第354話:『進軍と停滞、見えざる足枷』
灰色の砂塵が重苦しい空をさらに濁らせていた。
数万の軍勢が進む地鳴りは本来ならば大地を震わせ、あらゆる敵を絶望させるはずのものである。だが、南へと向かうヴォルガルド覇国の巨大な黒い波は、まるで底なしの泥沼に足を取られたかのように異様なほど歩みが遅かった。
「ちっ……またか! なぜこうも馬が倒れる!」
「車輪の軸が折れました! 予備の部品が……見当たりません!」
怒号と馬の悲鳴が砂埃の中で空しく交差する。
先陣を切るはずの騎馬隊で馬が次々と膝を折った。巧みに固定を甘くされた蹄鉄が走るたびにズレて馬の足を痛めつけているのだ。さらに、食料を運ぶ輜重の荷車はなぜか肝心なところで留め具が外れ、車輪を脱落させては後続の道を塞いだ。
その混乱の只中、薄汚れた布を被った下働きの者たちが慌てて修理に駆け寄るふりをしていた。彼らの目は怯えているように見せて、その実極めて冷静に標的の急所を見定めている。カナンの遺民たちだ。手には泥にまみれた工具。だが、彼らの指先が荷車に触れるたび修繕されるどころか、別の接続部が致命的に緩められていく。
「おい貴様、何をもたもたしている! どけ!」
苛立った指揮官が鞭を振り上げ、カナン人の背に打ち降ろそうとしたその刹那。
カラン、と。
指揮官の足元を手頃な石が不自然な角度で跳ねた。
思わず視線を下に向けた指揮官が足の置き場を誤り、バランスを崩して前のめりに転倒する。振り上げられた鞭は空を切り、カナン人はその隙に「申し訳ございません!」と平身低頭しながら素早く集団の中へ溶け込んでいった。
転んだ指揮官は周囲を見回すが、誰も彼に石を投げた者など見ていない。
彼らの視界の死角。馬車の影から影へと音もなく滑るように移動する者たちがいた。ゲッコー率いる『影の部隊』だ。
彼らは決して表には出ない。カナン人たちの工作が露見しそうになるそのほんの一瞬前。石を弾き、馬をいななかせ、あるいは別の場所で小さな火ボヤを起こす。極小のノイズを生み出すことで敵の注意を散らし、カナンの民を完璧に守り抜いていた。
二つの異なる陰の力が巨大な軍の血流を静かに、確実に滞らせていく。
◇◆◇
進まぬ行軍。癒えない疲労。
やがて日が傾き始めると、冷たい北風と共に兵士たちの間に不気味な囁きが這い回り始めた。
「……おい、聞いたかよ。南の連中は毎日ふかふかの焼きたてパンを食ってるって話だ」
ひび割れた唇を舐めながら干からびた肉を噛みちぎる兵士が、隣の仲間に小声で漏らす。
「ああ。病もなく皆が新しい服を着てるってな……。それに比べて俺たちは何だ? この泥水と石ころみたいな肉のために、南の防壁に突っ込んで死ぬのか?」
「……見ろよ、あのボルガス将軍の荷馬車の列を」
別の兵士が血走った目で後方の豪奢な天幕の方角を睨んだ。
「やけに荷造りが厳重だと思わねえか? 将軍たちは俺たちを盾にして、自分たちだけ帝国と取引するつもりなんだ。あの荷車には南へ逃げるための財宝が積まれてるに違いない……!」
事実確認など誰も行わない。
極限の疲労と飢え、そして常に隣人を疑い監視し合う覇国の歪な構造が、リナの撒いた『噂』という種を爆発的な速度で狂信的な真実へと育て上げていた。
兵士たちが握る槍の矛先はもはや見えぬ南の敵ではなく、すぐ隣を歩く味方の背中へと向かい始めていた。
◇◆◇
軍の歩みが泥沼のように重くなる中、前衛を任された三将軍――ボルガス、ゾルヴァーグ、ユルヴァの周辺だけは奇妙な膠着状態に陥っていた。
「……遅い。なぜ進まねえ」
ボルガスが苛立たしげに馬の首を叩く。
彼らは互いに馬を並べることすら避け、斜めに見合いながら牽制し合っていた。誰一人として本気で先頭を走りたがらないのだ。前に出れば帝国の恐るべき罠に真っ先に飛び込むことになるかもしれない。それ以上に、背後から「味方」に射かけられるかもしれない恐怖が彼らの足を縫い留めていた。
だが、このまま立ち止まっていればいずれ後方から覇王クルガンの怒りが爆発し、自分たちの首が飛ぶ。直接の雷が落ちる前に、誰かを「矢除け」として前に押し出さなければならない。
三将軍の視線が偶然にもピタリと一致した。
彼らのすぐ後ろで青ざめた顔で待機していた親クルガン派の部族長である。
「……おい、お前」
ボルガスが巨体を揺らしてその部族長を指差した。
「ちんたら歩いてんじゃねえ。お前の部隊が先陣を切れ。進軍を率いろ」
「えっ……! わたしがですか!?」
部族長の顔がさらに土気色に変わった。
そこへゾルヴァーグがねっとりとした声を被せる。
「ヒヒッ……素晴らしい誉れではありませんかぁ。今、先陣を進み、この軍を力強く率いる勇姿を見せれば……我ら将軍の次席に上ることも夢ではありませんぞ?」
「そうさね」
ユルヴァがキセルの煙を吐き出しながら冷ややかな笑みを浮かべた。
「出世のまたとない好機だよ。……まさか、アタシら将軍の言うことが聞けないってわけじゃないだろうね?」
それは出世という名の「架空の実利」で飾られた、逃げ場のない脅迫だった。
もしここで断れば、三将軍の刃がその場で自らの首を刎ねるだろう。さも「進軍を拒んだ反逆者」という大義名分を掲げて。
恐怖と、ほんのわずかにくすぐられた虚栄心。
部族長は奥歯をガチガチと鳴らしながら引き攣った笑いを浮かべるしかなかった。
「は、はいっ……! お任せを! 我が部隊が覇王陛下と将軍閣下のために、見事、道を切り拓いてご覧にいれましょう!」
部族長は自らを鼓舞するように馬の腹を蹴り、自らの部隊の先頭へと躍り出た。
「さっさと歩け! 足を止めるな! 俺たちに続けェッ!」
恐怖を怒鳴り声で誤魔化しながら彼は鞭を振るい、部下たちを強引に前へと押し出し始めた。
空が赤黒い斑模様に染まり始めている。黄昏時。荒野の地平線に沈みゆく太陽が長く不吉な影を彼らの足元に引き伸ばしていく。
後方の本陣では覇王クルガンが未だ苛立ちを腹に抱えながらも直接的な号令は下さず、玉座の上で冷たく沈黙を守っていた。
黄昏の荒野へ怒号と共に歩みを進める部族長。
吹き荒れる風の音が彼の声と馬蹄の響きを飲み込んでいく。
誰も気づいていなかった。
その前方の険しい岩山の頂から冷酷な鉄の眼差しが彼らの頭上へ真っ直ぐに向けられていることに。
見えざる死神は静かにその時を待っていた。




