第344話:『大義の喪失、孤立する絶対者』
北の荒野を吹き抜ける冷たい風は、血の匂いではなく、見えざる「言葉」を運んでいた。
覇王クルガンによる『バラク討伐令』が発せられた直後、凍てつく大地の隅々にまで、一つの壮大な英雄譚が枯れ野を走る野火のように燃え広がっていた。
「――聞いたか。南の国境で、バラク様たちが帝国軍と死闘を演じたそうだ」
「ああ。帝国の白い城壁を血で染め上げていると」
「今は傷ついた同胞たちと英気を養い、来るべき次戦のために武器を研いでいるらしい。……それだというのに、覇王様は」
井戸端で、狩りの合間の焚火で、そして冷え切ったゲルの片隅で。
民衆は声を潜めながらも、熱を帯びた瞳で語り合った。彼らの脳裏に浮かぶのは、鮮烈な二つの姿の対比だった。
一方は、病に苦しむ民に得体の知れぬ毒を配り、疑心暗鬼に駆られて身内の腕を無慈悲に切り落とす、狂気に憑かれた覇王クルガン。
もう一方は、自らの手で本物の薬草を届け、民の命を救い、最前線で泥と血に塗れながら帝国の脅威と戦い続ける、真の英雄バラク。
「バラク様は我ら北の民のために、命を懸けているのだぞ」
「それを、背後から討つだと? そんな卑怯な真似ができるものか」
「……もしここでバラク様を見殺しにすれば……次は我らが、あの広場で首を刎ねられる番になるのではないか?」
恐怖で縛られていた民の心に、理不尽な暴力への静かな怒りと、深い疑念が根を下ろしていた。
各部族の長たちの元にも、討伐令の羊皮紙が届けられていた。だが彼らは皆、重い沈黙の中でその赤い印璽を睨みつけ、軍を動かすことを躊躇っていた。
進めばバラクを討ち、退けばクルガンに討たれる。進退窮まった族長たちの顔には、濃い疲労と絶望の色が浮かんでいた。
◇◆◇
その重苦しい空気を破ったのは、各部族の野営地に溶け込んでいた『カナンの遺民』たちだった。
彼らは族長たちの元へ、音もなく、絶妙なタイミングで歩み寄った。
「――族長様。お悩みのご様子で」
「……お前か。ふん、この状況で悩まぬ者などおるまい」
ナディムをはじめとするカナン人たちは、族長たちにだけ聞こえるよう、低く、確信に満ちた声で囁いた。
「……表面上だけでも、従うべきです」
「何だと? あの狂王のために、バラク殿を討てと言うのか!」
「滅相もございません」
カナン人は、うっすらと底冷えのする笑みを浮かべた。
「覇王の命を無視すれば、貴方様の部族が真っ先に血祭りにあげられます。ですから、兵は出すのです。……ただし、絶対に『先鋒』として進軍することは、あらゆる理由をつけて回避しなさい」
族長たちはハッと息を呑んだ。
「装備が整わない、馬の調子が悪い、あるいは……『急な流行り病』でも構いません。しんがりを務め、ただ覇王の後ろを歩くのです。……決して、自ら剣を抜くことのないように」
「……なるほど。戦うふりをして、ただ『居る』だけか」
「左様です。……それに、風の噂では、覇国の将軍たちでさえ、水面下で帝国と交渉を始めているとか。泥船に乗って沈む必要はございません」
その甘く、恐ろしく現実的なアドバイスは、族長たちの迷いを一瞬で吹き飛ばした。
彼らは深く頷き、自らの部族を守るための「消極的な従軍」を決意したのだった。
◇◆◇
討伐の刻限を迎えた日。
ヴォルガルド覇国の本拠地、『黒の宮殿』前の巨大な広場には、地を埋め尽くすほどの黒い大軍が結集していた。
風に翻る無数の旗印。槍の穂先が、鉛色の空の下で鈍く光を反射している。その数は、クルガン自身が予想していたものを遥かに上回っていた。
「――がっはっはっは!」
高壇の上から光景を見下ろし、クルガンは腹の底から哄笑した。
「見たか、ヴィクトル! これが俺の力だ! 圧倒的な『恐怖』が、これほどの兵を俺の足元に平伏させたのだ!」
両腕を広げ、絶対的な権力に酔いしれるクルガン。
だが、その斜め後ろに控える側近・ヴィクトルの灰色の瞳は、氷のように冷え切っていた。彼の眼鏡の奥の目は、眼下の大軍が発する「異様な気配」を正確に捉えていた。
(……おかしい)
ヴィクトルは、額に滲む冷や汗を拭うことも忘れ、その光景を凝視した。
数はいる。確かに、広場は兵士で埋め尽くされている。だが――陣容を見渡せば、明らかに軍の「温度差」が異常だった。
全体の三分の一を占める前衛部隊は、一見すると槍を高く掲げ、鬨の声を上げている。しかし、その熱気の内実は決して一枚岩ではなかった。
