第346話:『完璧なる舞台と、古狼の違和感』
時は北壁の砦で「観客席」の作戦が承認される前日にさかのぼる。
月が分厚い雲に隠れ、荒野を漆黒が覆い尽くしていた夜。
バラクの野営地の片隅、ナディムの天幕に冷たい北風と共に一人の男が転がり込んできた。息も絶え絶えなその男はエノクが北の中枢から放ったカナンの伝令だった。
「――クルガンが動きました。北方のほぼ全部族の戦士が集合する模様。その数……数万にのぼります」
絞り出すような報告にナディムは手にしたペンを落とし、即座にバラクのゲルへと駆け込んだ。
同時に野営地の影に潜む帝国の密偵(ゲッコーの配下)にも符丁が送られる。これが遠く北壁の砦にいるリナへ届けられ、彼女に最終決戦の盤面を動かさせる引き金となった。
報告を受けたバラクは燃え盛る焚火を見つめたまま微動だにしなかった。
「……動いたか」
声は驚くほど静かだった。エノクやナディムたちの情報操作により、覇国軍が内側から腐り落ち、不平不満が渦巻く「烏合の衆」と化していることは、バラクも十分に承知している。ヴィクトルの冷徹な指揮網が機能不全に陥っていることも。
だが。
ツー……と。
バラクの皺深いこめかみを一筋の冷や汗が伝い落ちた。
(中身がどれほど腐っていようと、数万という『数』はそれ自体が抗いがたい暴力だ)
餓えたイナゴの群れが通り過ぎれば、緑の大地は不毛の荒野と化す。もし数万の軍勢が統制を失い暴走したままこの野営地に雪崩れ込んできたなら――防壁も持たない自分たちなど一昼夜で蹂躙され、骨の髄まで食い尽くされるだろう。理屈ではない物理的な絶望がそこにはあった。
「ナディム。帝国の軍師殿への連絡は済んでいるな?」
「はっ。我らの網と帝国の『影』の双方向で伝達済みです」
「よし」
バラクは立ち上がり、分厚い獣皮の外套を羽織った。その瞳には迫り来る嵐に立ち向かう古狼の鋭い光が宿っていた。
「すぐに早馬を出してゴードとエルラを呼べ。……事が起きる前に三部族の戦士をこの野営地に集結させるのだ。何があってもこれを迎え撃たねばならない」
◇◆◇
そして現在。
バラクの野営地は肌を刺すような冷気と不気味な静寂に包まれていた。
最も奥に位置する族長のゲルの中は、外の寒さを忘れさせるほどに張り詰めた空気が満ちている。
「――以上が軍師殿が描かれた対クルガンの盤面だ」
ランプの灯りが揺らめく中、ゲッコーが抑揚のない声で作戦の全貌を語り終えた。
彼が広げた羊皮紙の地図には数万の覇国軍が帝国軍の圧倒的な布陣によって袋の鼠となる様が、冷酷なまでに美しく描かれている。
バラクは腕を組み、地図を見つめたまま深く息を吐き出した。
隣ではナディムが商人の本能でその作戦の完璧さに戦慄し、ごくりと喉を鳴らしている。
「……見事な盤面です」
ナディムが感嘆の声を漏らした。
「覇国軍を内側から腐らせ、将軍たちの強欲を煽り、自ら死地へと飛び込ませる。……これほど洗練された軍略、見たことがありません」
「お前たち北辰同盟はその後方に安全な陣を構えてもらう」
ゲッコーは淡々と続けた。
「クルガンが失墜し覇国軍が瓦解するその瞬間に立ち会い、タイミングを合わせ勝ち名乗りを上げよ。そして騎馬の民すべてにこれからの希望、未来展望を語って聞かせよ。……それが軍師殿の御意志だ」
バラクは何も言わず、ただじっと地図上の自らの位置を示す駒を見つめていた。
「……血を流さず帝国が全てを片付けてくれる。……我らはそれを見届ければ良いのだな?」
「そうだ」
短く答えたゲッコーはそれだけ言うと音もなく立ち上がった。
「それではその心づもりで準備を進めておくように。何かあれば連絡を。……武運を祈る」
ゲッコーの姿が一陣の風のようにゲルの外へと消え去る。入り口の幕がパタパタと揺れる音だけが彼がそこにいた痕跡だった。
ゲルの中にはバラクとナディムだけが残された。
「……バラク様」
ナディムが興奮冷めやらぬ声で語りかける。
「軍師殿の策は完璧です。我らはクルガンが自滅する様を見届けられる。 そして北の地に平和が訪れます!」
彼の目には再建されたカナンと、争いのない豊かな北の未来が既に映っているようだった。
「…………」
だがバラクは黙ったまそうだ。
彼は手にした乳酒の杯を傾けることもなく、ただ揺れる炎を見つめている。その顔には目前に迫った完全な勝利への安堵の色は微塵もなかった。
「……バラク様?」
ナディムが怪訝そうに首を傾げる。
「……ナディムよ」
バラクが地を這うような低い声で唸った。
「あの軍師殿の策は確かに恐ろしい。……まるで神が盤上で駒を動かしているかのようだ」
「ええ。まさに我らにとってこれ以上ない……」
「だがな」
バラクはナディムの言葉を遮り、鋭い視線を彼に向けた。
「その『完璧すぎる盤面』にわしはどうしても拭いきれぬ違和感を覚えるのだ」
彼は立ち上がり、地図の前に進み出た。
「我らは帝国軍の圧倒的な力を背にしてクルガンが崩れ落ちるのを見届ける。……そしてその後我らが北の新たな指導者として祭り上げられる」
バラクの指が地図上の北辰同盟の駒をトンと叩いた。
「……それは誰が誰のために、どのようにして用意された『玉座』だ?」
その問いにナディムは息を呑んだ。
バラクの言葉の裏にある意味を、商人の鋭い嗅覚が瞬時に読み取ったのだ。
「帝国が全てを整え、帝国が敵を倒し、帝国が我らを王にする」
バラクはギリッと奥歯を噛み締めた。
「……それで我らは本当に『北の主』と言えるのか? 帝国に全てを与えられただけのただの操り人形ではないのか?」
ナディムは言葉を失った。
軍師の策は確かに我らを救う。だがそれは同時に我らを帝国の圧倒的な恩義と庇護という、決して逃れられない「見えない鎖」で縛り付けるものでもあるのだ。
「……バラク様」
ナディムの声が微かに震える。
「……ゴードとエルラがまもなく来るはずだ、来たら直ぐにここへ呼べ」
バラクは燃え盛る焚火の炎を見据えながら、静かに、しかし鋼のような決意を込めて命じた。
「……我ら自身の未来をどうするか、話し合う時が来たようだ」
その瞳の奥には飼い慣らされることを良しとしない荒野の古狼としての矜持が、激しい炎となって燃え上がっていた。




