第353話:『北辰の決起(前編) ――奪われた歴史』
荒れ狂う北の風が幾千もの頭上を吹き抜けていく。
『北辰同盟』の野営地の中央には天を焦がさんばかりの巨大な焚火が組まれていた。爆ぜる薪が火の粉を夜空に巻き上げ、赤黒い炎が周囲を埋め尽くす戦士たちの顔に深い陰影を刻み込んでいる。
だが、そこには異様なほどの静寂が横たわっていた。
風の音と炎の轟り。それ以外は誰も口を開かない。
戦士たちが握りしめる槍の柄にはじっとりと汗が滲んでいた。炎に照らし出された彼らの瞳の奥で揺らいでいるのは明日迫る覇国との決戦への恐怖だけではない。
見えざる大国――帝国の庇護。
確かに南の軍師がもたらした薬が彼らの子らを救い、塩が冷えた腹を満たした。だが圧倒的な力を持つ帝国の影に隠れ、その掌の上で敵が自滅するのを待つという選択は、荒野を生き抜いてきた彼らの「誇り」という名の獣を檻の中に閉じ込めて息を詰まらせていたのだ。
その淀んだ空気を断ち切るように高壇に三つの影が進み出た。
バラク、ゴード、エルラ。
三人の族長が炎を背にして並び立つと戦士たちの視線が一斉にその姿に縫い付けられる。
バラクはあえて一歩下がり二人の族長に場を譲った。
前に出たのは『赤土の民』の族長ゴードだった。
彼は歴戦の傷が刻まれた顔を険しく歪め、居並ぶ同胞たちをゆっくりと見渡した。その鋭い眼光に射抜かれ戦士たちの背筋が自然と伸びる。
「……俺たちは飢えていた」
ゴードの、地を這うような低い声が静寂の野営地に響き渡った。
「北の厳しい冬を越すため身を寄せ合い、ただ生き延びるためだけにあの男……クルガンに跪いた」
その言葉は彼ら自身の傷口を抉るようだった。戦士たちの何人かが苦しげに目を伏せる。
「奴は『秩序』と『平等』だと呼んだ。だがその実態はどうだ。俺たちが血を流して狩った獲物は吸い上げられ毛皮は奪われ、残されたのは泥水のような酒とただの肉壁として最前線に立たされる恐怖だけだった」
ゴードは自らの分厚い胸当てをドンと拳で叩いた。
「俺たちは飼い慣らされ牙を抜かれたのだ!」
続くようにエルラが一歩進み出た。
普段は感情を表に出さない彼女の黒曜石の瞳に、今はっきりと静かに燃える怒りの炎が宿っていた。
「そして大地の呪いが我らを襲った時……覇王は我らを見捨てた」
澄んだ声が冷たい風に乗って戦士たちの耳に届く。
「熱に浮かされ苦しむ子らの手を握ることしかできなかった夜を思い出せ。薬を求め手を伸ばしても、覇国はそれを払いのけ使い捨ての駒として死を強要した」
エルラの言葉に、陣列のあちこちからギリと奥歯を強く噛み締める音が漏れ始めた。戦士たちの顔が上がり、その瞳に宿る熱の温度が確実に上がり始めている。
「我々をその地獄から救い上げたのは覇王ではない」
エルラは静かに、しかし刃のように鋭く言い放った。
「南の異邦人。帝国の顔も知らぬ軍師がもたらした慈悲が我らの子に明日を与えてくれた」
その事実が彼らの胸に重くのしかかる。
ゴードが再び腹の底から吼えるように声を張り上げた。
「そうだ! 俺たちは帝国に救われた! だが、だからこそ問う!」
ゴードの言葉が炎のように熱く戦士たちに降り注ぐ。
「このまま帝国の巨大な盾の後ろに縮こまり、クルガンが自滅するのをただ指をくわえて待つのか! 南からの施しに尻尾を振り、命を繋ぐだけの猟犬に成り下がるのか!」
「否!」と誰かが叫びそうになるのを呑み込む気配がした。戦士たちの握る槍がかすかに震えている。
「俺たちは荒野を駆ける狼だ! 奪われた誇りは、他人の手ではなく己の牙で取り戻さねばならん!」
ゴードは腰の剣を抜き放ち、夜空に向かって高々と突き上げた。炎の光を反射した白刃がギラリと輝く。
「帝国は我らを見守ってくれている。ならば見せつけようではないか! 決して飼い慣らされることのない北の民の真の魂を! クルガンの首に食らいつき、我らの未来を我らの手で切り拓くのだ!」
その瞬間、堰を切ったように一つの咆哮が弾けた。
「おおおおおっ!」
それは瞬く間に広がり、数千の戦士たちの喉から迸る地鳴りのような鬨の声へと変わった。
「「「うおおおおおおおおおおっ!!」」」
不安と迷いは完全に焼き尽くされていた。
焚火の炎に照らされた戦士たちの顔には、もはや帝国の影に怯える弱者の色は微塵もない。己の運命を自らの手で掴み取らんとする誇り高き狼たちの姿がそこにあった。
彼らは一斉に武器を天に突き上げ、大地を揺るがすほどの足踏みでその決意を荒野に刻み込む。
バラクは一歩後ろで腕を組み、その燃え上がる群衆の熱狂を静かな、しかし確かな満足を込めた眼差しで見つめていた。
(……これで良い。我らはただの駒ではない。盤上を自らの意思で駆ける一陣の風となる)
北の夜空を震わせる咆哮は、果てしなく続く荒野の闇を抜け、南の空へと響き渡っていくかのようだった。
そしてその風が辿り着く先。
決戦の舞台を整えるべく、静かなる戦いが今まさに始まろうとしていた。




