第355話:『黄昏の凶弾、見えざる死神』
赤黒く濁った夕陽が荒野の地平線へと近づきつつあった。
空はまるで大量の血を流し込んだように毒々しく染まり、伸びた兵士たちの影は大地に這いつくばる亡者の群れのように見えた。
「さっさと歩けッ! 立ち止まるな! 止まる奴は俺が斬るぞ!」
先陣を押し付けられた親クルガン派の部族長は血走った目で怒号を飛ばし、愛馬の腹に苛立たしく鞭を入れた。
彼の背中は冷や汗でぐっしょりと濡れている。後方からは三将軍の冷酷な監視の目が突き刺さり、前方にはいつ現れるとも知れない罠が待ち構えているだろう。さらに足元を歩く兵士たちの目には疲労と飢え、そして強引に進軍を強いる自分へのどす黒い恨みが渦巻いていた。
(クソッ……! なぜ俺がこんな貧乏くじを引かされなきゃならねえ!)
心の中で三将軍への呪詛を吐き捨てながらも彼は声を張り上げ続けるしかなかった。少しでも弱気を見せれば後ろから殺されるか、足元の兵士たちに反逆される。
彼は高く剣を振り上げ、自らを鼓舞するように大きく息を吸い込んだ。
「怯むな! 帝国の壁など俺たちの数で押し潰してや……ッ!」
言葉は最後まで紡がれなかった。
パァンッ!!
何の前触れもなかった。
振り上げた部族長の右肩が突如として内側から爆ぜたのだ。
分厚い革鎧と鎖帷子が紙屑のように弾け飛び、砕かれた骨と肉片が真っ赤な血の霧となって黄昏の空気にぶち撒けられる。
「…………え?」
部族長は自分の右腕があったはずの空間を呆然と見つめた。
痛みが脳に到達するより早く重力が彼の身体を捉える。バランスを失った彼は馬の背から力なく転げ落ち、赤茶けた土の上に重く叩きつけられた。
――キィィィンッ……!
彼が地面に落ちたその瞬間、空気を鋭利な刃物で切り裂くような甲高く不気味な音が戦場で鳴り響いた。
「ぎ、ぎゃあああああああああっ!!」
遅れてやってきた激痛に部族長が土の上をのたうち回り、絶叫を上げる。
その凄惨な光景に周囲を歩いていた兵士たちの足が完全に凍りついた。
「な、なんだ!? 何が起きた!?」
「矢か!? 敵襲だ!! 盾を構えろ!!」
パニックが波紋のように広がり、兵士たちが慌てて大盾を掲げ、円陣を組もうとする。
だが弓兵たちが目を凝らしても夕闇に沈む荒野には怪しい人影一つ、馬が上げる土煙一つ見当たらなかった。何かが届くような距離には遮蔽物すら存在しない。
完璧なまでの静寂と虚無。
「……何もない……?」
盾を構えた兵士の腕がガタガタと震え始めた。
何が起きたのかすら分からない。そもそも弓矢でこれほど分厚い鎧ごと人体を粉砕できるとも思えない。投石機のような飛来物も見えなかった。
静寂。
風の音と肩を失った部族長のうめき声だけが響く数十秒間。
それは見えない死神が次の獲物を選び、鎌を振り上げているかのような息の詰まる恐怖の空白だった。
「お、落ち着け! 怯むな! 陣形を崩す奴は……!」
混乱を収拾しようと別の小部族の指揮官が盾の隙間から身を乗り出し、声を張り上げた。
――ズドンッ!!
今度は明確な破砕音が響いた。
指揮官の太腿が鎧の鉄板ごとひしゃげ、根元から無残に千切れ飛んだのだ。
吹き飛ばされた肉体が後方の兵士たちに激突し、血溜まりが瞬く間に大地に広がっていく。
またしても一瞬遅れて響く空の嘆きのとも思えるような不気味なかん高い音。
防ぐことも逃げることもできない。ただ一切の予兆なく手足が刈り取られていく。
それは彼らが知る「戦争」の枠組みを完全に超えた純粋な「理不尽」だった。
「ひっ……! ぁ、あああ……っ!」
盾を構えていた兵士の目からプツリと理性の糸が切れる音がした。
剣を握る手が力を失い、武器が乾いた土の上にカランと落ちる。
「……天罰だ」
誰かが震える声で呟いた。
「見られている……。あの『天翼の軍師』が見ているんだ……!」
「うぅわぁぁあ! こ、こんなもの......どうしようも、ないじゃないか! ここにいれば皆殺しにされるだけだ......!!」
限界まで張り詰めていた疑心暗鬼と恐怖の風船がついに破裂した。
見えない死神の恐怖は伝染病のように凄まじい速度で軍の先頭から後方へと波及していく。
「逃げろ! 逃げろォォォッ!」
陣形は完全に崩壊した。
前進を強要されていた兵士たちが我先にと大盾や重い槍を投げ捨て、悲鳴を上げながら後方へ雪崩を打って来た道を戻り始める。足の遅い者が味方に突き飛ばされ、踏み躙られていく。
「馬鹿者! 逃げるな!前へ進め!!」
後方の将軍たちが怒号を飛ばし、逃げてくる兵を斬り捨てようとするが恐怖に駆られた兵たちの波はもはや少数の督戦で止められるものではなかった。
むしろ「前へ行けば見えない力に手足をもがれる」という確信が彼らをさらに狂乱状態へと追い込んでいた。
赤黒い世界の中、ヴォルガルド覇国の大軍はただの二発の銃弾によって交戦前に、すでに精神を粉砕されていた。
パニックに陥り、互いを押し退け合いながら自壊していく覇国軍。
その凄惨で無様な光景を遥かに離れた岩山の頂から冷たいガラスのレンズ越しに静かに見下ろす者たちがいた。
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