第362話:『震える肩と、遠き獅子の声』
作戦室での堂々たる宣言を終え、重厚な扉を閉めた瞬間。
私の背筋を支えていた見えない鋼の糸がぷつりと音を立てて切れた。
自室に戻るなり私は銀の仮面をテーブルに放り出し、そのままベッドへと倒れ込んだ。
分厚い羽毛の毛布に顔を埋め、ぎゅっと身体を丸める。
(……言ってしまった)
帝国軍の最高顧問として。大陸の運命を握る『天翼の軍師』として。
完璧な盤面を敷いた。あとはバラク殿たち北辰同盟がクルガンと激突し、その手で引導を渡すだけだ。
だが――。
ガチガチと奥歯が鳴った。
私の指示で彼らが血を流す。もし私の読みが一つでも外れれば? もしクルガンが想像を絶する暴挙に出たら? もしあの見えざる凶弾(MC-1)を使わざるを得ない状況に陥ってしまったら?
数万の命の重さが小さな背骨を物理的に押し潰そうとしていた。
「……リナ様」
カチャリと温かいミルクの入ったカップがサイドテーブルに置かれた。
セラさんがベッドの縁に静かに腰を下ろす。その手が毛布ごと私の震える背中を優しく撫でた。
その温もりに触れた瞬間、私は堪えきれず枕元に置いてあった『囁きの小箱』を両手で強く握りしめた。
震える指で「あの人」の回線を繋ぐ。
『――おう、リナか。どうした』
ノイズ混じりでもはっきりと分かる、豪放で太い幹のような声。
グレイグ中将の声を聞いた途端、私の目からぼろぼろと大粒の涙が溢れ出した。
「……中将……ぐずっ……私……」
私は軍師の威厳など完全に放り捨て、ただの泣き虫な子供のように鼻をすすった。
「怖いんです……。もし私のせいでバラクさんたちが……。いくら最善を尽くしても、もし想定外のことが起きてしまったら……誰も死なせたくないのに、私の手がたくさんの人を……」
通信機の向こうで、グレイグが短く息を吐き出す音が聞こえた。
葉巻の煙をゆっくりと吐き出すような、静かで深い呼吸の音。
『……リナよ。よく聞け』
雷鳴のような彼の声が今はどこまでも低く、そして温かく私の耳に響いた。
『いくら最善を尽くしても、結果が得られない事なんて戦場じゃ腐るほどある。どんなに万全を期しても、想定外は必ず起きるもんだ』
「でも……っ、そしたら……!」
『そんな時、上に立つ者は絶対に揺らぐな』
グレイグの声に歴戦の将としての絶対的な重みが宿る。
『平然としていろ。ハッタリで良い。お前が「想定内だ」という顔でどっしり構えていれば、兵は安心する。……細かい尻拭いや現場の対処はあとはシュタイナーやセラがなんとかしてくれる。あいつらはそのためにいるんだ』
私の嗚咽が少しずつ小さくなっていく。
『状況は聞いてるぜ。お前は凄い事をやってのけている。血を流さずに北の暴君を追い詰め、荒野に道を通そうとしてるんだ。……お前以外の誰にもできない、途方もねえ奇跡だ』
小箱越しに彼の大きな手が私の頭を撫でてくれているような錯覚を覚えた。
『だから、誇れ。お前は自分のやった事に対して胸を張っていい。絶対に下を向くな』
「……はい……っ」
『決戦は明後日か? それまではゆっくり休め。……おい、セラ。そこに居るんだろ』
「はい、グレイグ中将」
セラさんが私の背中を撫でながら静かに応じた。
『あとは任せたぞ。美味いもんでも食わせて、たっぷり寝かせてやれ』
「お任せくださいませ」
通信が切れた気配がした。
私は小箱を胸に抱きしめ、毛布の中で静かに息を吐いた。
不安が完全に消えたわけではない。だが、暗闇の中で足元を照らしてくれる、確かな松明の火をもらったような気がした。
「……セラさん。私、少し眠ります」
