第343話:『毒牙の進言、老狼討伐の令』
冷たい北風が分厚い獣皮の天幕を鞭のように打ち据えていた。
ヴィクトルの執務室は、暖炉の火が赤々と燃えているにもかかわらず、底冷えするような寒気に支配されていた。
彼は机の上に散らばった報告書の紙束を血の気の引いた指先で掻き集めた。
南から届いた信じがたい事実の数々。
帝国と王国の手打ち、ヴェネーリアの陥落、そしてアルビオンの計画の頓挫。わずか半年に満たない間に、自分が何年もかけて想定していた大陸の勢力図が根底からひっくり返されている。
(……このままでは終わる)
ヴィクトルは震える手で眼鏡のブリッジを押し上げた。カチャリという微かな金属音さえ今の彼にはひどく耳障りだった。
南のあの化け物――『天翼の軍師』が次にこの北の地へその視線を向けるのは時間の問題だ。いや、すでにその見えざる手は覇国の足元にまで伸びてきている。
バラクたちへの薬の供与、それによる民心の離反。
そして何より先日の広場での無慈悲な処刑劇。クルガンが自らの手で族長たちの腕を切り落としたあの瞬間から、覇国を繋ぎ止めていた「恐怖」という名の鎖は「憎悪」という制御不能な爆薬へと変質してしまった。
(内部の不満を外へ向けさせねばならない。……それも今すぐにだ)
ヴィクトルの灰色の瞳に冷酷な光が戻る。
反乱の芽が育つ前に共通の敵を血祭りに上げ、再び絶対的な恐怖と勝利の熱狂で彼らの目を塞ぐしかない。
標的は一つ。あの老獪な古狼しかいない。
ヴィクトルは踵を返し、足早に執務室を後にした。
◇◆◇
黒の宮殿の最奥、玉座の間。
そこには己の怒りを持て余し、獣のように低く唸り声を上げる覇王クルガンの姿があった。
広場での処刑を経てもなお、彼の周囲を漂う疑心暗鬼の霧は晴れていない。むしろ血の匂いを嗅いだことで、さらにその飢えと苛立ちを増しているようだった。
「――覇王よ」
ヴィクトルが音もなく玉座の前に進み出る。その顔には先程までの焦燥は微塵もなく、完璧な冷徹な参謀の仮面が張り付いていた。
「……何だ、ヴィクトル。また誰かが俺を裏切っているという報告か」
クルガンの黄色い瞳がぎらりと光る。
「ええ。最も明白で最も許しがたい裏切り者が南の国境でふんぞり返っております」
ヴィクトルは氷のような声で告げた。
「バラクです。あの老狼をこれ以上放置してはなりませぬ」
クルガンの眉がピクリと動いた。
「覇王よ、舐められたままでは連合した部族の間に決定的な亀裂が走ります。現にあの老いぼれがもたらした薬草騒ぎで各部族の足並みは乱れている。……今すぐ討伐軍を差し向け、あの男の首を広場に晒すべきです」
その言葉が響いた瞬間。
玉座の間を支配していた張り詰めた空気が爆発的な殺意によって木っ端微塵に吹き飛んだ。
「――貴様、俺を愚弄しているのか?」
クルガンの地を這うような低い声。
次の瞬間、巨大な黄金の杯がヴィクトルの足元に叩きつけられ、ひしゃげた音と共に赤い酒が床に飛び散った。
ヴィクトルは反射的に目を細めたが、一歩も引かない。
「どの口が言うか、ヴィクトル!!」
クルガンが玉座から立ち上がり、その巨躯から放たれる圧倒的な圧力がヴィクトルを上から押し潰すように迫った。
「あの日俺があの老いぼれを捻り潰そうとした時! 『帝国との防波堤として限界まで消耗させるのが最も効率的だ』と小賢しい理屈を並べて俺を止めたのはどこのどいつだ! ボルガスたちと共に俺の剣を鞘に納めさせたのは貴様だろうが!」
クルガンの怒りは尤もだった。彼が武人の本能でバラクを危険視し、軍を動かそうとしたのを「利益にならない」と制止したのは他ならぬヴィクトルと将軍たちだったのだから。
「今更になって『放置するな』だと? 貴様のその湿った計算が狂った尻拭いをこの俺にしろと言うのか!」
腰の大剣にクルガンの手が伸びる。ギリリと革の柄が悲鳴を上げた。
一歩間違えればここで首が飛ぶ。
だがヴィクトルは焦燥を完璧に隠し込み、その場に深く滑らかな動作で片膝をついた。そして頭を垂れたまま静かに、しかしよく通る声で紡ぎ始めた。
