第341話:『疑鬼の宮殿、禁じられた密会』
ヴォルガルド覇国の心臓部、『黒の宮殿』。
獣の皮と骨で組み上げられたその巨大な天幕は、かつては北方の民を束ねる力の象徴であった。だが今、その内部は濃密な血の匂いと燻る脂の煙、そして何より主の放つ狂気じみた猜疑心によって、息をするのもためらわれるほどの澱んだ空気に満たされていた。
玉座に身を沈める覇王クルガン。
その巨躯はまるで檻に閉じ込められた手負いの獣のように小刻みに震えている。
黄色く濁った瞳はもはや正常な焦点を結んでいない。広大な北の地を睨み据えていたかつての覇王の眼光は失われ、ただ自らの足元に忍び寄る見えない影だけを血走った目で追い続けていた。
「……誰も信じられん」
低く地を這うような唸り声が、静まり返った宮殿に響く。
周囲に控える漆黒の近衛兵たちは微かな衣擦れの音さえ立てることを恐れ、石像のように硬直していた。
「南の奴らは帝国と通じ、肥え太っている……。その甘い汁の匂いを嗅ぎつけ、この宮殿の中にすら俺を裏切ろうとする鼠どもが蠢いている……!」
ギリリと。
クルガンが玉座の肘掛けを握りしめる音が鼓膜を打つ。その強靭な指が硬い木目をミシリと軋ませ、砕いた。
「俺の目を盗み陰でこそこそと……俺の首を帝国へ差し出す算段でもしているのだろう。……許さん。絶対に許さんぞ」
彼は唐突に立ち上がり腰の大剣を乱暴に引き抜いた。
ギャリィィンッ!
鋭い金属音が空気を切り裂き、鈍く光る刃が炎を反射する。
「――全軍に布告しろ!!」
狂気に満ちた咆哮が宮殿を揺るがした。
「これよりいかなる理由があろうとも、部族同士が密室で会合を持つことを固く禁ずる! 連絡は全てこの俺を通せ! 違反した者は帝国と通じた反逆者とみなし、即刻死罪とする!!」
絶対的な恐怖の宣告。
その言葉は凍てつく北風に乗り、瞬く間に覇国全土へと広がっていった。
誰もが息を潜めた。
隣の天幕の友すらも信じられず、ただ自分の首が繋がっていることだけを祈り震える夜が始まった。
◇◆◇
だが恐怖で縛り付けようとするその禁令は、皮肉にも北の民の心に燻っていた不安の火種に最悪の形で油を注ぐ結果となった。
南の豊かさ。帝国の影。そして覇国の将軍たちの裏切りの噂。
真偽の定かではない情報の濁流が彼らの頭をかき乱している。
「本当の情報が欲しい」
「もし南の噂が真実なら、我々だけが貧乏くじを引かされているのではないか」
「このまま覇王の機嫌を窺っているだけで部族は冬を越せるのか……?」
疑心暗鬼は忠誠心よりも遥かに速く、そして深く人の心を蝕んでいく。
クルガンに絶対の忠誠を誓っていたはずの親クルガン派の族長たちでさえも、その不安の奔流から逃れることはできなかった。
彼らは生き残るための「真実」を求め互いの顔色を窺い、視線で合図を送り合った。
そして禁令から数日後の月のない新月の夜。
本拠地の外れ、放棄された古い倉庫の地下。
黴と埃の匂いが立ち込めるその薄暗い空間に、数人の族長たちがまるで罪人のように息を殺して集まっていた。
「……来てくれたか」
一人が震える声で囁く。
「ああ。……だがこんなことをしていると知れれば……」
「背に腹は代えられん。南の連中が帝国から物資を受け取っているという噂は本当なのか?」
「私のもとにはボルガス将軍がすでに南と繋がっているという情報まで入っている。もしそうなら我々はただの捨て駒だぞ……!」
ランプの頼りない光に照らし出された彼らの顔は焦燥と恐怖で青ざめていた。
彼らは裏切るために集まったのではない。ただ真実を知り、部族を生き延びさせるための方策を相談したかっただけなのだ。
だがクルガンの狂気の前では、その「相談」そのものが死を意味する。
「……とにかくまずは情報を集めよう。互いの耳に入った噂をすり合わせ何が真実かを……」
一人の族長がそう言いかけた、まさにその時だった。
ギィィ……。
油の切れた蝶番が軋む、耳障りな音が響いた。
地下室の空気が一瞬で凍りつく。
誰も動けなかった。
重い足音が一つ、また一つと石の階段を下りてくる。
その足音は決して慌てることなく、まるで死刑台へと歩みを進める執行人のように冷酷なまでに規則正しかった。
やがてランプの光の端に一つの影が揺らめいて現れた。
「――おや」
氷水のように冷たい、そしてどこまでも優雅な声。
現れたのは参謀ヴィクトル・フォン・ローゼンベルクだった。
彼の銀縁眼鏡がランプの炎を反射して残酷に光る。
そのレンズの奥の灰色の瞳は罠にかかったネズミを見下ろすように、底知れぬ嘲笑と憐憫を浮かべていた。
「……覇王陛下の厳命に背き、このような夜更けに随分と熱心な『会合』がおありのようですね」
ヴィクトルの言葉が落ちた瞬間、族長たちの顔から完全に血の気が失せた。
膝の力が抜け、ある者はその場に崩れ落ち、ある者は震える手で壁にすがりつく。
「ち、違う! これはその……!」
「我々は決して反逆を企てていたわけでは……!」
必死の弁明は恐怖でひきつり、声になっていなかった。
「弁明は不要です」
ヴィクトルは薄い唇を三日月の形に歪めた。
「陛下の言葉は絶対。それに背いた事実がある、それだけで十分ですよ」
彼の背後の闇から漆黒の甲冑を纏った兵士たちが無言で、しかし確実に絶望の輪を狭めるように姿を現した。
抜き身の刃が鈍く光る。
「……さあ、参りましょうか。覇王陛下が皆様の『弁明』を、首を長くしてお待ちかねですよ」
ヴィクトルの冷たい声が地下室に響き渡る。
それは彼らの部族の終焉を告げる無慈悲な死の宣告だった。
ランプの炎がふっと吹き消された。