「ええ。おやすみなさいませ、リナ様。……私たちは、いつでも貴女様の傍におりますからね」
セラの優しい子守唄のような声を聞きながら、私は深い、泥のような微睡みの中へと落ちていった。
私が完全に寝息を立て始めたのを確認すると、セラはそっと毛布を掛け直し、私の小さな両手から黒光りする『囁きの小箱』を、起こさないように静かに抜き取った。
セラはそれを大切に両手で包み込むと、足音を忍ばせて私室を後にした。
◇◆◇
作戦室の重い石造りの壁は夜の冷気を吸い込んでしんと冷え切っていた。
シュタイナー中将は、地図盤の前に一人立ち、腕を組んで目を閉じていた。
「――中将閣下」
背後からかけられた静かな声に、シュタイナーは振り返る。
セラが、先ほどまでリナが握りしめていた『囁きの小箱』を恭しく差し出していた。
「軍師殿は、お眠りになられました。……グレイグ中将閣下から、貴方様へお話があるそうです」
小箱から、微かなノイズと共にグレイグの待機音が漏れ聞こえている。
シュタイナーはそれを受け取ると、セラに下がるよう目で合図をし、通信機へと向き直る。
「うむ。待たせたな、グレイグ」
『……おう、シュタイナー。リナは寝たか』
「ああ。今、セラから箱を受け取ったところだ」
通信機の向こうのグレイグの声は、先程リナに向けた力強いものとは違い、ひどく重く苦渋に満ちていた。
『……リナは良く出来た子だ。俺たち大人より遥かにな』
グレイグの絞り出すような述懐が静かな作戦室に落ちる。
『……でもな、見誤るなよ。あの子はいつも泣いている。見えないところでいつも苦しんでいるんだ』
シュタイナーの眉間に深い皺が刻まれた。
『俺たちはあいつのあの鋭利な言動と神がかった知恵に、うっかり頼っちまっている。……その小さな肩に大陸の命運という大きすぎる重荷を背負わせちまってる』
グレイグの言葉には自責の念が滲み出ていた。
『離れてみてよく分かった。俺たちはあいつに背負わせすぎだ』
「…………」
シュタイナーは無言のまま、己の分厚い胸当てをギリッと強く握りしめた。
『シュタイナー。俺は今そこに居てやれない。だからそこに居るお前に心から頼もう』
グレイグの声がかつての戦友に対する最も深く真摯な願いへと変わる。
『あの小さな娘の重荷を頼む』
作戦室に暖炉の薪が爆ぜる音が一つ響いた。
シュタイナーはゆっくりと腕を解き、岩のような貌に獰猛で、しかしどこまでも温かい笑みを浮かべた。
「……ふっ。何を今更」
彼の野太い声が冷たい石壁をビリビリと震わせる。
「頼まれなくともわしの命を懸けて誓おう。あやつが背負いきれぬ分はこのわしが全て引き受けてやろう!」
ドンッ! とシュタイナーは自らの鋼の胸当てを拳で叩いた。
「わしがこの北にいる限り、あやつに指一本触れさせはせん。……大船に乗った気でおれ、がっはっは!」
そのあまりに豪快で頼もしすぎる親父の宣言。
だが通信機の向こうのグレイグはその勢いの良さにスッと冷静になった。
『…………』
「ん? どうしたグレイグ。安心して声も出んか?」
『……いや。……頼もしいのは良いんだが、また何か脳筋な方法で過保護に暴走しようとしてないか?』
「馬鹿を言え! わしの采配は常に完璧にして緻密よ!」
『……ならいいが。……一抹の不安が残るが、まあ任せたぜ』
グレイグはため息混じりにそう言い残し、通信を切った。
静寂が戻った作戦室。
シュタイナーは地図盤の上の『北辰同盟』と『覇国』の駒を睨み据え、ニヤリと獣のように笑った。
「全てを引き受けると言ったからには……少しばかり『準備』も進めておかねばならんな」




