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ようこそ最前線の地獄(職場)へ。 軍師リナ、8歳です  作者: 輝夜
第十一章:『一年という名の礎』

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第345話:『観客席の構築、軍師の絵図』

 

 北壁の砦、作戦室。

 暖炉の火が爆ぜる音が、静寂に満ちた部屋に微かに響く。

 巨大な地図盤の前に立つ私の指先は、ヴォルガルド覇国の本拠地に集まり始めたという、数万の大軍を示す巨大な黒い駒の上に置かれていた。


「――ナディムからの報告の通り、クルガンの号令により、北方のほぼ全ての部族が本拠地に集結を開始した模様です」


 ゲッコーの抑揚のない報告に、部屋の空気が一瞬で張り詰めた。

 数万の大軍。

 その響きに、ユリウス皇子やレオンの顔に隠しきれない緊張の色が走る。いくら防壁が強固とはいえ、それほどの数が怒涛のように押し寄せてくれば、無傷では済まない。


「……解せんな」

 腕を組んでいたシュタイナー中将が、重々しく口を開いた。その岩のような顔には、指揮官としての鋭い疑念が刻まれている。

「カナン遺民を使って、クルガンへの不満を煽ったところまでは見事だ。だが、なぜ彼らに『表面上だけでも従軍しろ』などと指示を出したのだ? 放っておけば多くの部族は集まらず、敵の兵力を削ぐことができたはずだが」


 中将の視線が、地図上の黒い駒から私へと向けられる。

「それに、あの北の痩せた大地で数万の軍を動かせば、兵站は枯渇する。あの覇王とて、己の腹が空くことくらいは分かるはずだぞ……」


 その問いに、私は地図盤から顔を上げ、静かに応じた。

「ええ。その兵站の計算を狂わせているのは、我々です」


「我々が、だと?」


「はい。カナン遺民たちには、密かに本拠地の食糧や物資の帳簿を偽装するよう指示を出してあります。記録上は『十分な備蓄がある』と信じ込まされているのです」


 その言葉に、壁際で控えていたアイゼンハルト監査官が、眼鏡のブリッジを押し上げながら冷ややかに言葉を継いだ。


「なるほど。帳簿上の数字に踊らされ、実態のない豊かさを信じて軍を動かすわけですか。……進軍を始めれば配給は滞りはじめ、軍の士気は崩壊する……それが狙いですか?」


「それも、理由の一つです」

 私は深く頷いた。

「ですが、クルガンが動かさざるを得なくなった最大の理由は、意図的に流した『噂』です」


 ゲッコーに命じて北の大地にばら撒かせた見えない毒――流言飛語の数々。

『南の三部族は帝国と戦っているふりをして裏で密約を結び、すでに莫大な富を築いている』

『バラクたちと共に歩んだ方が、飢えと病から解放されるのではないか』


「ヴィクトルは、バラク殿が帝国と結託し、確かな富と力を手に入れつつあるという事実に気づいたはずです。……彼にとって、これほど放置できない脅威はありません。自らの支配の根幹である『恐怖』が、『豊かさ』という希望によって足元から崩されようとしているのですから」


 私は、地図上の『黒の宮殿』から、南の国境へとゆっくり指を滑らせた。

「だからこそ焦った。圧倒的な武力で一刻も早く南の反逆者を根絶やしにしなければ、自分たちの国が内側から瓦解してしまう。……その焦りが、彼らに理を曲げた大動員を決断させたのです」


 息を呑む音が、部屋のあちこちから聞こえた。

 敵の心理の死角を突き、自ら大軍を率いて死地へと向かうよう仕向ける。その冷徹な盤面操作に、ユリウスたちは絶句していた。


「だが……」

 シュタイナー中将が、さらに鋭い指摘を投げかける。

「敵の全軍を動かすよう誘導したのは見事だが、監査官殿の懸念もある。更に言えば、クルガンのような男ならば、忠誠心の低い部族を真っ先に最前線へ立たせるぞ。帝国の防壁を削るための『矢除け』としてな。……それでは無為に血が流れる。それは回避したいのではないか?」


「ええ。普通に軍が動けば、そうなります」

 私は地図上に置かれた巨大な黒い駒の、さらに後方へと、小さな駒をいくつか配置し直した。

「ですから、ナディムたちを通じて、彼らには事前に『先鋒として進軍することは、装備の不足や馬の不調など、あらゆる理由をつけて回避しなさい』と指示を出してあります」


「だが、クルガンがそれを許すか?」

「許さざるを得ない、そうなってしまう状況を作りました」

 私は黒い駒の最前列に、ひときわ大きな駒を置いた。

「クルガンの直属部隊や、強欲なボルガスをはじめとする親クルガン派の将軍たち。彼らの耳にも、カナン遺民を通じて噂を流してあります。『南のバラクは、帝国から得た莫大な富を溜め込んでいる』と。そして……」


 私は声を一段落とし、氷のような冷たさを込めて言った。


「『強欲な将軍たちでさえ、自分だけが生き残るために、水面下で帝国や南の部族と交渉を始めているらしい』……とも」


 その言葉の意味を察し、レオンの瞳がハッと見開かれた。

「……そうか! 手柄と略奪品を自分たちだけで独占させる欲と……何より、狂王からの『疑心』を煽ったのか!」


「はい」

 私は深く頷いた。

「クルガンは今、極度の猜疑心に囚われているはずです。少しでも疑わしい動きを見せれば、容赦なく粛清される。親クルガン派の将軍たちでさえ、自分の首がいつ飛ぶか分からない状況です。……ならば、彼らはどう動くか」


