閑話:『空への渇望、エーテルが導く翼』
陸運や海運の技術が弟子たちや現場の職人の手によって次々と実用化されていく中、マキナ自身が今、全ての心血を注いでいるのは、ただ一つ。
『空を飛ぶ』という、人類未踏の領域だけだった。
特別開発室の中央には、巨大な黒板と、いくつもの試作エンジンが並んでいる。
彼女が現在同時進行で開発しているのは、大きく分けて二つの空の道だ。
一つは、純粋な動力と翼の揚力だけで空を切り裂く『羽付きの飛行機』。
そしてもう一つが、巨大な気嚢に浮力ガスを溜め込んで空に浮く『飛空艇』だ。
「……クソッ、どっちも壁が高すぎる」
マキナは油まみれの顔を歪め、黒板に書かれた数式を睨みつけた。
飛行機は、推進力となるエンジンの開発が難航している。ロータリータイプは部品の摩耗が激しく、ジェットタイプは機体強度が追いつかない。
一方の飛空艇。こちらはこちらで、致命的な問題――『浮力』の確保に頭を抱えていた。
「空に浮かぶには、空気より軽い気体が必要だ。前世の知識ならヘリウムか水素だが……」
彼女はガシガシと頭を掻きむしる。
「この世界でヘリウムを大量生産するなんて、夢のまた夢だ。となると、水を電気分解して水素を作るしかないが……発電機から作らなきゃならねえし、何より水素はちょっとした火花で大爆発を起こす。空飛ぶ爆弾に乗るようなもんだ。……でも、背に腹は代えられないか……?」
水素を使う危険な賭けに出るべきか。マキナがギリッと奥歯を噛み締めた、その時だった。
ふと、彼女の視界の端に、作業台の上に置かれたガラス瓶が映り込んだ。
中には、淡い虹色に輝く『エーテルリキッド』が満たされている。
「……待てよ」
マキナの目が、一瞬だけギラリと光った。
「こいつ、液体から気体になる時、とんでもない倍率で膨張したよな。……水とは比べ物にならないくらいに」
彼女の技術者としての直感が、激しく警鐘を鳴らし始めた。
「もし……気化したエーテルの密度が、空気よりずっと軽かったら……?」
思い立ったら即行動。それがマキナの信条だ。
彼女はすぐさま小さな気密袋を用意し、極少量のエーテルリキッドを入れ、外部から熱を加えた。
シュゥゥ……という音と共に液体が気化し、袋がパンパンに膨れ上がる。
そして――。
ふわり。
手を離した瞬間、気密袋は天井に向かって、まるで吸い寄せられるように勢いよく舞い上がっていった。
「……マジかよ」
マキナは口を半開きにしたまま、天井に張り付いた袋を見上げた。
「……すげえ。気化ガスが、水素に近い、いやそれ以上の圧倒的な浮力を持ってる……! しかも、水素みたいに簡単に爆発引火する性質じゃねえ!」
マキナの目に、狂気にも似た創造の炎が、ごうごうと燃え上がった。
「――おーい! 誰か手が空いてる奴はいるか!」
彼女は開発室の扉を開け放ち、外の工房に向かって吼えた。
「丈夫な布で、人が一人ぶら下がれるくらいのデカい気球を縫い上げろ! 至急だ!」
◇◆◇
数時間後。
天井の高い屋内ドックの中央に、巨大な布製の気球が用意された。下部には、マキナが急造した気化コントロール装置――熱源ユニットと、単純な水冷式の熱交換器に扇風機を組み合わせた冷却器――が取り付けられている。
「よし、命綱しっかり持っとけよ! いくぜ!」
マキナは気球の下に吊るされた簡素なゴンドラに飛び乗ると、熱源のバルブを捻った。
シュゴォォォッ!
