ、おはようございます、セラさん。……朝ごはんと言いたいところですけど、もうお昼ですね」
「ひ、昼……! はっ! そうです、もうこんな時間……!」
セラは咳払いを一つして、必死にいつもの完璧な仮面を貼り直そうとしているが、まだ耳の先が真っ赤だ。
私はベッドの上に身を起こし、表情を引き締めた。
「今日中に帝国軍と北辰同盟の連携について細かな指示を出しておかないと。決戦は明後日です。時間が……」
「大丈夫ですよ、リナ様」
セラがふっと柔らかな、そしてどこか呆れたような微笑みを浮かべて私の言葉を遮った。
「そちらの準備につきましてはシュタイナー中将閣下がえらい張り切っておられましたから。……そこはお任せしてしまいましょう」
「え? 中将がですか?」
私が首を傾げたその瞬間。
セラが部屋の隅に向かってスッと視線で合図を送った。
それを待っていたかのように重厚な扉が音もなく開き、完璧な笑顔を浮かべた侍女長クララと数名の侍女たちが雪崩れ込んできた。彼女たちの手には真新しい豪奢な服、そして各種手入れ道具が握りしめられている。
「お待ちしておりましたわ、リナ様。では、ご準備を」
クララの声はもはや逃げ場のない包囲網の完成を告げる合図だった。
「えっ、ちょ、えええ!?」
私はベッドの上で後ずさったが、熟練の侍女たちの手が流れるような手際で私の寝間着のボタンに伸びてくる。
「せ、セラさぁぁん!」
「行ってらっしゃいませ、リナ様。お食事は着替えの後に用意しておりますわ」
セラは優雅に手を振ると、扉の前に控えていた鋼の騎士に向かって微笑んだ。
「ヴォルフラムさん。お着替え中のリナ様の警護よろしくお願いしますね」
「はっ! この瞳、決して瞬き一ついたしません!」
「いやヴォルフラムさん見ないで! 目を閉じてて!」
私の悲鳴が私室に虚しく響く中、セラはそのままくるりと踵を返した。
着替えの戦場と化した部屋の扉が閉まる直前。
廊下で待機していたヘルマンが分厚い書類の束を抱えてセラの前に進み出た。
「――セラ様。後方支援と物資配置の最終確認をお願いできますか?」
「ええ。執務室で」
その声は先ほどまでの「わたわた」していたポンコツなお姉さんのものではない。
冷徹で有能な帝国の頭脳。完璧な副官の顔に戻ったセラは軍靴の音も高らかに颯爽と廊下を歩き去っていった。
◇◆◇
一方その頃。北壁の砦、大練兵場。
冷たい北風が吹きすさぶ中、帝国軍が誇る精鋭部隊の数千人が微動だにせず整列していた。
彼らの前に立つのは見上げるような巨体から圧倒的な覇気を放つ北壁の守護神・シュタイナー中将。
その顔はかつてないほどに紅潮し、眼光は獲物を前にした獣のように爛々と輝いていた。
「――良いか、貴様ら!!」
腹の底から絞り出された地鳴りのような号令が練兵場の端から端までビリビリと震わせる。
「明後日が本番である!! 我らが軍師殿の描かれた完璧な絵図。それを寸分の狂いもなく、この北の荒野に描き出すのが我ら帝国軍の務めと心せよ!!」
シュタイナーは腰の大剣の柄をギリィッと握りしめ、兵士たちをギロリと睨み据えた。
「行軍の足並み、盾を構える角度、槍の高さ、旗の翻る音!! その全てにおいて一糸乱れぬ『完璧な威容』を敵の眼球に焼き付けろ!! 僅かでも隊列行動を外れる者が居たら……」
中将の声がふっと地獄の底から響くような低さに落ちた。
「その小隊は全員連帯責任で『便所掃除一ヶ月』の刑に処す!!」
「「「ヒッ……!!」」」
その瞬間、歴戦の精鋭たちの顔から一斉に血の気が引いた。
ただの便所掃除ではない。北壁の砦におけるシュタイナー中将直轄の便所掃除とは、汚れ一つ、いや、水滴の拭き残し一つ許されない精神と肉体を極限まで削り取る「地獄の苦行」として軍内で恐れられているのだ。
「判っておるなァッ!!」
「「「は、はぁぁぁぁぁっ!!!」」」
恐怖に震え上がった部隊の返答が地鳴りとなって響き渡る。
グレイグから「あいつ(リナ)の重荷を背負ってやってくれ」と頼まれた結果、この不器用な猛将の「過保護」はなぜか自軍の兵士たちへの『極限のプレッシャー』という形で大暴走していた。
来るべき決戦の舞台へ向けて、帝国軍の士気(と便所掃除への恐怖)は今、最高潮に達しようとしていた。
つかの間の休日?