「……仰る通りでございます、我が覇王。私の目は完全に節穴でございました」
自らの非をあっさりと認めるその言葉に、クルガンの動きがわずかに止まる。
「私はあの時、単なる兵力と物資の計算という小賢しい商人のような尺度でしか物事を見ておりませんでした。……ですが覇王陛下。あなたのその『王としての本能』はあの時からすでに、あの老狼が孕む致命的な毒を正確に嗅ぎ取っておられたのですね」
ヴィクトルは顔を上げ、畏敬の念を込めた瞳でクルガンを見上げた。
「私の浅はかな計算など陛下のその天賦の直感の前には児戯にも等しいものでした。バラクはただの防波堤ではなく、自ら覇国の土台を食い破ろうとする白蟻でした。……それを最初から見抜いておられた陛下の眼力にただひたすらに平伏するばかりです」
自らの失敗を認めつつ、それをすべて「クルガンの直感が正しかった」という強烈な賞賛へとすり替える。
傲慢な覇王の最も肥大化した自尊心を的確に撫で上げる極上の甘言。
「……状況は一変しました。いや、陛下の懸念が現実のものとなったのです。今こそあの時に下されるはずだった陛下の『正しい決断』を圧倒的な暴力でもって実行に移すべき時にございます。陛下の牙の鋭さを再び北の大地に刻み込むために」
クルガンの握りしめていた剣の柄からわずかに力が抜けた。
怒りの炎は消えていない。だがその矛先は目の前の参謀から己の直感を裏付けた「南の逆賊」へと完全にすり替わっていた。
「……ふん。ようやく貴様の曇った目にもあの老いぼれの腐臭が見えるようになったか」
クルガンは鼻を鳴らし、玉座へとどさりと腰を下ろした。
「良いだろう。俺の勘が正しかったということをあの爺の生首で証明してやる」
彼は血走った目で傍らに控える伝令たちを睨みつけた。
「全将軍、全部族長に召集の触れを出せ! 数千の兵を糾合し、南の国境を更地にする! 従わぬ者はバラクと同罪とみなし根絶やしにするとな!」
「御意に」
ヴィクトルは深く頭を下げた。
床に向けたその顔にようやく安堵と冷酷な計算の光が戻っていた。
◇◆◇
その夜から翌朝にかけて、凍てつく風を裂いて黒い騎馬の伝令たちが四方八方へと散っていった。
「――南の逆賊バラクを討つ! 直ちに武装し、本拠地へ参集せよ!」
だがその声を聞き、赤い印璽の押された召集の紙を受け取った族長たちの顔はどれも一様に暗く重く沈んでいた。
伝令が次の野営地へと走り去った後。天幕の中で焚火を囲む男たちの間にはかつてのような戦の前の熱気は欠片もなかった。
「……バラク殿を討つだと?」
顔に深い傷跡を持つ部族長が手にした紙をギリッと強く握りしめた。
炎の光が彼らの苦渋に満ちた顔を赤黒く照らし出している。
「我らに得体の知れぬ毒を配り、苦しめたのは誰だ」
別の族長が吐き捨てるように言う。
「疑心暗鬼に駆られ、何の証拠もなく同胞の腕を無慈悲に切り落としたのは誰だ!」
彼らの脳裏に、広場で血飛沫を上げて倒れ伏した友の姿が鮮明に蘇る。
そしてその一方で。
夜陰に紛れ、本物の薬草を無償で届けてくれたのは。子供たちの顔に血色と笑顔を取り戻してくれたのは。
他でもない、討伐の標的とされたバラクであり南の力だった。
「……あのような狂った覇王のために我らの血を流せというのか」
拳を固く握りしめ、膝の上で震わせる男たち。
「バラク殿を討てば次はどうなる。……我らの中から第二、第三のバラクが仕立て上げられ、広場で首を刎ねられるだけではないのか?」
大義名分なき討伐令。
それはヴィクトルが意図した「内部の引き締め」とは全く逆の決定的な亀裂となって、北の大地に不穏な波紋を広げていた。
燃え盛る焚火を見つめる彼らの瞳には、もはや覇王への恐怖よりも理不尽な暴力への静かな、しかしマグマのような怒りが燻り始めている。
その怒りの炎を見えざるカナンの『影』たちが荒野の闇から静かに見つめていた。
https://x.com/Lina_age8
公式X、スタートです!!フォローして頂けたら嬉しいな。
……ふふふ。Xの使い方がよく判らないけれど、なんか楽しそう……




