第347話:『古狼の矜持、盤上の自立』
北の荒野に夜の帳が重く垂れ込めていた。
吹き荒れる乾いた風が天幕を叩き、バラクの野営地は深い静寂に沈んでいる。
族長のゲルの中央でパチパチと爆ぜる焚火の炎が、バラクの深く刻まれた皺を赤黒く照らし出していた。彼は手にした木組みの杯を見つめたまま、一向に乳酒を口に運ぼうとしない。
「バラクよ。こんな夜更けに我らを呼んで一体何の話だ」
ゲルの入り口の幕が払われ、冷たい風と共にゴードとエルラが入ってきた。二人の顔にも迫る決戦への緊張が色濃く浮かんでいる。
バラクは二人を火のそばに促し、無言のまま杯を差し出した。
「……単刀直入に言おう」
バラクは二人の族長を真っ直ぐに見据えた。その鳶色の瞳には古狼としての鋭い光が宿っていた。
「このままでは我らは帝国の『良き隣人』などにはなれん。……良く飼い慣らされた『猟犬』かあるいは愛玩用の『ペット』に成り下がる」
「なっ……!」
ゴードが息を呑み、杯を持つ手をピタリと止めた。エルラの能面のような顔も微かに険を帯びる。
「どういうことだ、バラク。天翼殿は我らと対等な交易を約束したはずだぞ」
「ええ。彼女の言葉に嘘はないでしょう」
エルラの言葉を遮るようにバラクは深く首を振った。
「問題は軍師殿の心積もりではない。我ら自身の『在り方』だ」
バラクは焚火の炎に視線を落とし、言葉を継いだ。
「考えてもみろ。病を治す薬は帝国から貰った。クルガンの目を欺く策も帝国から授かった。そしてクルガンを討ち倒すのも帝国の刃だ。……我らはここまで天翼殿の掌の上で言われるがままに踊ってきただけではないか」
その事実を突きつけられ、ゴードとエルラは押し黙った。
「戦いが終わった後、生き残った北の民はどう思うだろうな。我らを『北を救った英雄』と称えるか? ……否だ。彼らの目に映るのは帝国の圧倒的な力と、その陰に隠れて生き延びただけの力なき我らの姿だ」
バラクはギリッと奥歯を噛み締めた。
「それではこの厳しい北の地で独立した主権など保てん。対等な関係など絵に描いた餅だ。いずれ我らは帝国の威光に完全に飲み込まれることになる」
「……冗談じゃねえ!」
ゴードがドンと床を叩き、怒りを露わにした。
「俺たちは誇り高き北の戦士だ! 誰かの後ろに隠れて命を拾い、その首輪を喜んで受け入れるような腑抜けの集まりじゃねえ!」
「……ええ。バラク殿の危惧はもっともです」
エルラもまた静かに、しかし冷たい炎を瞳に宿して同意した。
「無論、天翼殿の知恵は恐ろしいほどに深い。一目も二目も先を見通しておられる。あの御方からの助言はこれからも素直に乞うとしよう。それは我々の力不足ゆえ、許してもらうしかない」
バラクは立ち上がり、ゲルの中央で二人の族長を見下ろした。
「だが全てが終わった時に『帝国の後ろをついて回っていただけ』という結末だけは、絶対に避けねばならん。我らは我らの手でクルガンの支配に引導を渡す」
「やってやろうじゃねえか!」
ゴードが獰猛に笑い、エルラも無言で深く頷いた。
彼らはただ守られるだけの存在から自らの足で立ち上がり、未来を勝ち取るための真の『北辰同盟』へと、この夜確かな脱皮を遂げたのだ。
◇◆◇
密議を終えた直後、バラクは天幕の影に控えていたナディムを呼び寄せた。
「ナディムよ。エノク老師に伝言を頼む」
「はっ。何なりと」
ナディムは恭しく頭を下げる。
「『我ら北辰同盟はただ観客席には座る事はせん。我らは我ら自身の戦いをする』……そう伝えてくれ」
バラクの言葉にナディムの瞳がわずかに見開かれた。だが商人の彼はすぐにその言葉の裏にある「覚悟」を正確に読み取り、深く一礼した。
「……承知いたしました。老師にはしかとお伝えいたします」
ナディムは闇に溶けるように静かにゲルを後にした。
◇◆◇
クルガン軍の巨大な野営地。
夜の闇に紛れた輜重部隊の荷馬車の陰で、エノクは一人小さなランプの灯りを頼りに紙の束に目を落としていた。
カナンの民を総動員して張り巡らせた情報網。それはすでに覇国の軍の血液である「兵站」や「情報」の隅々にまで食い込んでいた。
彼らはリスクを負いながらも、軍師の策を現実のものとするための最前線で戦っている。すべてはカナンを取り戻し、自分たちの「分け前」を最大限に引き上げるためだ。
そこへカナン遺民の連絡員が音もなく近づき、ナディムから送られてきた暗号文を手渡す。
エノクはそれを一読し、そして――。
「……ほほう」
深く刻まれた皺の奥で、彼の灰色の瞳が面白そうに細められた。
「バラクの奴もようやく己の足元にある『危機』に気が付きおったか」
彼は暗号文を火にかざし、灰になるのを見届けながら、夜の冷気の中にフツフツと笑い声を漏らした。
「少々遅いが、まぁよかろう」
エノクは立ち上がり、遠くで燃えるクルガンの本陣の篝火を冷ややかに見つめた。
彼自身はとうの昔に腹を括っている。自分たちがただ軍師に助けられるだけの存在であれば、戦後の「分け前」など高が知れていると。だからこそ彼は自らの命を天秤に乗せ、カナンらしい「情報の支配」という戦い方を実践し続けているのだ。今彼らが構築したネットワークはそのまま北の商圏を席巻する武器となるだろう。
「……軍師殿の策は完璧じゃが、それゆえに遊びがない。……我らも我らできっちり働きに対する『対価』を分からせねばならんからな」
エノクは連絡員に向き直り、ニヤリと老獪な商人の笑みを浮かべて言った。
「ナディムにこう返せ」
「『わしもワシで動くで、ヌシらも分け前を多く貰えるよう死に物狂いで頑張れ』とな」
連絡員が闇へと消えていく。
エノクは再び荷馬車の陰に腰を下ろし、静かに目を閉じた。
嵐の前夜。誰かに与えられた未来ではなく、自らの手で掴み取るべき未来へ向けて。エノクの魂は熱く研ぎ澄まされていた。
https://x.com/Lina_age8
公式X、ゲッコーさんが何かやった!?まさか、Xまで対処可能だったとは…
「このアカウントは一時的に制限されています」
「不審な操作が確認されているアカウントです」
ゲッコー「……(お任せあれ。リナ様の尊厳は我々が守り抜く)」