最前列を固める三将軍――ボルガス、ゾルヴァーグ、ユルヴァの直属部隊。
彼らの鬨の声はやけに大きく、過剰なほどに戦意をアピールしている。クルガンから「南と通じている」と嫌疑をかけられている彼らは、己の首を繋ぐため必死に忠誠を演じているのだ。だがその瞳の奥は冷え切り、互いの背後を油断なく牽制し合っている。
その隣に陣取る、先日の粛清を免れた側近部族たち。
彼らを支配しているのは、密会しただけで腕を切り落とされた凄惨な断罪劇の記憶だった。「少しでも疑われれば次は我が身だ」という強迫観念に駆られ、狂信的なふりをして叫び声を上げているに過ぎない。
さらに、クルガンが「バラクの毒だ」と虚報を流し、強引に族長を処刑した部族たち。
彼らは「バラクへの怒り」を強要されながらも、「身内を殺したクルガン」への疑念を拭いきれず、指導者を失った混乱の中で力なく槍を握りしめている。
これら「熱意のあるはずの前衛」でさえ、恐怖、保身、疑念といったドロドロの感情が複雑に絡み合い、互いの足を引っ張り合っている状態だった。
そして何より問題なのは、その後方に広がる残りの半数以上の部隊だった。
彼らの目には、闘志も、略奪の狂気も、一切ない。
あるのは、ただの「無関心」と「徹底した保身」だけ。皆が皆、隣の者の背中に隠れようと、ずるずると後方へ身を引いている。部族長たちもまた、高壇のクルガンと目を合わせまいと、ただひたすらにうつむいていた。
(……これは、軍隊ではない。ただの、中身のない張り子の虎だ……!)
ヴィクトルの背筋を強烈な悪寒が駆け抜けた。
前衛が崩れれば、後方の烏合の衆は一瞬で雪崩を打って逃げ出すだろう。この大軍の真ん中で、覇王クルガンは完全に孤立している。彼を支えているのは、もはや忠誠でも恐怖でもない。ただの「見せかけの服従」という、薄氷の幻影に過ぎなかった。
ヴィクトルは口を開きかけた。しかし、狂気に満ちた主の横顔を見て、そっと言葉を飲み込んだ。ここで真実を告げれば、自分の首が飛ぶだけだ。
◇◆◇
その虚構の大軍を高壇の片隅からただ一人、冷徹な目で見つめる男がいた。
『岩窟の民』族長、ガルド。
彼の深緑の瞳には熱狂も恐怖もなく、ただ深い悲哀と諦観の色が沈んでいた。
視線の先でクルガンが己の暴力の威容に酔いしれ、剣を天に突き上げている。
その姿にかつて夜の焚火を囲み、「誰も飢えぬ北を作る」と語り合った青年の面影は、もはや微塵も残っていない。
(……なぜこうなった。クルガン)
ガルドは音を立てずに拳を固く握りしめた。
圧倒的な力で北を統一し、無秩序な略奪を終わらせる。その理想の刃となるべく自ら最初の剣として彼に跪いた。だが力はいつしか暴走し、彼が守りたかった民の首を絞める鎖へと変わってしまった。
このまま進めば覇国は破滅する。
帝国の強大な防壁に砕かれるか、内からの疑心暗鬼で自壊するか。どちらにせよこの血塗られた覇道に未来はない。
その現実を誰よりも理解していながらガルドは動けなかった。
彼が背負う『岩窟の民』の命。そして息子を救ってくれたバラクへの恩義と、かつて主君に捧げた忠誠。
それらが複雑に絡み合い、彼という実直な武人をこの狂気の玉座に縛り付けている。
(……もう私に出来ることは何もないのか)
彼はうつむき、兜の陰で苦悶に唇を噛んだ。
そして南の空――かつての戦友であるバラクがいるであろう方角へと静かに思いを馳せる。
(……バラクよ。お前はこの泥舟から降り、新たな道を切り拓いたというのか。……ならばお前に任せてよいのか。この北の民の未来を)
実直すぎるがゆえに答えを出せない男は、ただ己の無力さを呪いながら黙ってその場に立ち尽くすことしかできなかった。
「――出陣だ! 南の逆賊どもを、一匹残らず蹂躙しろ!」
クルガンの絶叫が広場に響き渡る。
前衛の部隊が「うおおおおっ!」と空虚な大声を上げる一方で、後方の兵士たちの鬨の声は白々しく、すぐに北の冷たい風に掻き消されていった。
複雑にひび割れた感情を抱えた巨大な軍勢が、重い足取りで南へと動き出す。
その最後尾に、ガルドは自らの部隊を率いて、重い足取りで従った。
彼はただ、この狂騒の終着点を見届ける覚悟だけを胸に秘めていた。
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