エーテルリキッドが気化し、巨大な気球がみるみるうちに膨らみ、ピンと張り詰める。
ギリッ、と。
ゴンドラを地面に固定していたロープが悲鳴を上げ、次の瞬間。
「――ヒャッホーウ!!」
マキナの歓声と共に、ゴンドラは一気に空中へと舞い上がった。
ドックの床から数メートル、十メートルと、音もなく浮上していく。下で見守る職人たちが、首が痛くなるほど見上げて「おおぉっ……!」と感嘆の声を漏らした。
「浮力、安定! よし、次は下降だ!」
マキナが冷却器のファンを回す。気嚢から吸い出されたガスが熱交換器で冷やされ、再び液体となってコポコポとタンクへ戻っていく。すると、気球の浮力が減少し、ゴンドラはふわりと静かに高度を下げ始めた。
「完璧だ……! 加熱気化の度合いをコントロールすれば、高度の調整も自由自在だ!」
マキナは空中でガッツポーズを決め、興奮に震える声で叫んだ。
「おい! 次の設計に入るぞ! こいつはただ浮くだけじゃない。複座式にして、後部に足漕ぎ式のプロペラをつける! まずは人力で空を飛ぶ『飛行自転車』の完成だ!」
ゴンドラが床に着地するや否や、マキナは図面に向かって突進した。
彼女の頭の中では、すでに次の段階への妄想が暴走を始めていた。
(……この浮力システムが確立できれば、重い『エーテル・ドライブ』を積んでも空に浮いていられる。ロータリーエンジンの完成を急げば、プロペラ推進の中型飛行船だって夢じゃない……!)
巨大な葉巻型の船体が、雲海を悠然と進む姿。
重装甲と大量の物資を積んだ『空の要塞』が、大陸の空を制覇する未来。
「待ってろよ、リナ……! お前が望んだ『空の盾』、絶対に私の手で飛ばしてやるからな!」
マキナはチョークを握りつぶさんばかりの力で、黒板に新しい船体を描き込んでいった。
◇◆◇
その頃。
全ての元凶であり、帝国と王国の経済と技術を暴走させている震源地――北壁の地。
その一角に完成したばかりの、静謐な和風の茶室にて。
「……ズズッ。……はぁ〜、落ち着く〜」
私は、縁側に座布団を敷き、見事な枯山水の庭(と、その向こうに見える古代遺跡の借景)を眺めながら、温かい抹茶をすすっていた。
隣の小皿には、クララさんが試行錯誤の末に完成させた、完璧なフォルムの『練り切り』が乗っている。
「いやぁ、マキナさんもマルコさんも、本当にすごいですよねぇ」
私は、お茶請けの練り切りをあむっと口に入れ、幸せそうに頬を緩ませた。
「私が通信でちょっと『あんなのあったらいいな〜』って呟いただけで、いつの間にか本物を作っちゃうんだから。天才の考えることは分かりませんね」
私の背後で、完璧な姿勢で控えていたセラさんが、ピクリとこめかみを引き攣らせた。
「……リナ様。その『ちょっとした呟き』が、今、帝国の財務省と開発公団をどれほどの修羅場に叩き込んでいるか、ご想像されたことは……?」
「……? みんな、とても楽しそうですよね?」
私は不思議そうに小首を傾げ、もう一口、抹茶をすする。
「それにしても、このお茶室、本当に最高です。……あ、そうだ。セラさん、今度マキナさんに『空飛ぶ船ができたら、雲の上でお茶会したいな〜』って伝えておいてくれます?」
「――――ッ!!」
セラさんは、これ以上、帝国の予算と官僚たちの胃壁を削らせるわけにはいかないと、無言で、しかし全力で『囁きの小箱』を自らの背後に隠した。
自分がこの大陸に産業革命を引き起こす「技術と経済の特異点」になっていることなど、私には知る由もない。
ただ、美味しいお茶と平和な風景に、心から満足しているだけなのだ。
天才たちが血反吐を吐いて歴史の歯車を回している裏で、全ての元凶である小さな軍師は、のほほんと茶を啜っていた。
リナがゆっくりしている時は、もしかすると輝夜がゆっくりしたいと感じている時かも……
そんな気がしてきました(汗)