 私は盤上の最前列の駒を、トン、と指で叩いた。


「自らの身の潔白と、クルガンへの圧倒的な『忠誠』を証明するために、誰よりも早く、誰よりも派手に、自ら望んで最前線へ飛び出すしかなくなるのです。……強欲と虚栄心、そして死の恐怖に追い立てられた彼らは、他者に手柄を譲る余裕などありません。自ら進んで『一番死に近い場所』へと躍り出るでしょう」

「結果として、兵站不足で不満を抱え、忠誠の低い部族たちは、血を流すことなく後方からただついて歩くだけの『実のない烏合の衆』となります」


「さらに」

 私は言葉を継ぐ。

「全軍を出させたことには、いくつもの利点があります。兵站の負担を極限まで高め、軍の動きを鈍らせること。そして何より、大軍の混乱に乗じて、我々の『影(間者)』が敵陣の奥深くまで入り込むのが容易になることです」


 作戦室の空気が、シンと凍りついた。

 敵の思惑を読み切り、その欲望と恐怖さえも利用して、軍の配置を内側から完全に作り変えてしまう。暖炉の火が爆ぜる音だけが、不気味なほど大きく部屋に反響している。


「……なるほど。兵站の枯渇、士気の低下、親クルガン派のあぶり出し、そして間者の潜入。……全てを計算した上で、あえてあの大軍を引っ張り出したというわけか」

 シュタイナー中将が、深く納得したように唸った。その岩のような顔には、軍師の恐るべき知略に対する底知れぬ畏敬の念が浮かんでいる。

「見事な絵図だ、軍師殿。敵は自らの重みで、進むほどに崩壊していく泥舟に乗せられたも同然だな」


「ええ。ですが、中将」


 私は、地図全体を見渡すように、ゆっくりと視線を巡らせた。


「それらは全て、付随的な効果に過ぎません。……私が彼らを集め、この荒野へ引きずり出した『もっと重要な、真の目的』があります」


 その言葉に、シュタイナー中将の目が鋭く細められた。

 部屋の温度が、さらに数度下がったように感じられた。

 誰も言葉を発しない。


「……彼らに、『目撃者』になってもらうためです」


 私は、居並ぶ者たちの顔を、仮面の奥から静かに見据えた。


「人は、自分の知らない場所で起きた出来事には、真の意味で心を動かされません。どれほど言葉で語ろうと、理解も、共感もできないものです」

「我々はこれから、覇王クルガンの軍勢を完膚なきまでに打ち破ります。ですが、その敗北は、ただの噂として北の地に広まってはならない。……全ての部族が、自分たちの目で、クルガンの『絶対的な力』が崩れ去る瞬間を目撃しなければならないのです」


「衆人環視の元で、クルガンは明確な敗者とならなければならない。……そしてその上で、バラク殿をはじめとする『北辰同盟』が、北の民を束ねるに足る、真に信じられる新たな英雄として立ち上がる姿を見せつけねばならない」


 私は、地図の南側――帝国の領土を指し示した。

「そして何より……帝国が、彼らを力で侵略するのではなく、共に歩む『協調』を選んだという事実を、全ての部族長たちの魂に直接、刻み込ませるのです」


「……そのために、この数万の『観客』が必要だったのです。彼ら全員が証人となり、それぞれの部族に持ち帰る『真実』こそが、北の地を平定する最大の武器となる」


 さらに私は、最も冷酷な現実を口にした。

「そして、全軍が南下することで、クルガン自身が『引くに引けない状況』を作り出したのです。これほどの規模の軍を動かして、成果もなく引き返せば、彼の絶対的な権威は地に落ちます。彼は、自ら死地へ飛び込むしかなくなったのです」


 武力による殲滅でもなく、計略による自滅でもない。

 敵の軍勢そのものを、自分たちの『正当性』と『未来』を知らしめるための、巨大な舞台装置として利用する。


 シュタイナー中将は腕を組んだまま、深く、長い息を吐き出した。その岩のような顔には、もはや疑念の影はなかった。

 アイゼンハルト監査官は手にしたペンを止め、ただ無言で紙の束を見つめている。

 ユリウス皇子たちは、圧倒的なスケールで描かれた盤面を前に、畏怖に身を固くしていた。


「――皆様、舞台は整いました」


 私は姿勢を正し、静かに、しかし確かな声で告げた。

「これより、北方の未来を決する最後の演目を始めます。……どうか、皆様の力を、お貸しください」


 静まり返った作戦室の中で、ランプの炎が、新たな時代の幕開けを告げるように力強く揺らめいた。


1話前、344話。若干手入れしております。

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― 新着の感想 ―
 輝夜さん、こんにちは。 「ようこそ最前線の地獄(職場)へ。 軍師リナ、8歳です 第345話:『観客席の構築、軍師の絵図』」拝読致しました。  クルガン、動きだしましたね。  予定通りですが。  な…
更新お疲れ様です。 相手側の様々な心理を突いた十重二十重の『お膳立て』が秀逸ですね^^ 次回も楽しみにしています。
 周囲には喜劇、当人には悲劇。オペラかなんかの舞台にそういう演目があったなぁ。
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